コーラ
ギターの音色に合わせ、彼女は歌っていた。この寒さに足早に歩く人も、思わず足をとめて聴き入るくらいの腕前だ。よく通る、低い声。ギターの音に良く合う声。彼女と同い年くらいの女の人が一人、じっと聴き入っている。
彼女は言っていた。きれいなだけの声じゃ、薄っぺらいと。
『あいつは声も薄っぺらきゃ、言葉も薄っぺらい』
あの日そう言って、彼女は嘲笑った。
眼球振盪がある彼女は普段、人の顔を真っ直ぐに見ることが出来なかった。人と話すとき、いつも視線だけが明後日の方向を向いていた。子供の頃、大袈裟に真似をされたり、からかわれたりしたから恥ずかしいと言っているのを聞いた事がある。
後にも先にも、彼女が人の顔を直視したのはそれきりだった。
彼女とはじめて会ったのは、とある福祉施設だ。その施設運営をしていたのが父親ということもあり、学校が終わると時々手伝いに行っていたのだ。
彼女はパンの成形をしていて、クロワッサンカッターを使いながら、首を小刻みに振っていた。おかしな癖のある人だな、と思っているのが伝わったのか、こちらを見ようともせず、
「眼球振盪。生まれつきなの。変だと思うなら見るな」
感情の読み取れない声で事も無げにそう言って、成形をつづけた。
「あなたは福祉ボランティアもどきをしにきたの? それとも自分とは違うものを見にきたの? どっち?」
「……すみません」
「…………あの薄っぺらと同じじゃ、ないみたいね」
その人はこちらをジロリと一瞥したあと、もう一言も喋らず、ただ黙々と作業を続けていた。
後で聞いた話では、彼女は何度も施設長や特定の知的障害者と衝突している問題児だということだった。
いつの間にか、歌声は止んでいた。どうやらチューニングをしているらしい。さっきからそばで聴いている女の人は友だちだろうか。あの福祉施設では見せたことのない、おだやかな表情で談笑している。
これが彼女の、本当の顔なのか。
彼女の歌声は不思議だ。技術が高いわけではない。特別きれいな声をしているわけでもない。技術だけならば、元施設長の方が上だろう。けれど。
あの男は、こんな心に沁みる歌は歌わなかった。
元々、東京で俳優の養成学校のようなところに入っていたらしいあの男は、チャリティーイベントなどでスピーチをした後、必ず自作の歌を歌い、ギターをひいた。独りよがりのパッと見良い子ちゃんな主張を、安っぽい言葉とメロディで包み隠した、偽善的な歌ばかりを歌っていた。
当初は何とも思わなかった。けれど今は、ひどく耳障りだ。
あの男はスピーチの終わりにいつも、私の話をした。
『私の 娘は いや息子と 言いましょうか心と 体の 性が 違うんです ですが 偏見に 負けず がんばっていきて いるんです』
注目してもらいたい。ただそれだけで、人のプライベートを言いふらすな、クソッたれ! 誰よりも偏見を持っているのはお前だろう。
『心は 男 なんだから 自分の ことは 僕と 言うべきじゃ ないのかい』
『学校の 制服でも スカートなんて おかしいよ 心は 女 じゃ ないんだ から』
煩い、煩い、黙れ黙れ……! 心の性別をわざわざ公表して生きてる人間が、そういるもんか。
理解するふりなんかするな。
生きていく邪魔なんか、するな!
私は、あの男は嫌いだ。救いは、あの男が安っぽいオリジナル曲ばかり歌っていた事くらいか。有名どころの歌手などカバーしていたら、絶対にその歌手の事まで嫌いになっていただろうから。
施設に着いてすぐにしていた事は、学生服から、作業しやすい服に着替える事だった。他のスタッフの方が気を使ってくれたらしく、着替えるときは時間をずらし、いつも一人で着替えていた。
思い出したくもない事は、そのときに起きた。
怒りと恥ずかしさを堪え、理事長兼施設長であるあの男に抗議した。しかしあの男は、加害者が知的障害者だというだけで向こうだけを庇い、私の話など聞こうともしなかった。
『あの人はじゅんすいな だけ だよ それほど お前の ことがすきだって こと なんだからいいじゃないか あの人は かわいそうな 人なんだから がまんしなさいよ 障害者は 恋を しちゃ いけないって いうのかい? お前も 障害者のくせにそれくらいの 事わからない のかい?』
お前も障害者のくせに
その言葉を耳にしたとき、不思議と何の感情もわかなかった。ただ、薄々感じていた事が、はっきりと形をとって目の前に現れたようにおもえた。
ああ、この男には、自分は得体の知れないものとして見られていたんだ。
気持ち悪い。ただひたすらに、この目の前の男が気持ち悪かった。
「どうした? 薄っぺらに毒饅頭でも食わされたか」
外でぼんやりしていた私を呼びに来たのだろうか。感情の読み取れない声で、彼女が歩いてきた。横に座ると男のように舌打ちし、話しはじめる。
「薄っぺらは知的障害者の肩ばかり持つから、あてにならない。かわいそう、が口癖だしね。たとえ相手が性犯罪常習犯でも、こっちのせいになる」
「家でもいつも言ってます。知的障害者は天使だって」
「天使、ねえ……。ヒャーッヒャヒャヒャ……!」
毒舌が売りのお笑い芸人のような笑い方で、彼女はひとしきり笑った。
「ヒャハハ……今どき、天使? 日常でそんな芝居の台詞みたいなの大真面目に言ってんの? 天使だって神だって人を殺すのに。バカじゃねーのあいつーっ! ……で、どう思う?」
「どう、って……?」
「あれを天使と思ったか」
「……人間が天使のわけ、ないじゃないですか。普通の人間です。褒められれば嬉しい、叱れば泣く、いい事も悪いことも考えてる、純粋でも何でもない、普通の人間です!」
「そのとーりっ! 薄っぺらの身内とは思えない回答ありがとう」
「けっこう、毒舌なんですね」
「ま、ね。私、施設長嫌いだしさ。人のこと簡単に可哀相かわいそうって言う人嫌い。煮立てたコーラみたい。気が抜けてて生ぬるくて、甘ったるくて、真っ黒で。飲み干す価値も無い人よ」
彼女はそう切り捨てた。
「施設運営より、自分良い人アピールのスピーチに一生懸命なトップが、立派なワケないじゃん。……スタッフさんの移り変わり激しいのが、その証拠」
寡黙な人かと思ったが、よく喋る人だ。
「スピーチだって声も薄っぺらきゃ、言葉も薄っぺらいときてる。『僕は社会的弱者の味方ですぅ』て言えば皆すばらしい人だって言ってくれる。そういうコンセプトを一人芝居に盛り込めば皆騙されてくれる。結局さあ、」
逃げたんじゃないの、楽な方に。
「楽な方、ですか?」
横に座っていたはずの彼女は、いつの間にか私を見据えていた。焦点が定まらぬ目は、慣れない動作に苦心しながら懸命に私をとらえている。
「俳優目指してたけど、大都会じゃ芽が出なかった。だからあきらめて生まれ故郷でも何でもない田舎町に来た。福祉を、障害者をテーマに扱った一人芝居ばかりを手がけてきた。なぜそんなのしか扱わなかったか理由は簡単。批判する声よりも、絶対に味方してくれる声の方が大きいから。嫌われる覚悟も持てない奴が舞台に立つな。……田舎の高校の演劇部でも口酸っぱくして言われる事を、俳優目指してた奴が知らなかったのかなぁぁ? ふざけんなよな。私、演劇は好き。ギター弾くのも好き。だから余計に腹がたつ」
「ギター弾くんですか?」
とてもそんなふうには見えない人なのに。彼女は気を悪くした風でもなく頷いた。
「見様見真似でね。元々、歌うことも好きだから」
「えー、そうは見えない」
「よく言われる。友達とはよく、カラオケ行くんだけど」
彼女は一人で黙々と作業しているイメージしかなかった。でもそれは『演じていた』彼女で、本来はもっとアクティブな面があるのかもしれない。
「そろそろ、ここやめようかと思うんだ。あなたも薄々わかってると思うけど、ここ、未来は無いよ。第一、週五日朝九時から夕方五時まで作業して工賃がひと月八千円ってありえなーい。あ、やめるときはあなたの仇ぶん殴っておくけど」
冗談で言ってるような雰囲気ではなかった。
「あいつ何回かやらかしてる常習犯だから。知的障害があるからって理由でいつも庇われてるし、本人もそれ利用してる感じはあるし。多少荒っぽい方法使っても、矯正しなきゃ本人のためにもならないしね。ここ潰れたら、どっか他所の施設に入るか作業所で働く事になるんだから。そこで問題おこしたり恥かいたりする方が『かわいそう』だ」
そう言って彼女は、その場を去った。去り際に、こう言い残して。
「あなた、もうここに来るな」
受験を言い訳に、私は施設に行くのをやめた。施設長はただこう言っただけだった。
『ここで経験 した ことはぜったいに マイナス にはならない からね いろんなかわいそうなひとが いるってわかって 障害 にもまけずに がんばって いるのをみたら 自分もがんばろう って おもえる はずだろう?』
そう、いろんな人がいた。
障害にあぐらをかく犯罪者も。
それを全面的に庇う目立ちたがりの自己中も。
そいつらの心に届かなくても『人間として』接したひねくれ者も……。
チューニングの手を止め、彼女が、ふっ、と顔をあげた。ほんの数秒こちらを見つめ、またすぐに作業に戻る。
その顔に、さっきまでの穏やかさは無い。
「知り合い? あの子」
友だちらしい女の人が彼女に訊ねた。
「さあ、どうだかね。……ゴメン、やっぱり今日はもうやめるわ。寒くなってきたし」
「相変わらず、気まぐれねえ」
まぁね、彼女はそう言いながらペットボトルを取り出した。プシュッ、と小気味良い音がする。
「この寒いのにコーラなの? 見てるだけで寒くなりそう。私、あったかいミルクティー買ってくるね」
友だちらしい女の人が自動販売機に駆けて行くのを見やると、彼女は呟いた。
「生ぬるいのはまっびら。飲み干すなら、冷たくなきゃね」
視線だけが、明後日の方を向いていた。




