82 異世界にて
――かくして運命の日は訪れた。
冗談めかしてそんなことを言うナツナは、足元に展開した魔法陣をくまなくチェックしていた。その魔法陣からは蜘蛛の糸のような細い線がいくつも伸び、ユーダの谷底に集められた大量のモリオンから魔力を吸い上げている。
ナツナの言うところの運命の日。この世界からヒューマーが消え、二つの世界を繋ぐ道が永遠に失われる日だ。
想像していたよりもヒューマー側の混乱は少なかったらしい。魔物と魔族の脅威から逃れられると分かった以上、その他のことは些末なことなのだろうか。
あるいは、真実を知る者が上手くコントロールしているのだろうか。遠い地のヒューマーの王様に緩く思いをはせながら、ナツナは傍らに集まっている四人をちらりと見やった。
ヒューマーの国の住人だった四人は、輪になるように向かい合っている。じわじわと彼らの魔力が増えていくのを感じて、ディックは目を細めていた。
最後の最後で何かあったら事だとバリーも近くに控えている。が、実に暇そうに背伸びをしていた。
「あー、緊張してきた……」
ムニムニと自分の頬をいじりながらシャオが呟く。平常心平常心、と何度も唱えているがあまり効果はなさそうだ。ぷるぷると尻尾が揺れていたり、その場で足踏みしてみたりと落ち着きがない。背後に控えていたザクロもそわそわと尾を振っている。
そんな様子を見てむしろ緊張がほぐれているのだろう。碧は肩に止まっているベリルを優しく撫でていた。ルーナもフードから顔を覗かせている。
「いよいよか……俺もハーフじゃなくなるのかね?」
「どうだろうね。ヒューマーが存在した記録まで抹消されるんだったら、そうかも」
「それは……そうか」
確かに愛し合った二人のことを思い出しているのだろう、しかめっ面になったその息子の肩に黒馬が顎を乗せてくる。襟足の辺りに覗いていた銀の鎖をふんふんと嗅いだ。
『忘れちゃったらボクがお話してあげるよ。グレイってば出会ってからはフランサスの話ばっかりしてたもん。多分、ボクのがエドより詳しいよ』
「フフッ、マジか」
グレイの鼻先を撫でながら、エドワードは穏やかに笑う。ジェレミーもそんな一人と一匹を微笑ましく見守っていた。
その背中に軽い衝撃がぶつかってくる。
「おっと……心配しないで、チビ」
ぐりぐりと頭をこすり付けてくる大きな狼に、ジェレミーはそう告げる。不安げに耳も尾も下げてしまっているチビはきゅんきゅんと子供のように鳴いていた。
しゃがみこんでふわふわの頭を抱え込むように撫でくり回し、ポンポンと叩く。
「もう大丈夫だからね」
ぎゅっと抱きしめてやると、暖かい舌が頬を撫でる。額を合わせるように頭突きをされ、ジェレミーは笑った。
「さて、じゃあ」
――創めようか。
ジェレミーの言葉を合図にするように、四人の足元に魔法陣が浮かび上がる。それぞれ契約した精霊の紋章から、吹き出すように魔力が広がる。
瞬間、この世界から出ていくことを選んだヒューマーの足元に金色の光を湛えた魔法陣が展開した。歓喜と不安の声が世界に満ちる中、それは為されていく。
シャオと、その背後に浮かび上がった焔の美丈夫が口火を切った。
「進撃の精霊の名において命ずる。道を拓く力よ、理を超えた世界への門を開け!」
広がる炎が空高く、不可視の隔たりを轟轟と熔かす。サラマンダーの視線が、エドワードの肩に手をかけていたウンディーネへと向けられる。
「恵みの精霊の名において命ずる。命を癒す力よ、その身に宿る全てを雪げ」
重なった声がそう唱えれば、魂と肉体が洗い流される。無垢となった彼らは、魔法陣の光の中をふわふわと泳いでいる。
「流転の精霊の名において命ずる。留まらないための力よ、新たな大地へと種を運べ」
柔らかく暖かな風が彷徨う光をサラマンダーが開いた道へと導いていく。遥か空の上、その先へと。
それを見上げているヒューマーは、どれくらいいるのだろうか。知るのはナツナだけだ。
彼女は大きく手を広げ、高らかにうたう。
「根源たる祖へ命ずる。分岐の果てまで舞い戻り、今再び進め!!」
肉体を残していたヒューマーの足元に真っ黒な魔法陣が展開する。凄まじい勢いで魔力が吸い上げられ、モリオンが次々と蒸発するように消えていった。
数秒としないうちに、ナツナの足元の魔法陣は光を失い、砕け散る。上空でそれを見守っていたバリーがかすかに口元を緩めた。
「意外とギリギリだったね」
ギムレーを筆頭にニダウェからかき集めたモリオンはその大半が消費され、残渣が宙を漂っている。魔力消費の規模が想定よりも大きかったのか、それともこの世界に残ったヒューマーが思ったよりも多かったのか。
「金網の撤去めんどくさいな……」
言葉とは裏腹に、彼の口角は上がっていた。何はともあれこの場が滞りなく終わってからである。バリーは一際力強く羽ばたいて瞬くように消えていく光を見つめていた。
世界のあちこちから立ち昇る光はやがて数を減らしていく。碧の周りで渦巻く風も徐々に勢力を落としていく。
最後の光が空の向こうへ消えるころ、ジェレミーは空へ向けて手を掲げた。ちらりと碧へ視線を向ける。
「生命の精霊の名において命ずる。生の根源たる力よ、交わらないものたちへ永遠の安らぎを」
触れずにいてくれれば良かった。理解などいらなかった。それすら叶わなかったから、距離が必要になった。永遠に交わらない、視界に入れることすら叶わないだけの途方もない距離が。
後悔も諦念も塗りつぶしていくように空の穴が閉じていく。大蛇から失われた身体はもう戻らない。二つの世界は繋がりを失う。
一際大きく魔法陣が輝いた。思わず目を覆いたくなるような光に、チビやエドワードたちは目を細める。閉じたくはなかった――だって、最後かも知れないのだから。
そんなささやかな抵抗も虚しく、世界は白く飛ぶ。
『ありがとう』
真っ白な世界で精霊はそう言った。
『これで、我々も責任を果たすことが出来た』
あぁ、どうか。どうか幸せに。四つの声が混ざり合った祈りが空に捧げられる。
――そうして真白の世界に色が戻った。
何度も瞬きしたせいで滲む視界を袖で払い、エドワードは息を呑む。シャオはぱっと口元を抑えた。
だって、そうしないと、際限なく緩んでしまう。
「終わった……みたいだね」
「はい――わっ!」
変わらずそこに佇んでいた二人に、いち早く狼と鷹が飛びついた。一拍遅れて他の魔物とシャオが続く。エドワードはガシガシと頭を掻いて咄嗟に空を仰いだ。
魔法の余波が未だキラキラと木漏れ日のような光を降らせている。それがひどく、目に染みるのだとそう思うことにした。
「そう……こっち選んだんだね」
誰も良かったとは言わない。彼らの選択を、覚悟を推し量ることはしない。ただ笑って、それを受け入れた。
「てことは、この世界にヒューマーは二人だけになったんですね」
ディックはナツナの方を確認するように振り返った。視線を受けたナツナはこくりと頷く。が、すぐに首を傾げた。
「ヒューマーっていうか、異世界人、かな? ボクらとは祖が違うわけだし」
あちらの世界において人間の祖は猿だ。故にジェレミーと碧はデミヒューマーになってはいない。
「まぁ、なんでもいいから後始末手伝えよな」
「そうだね、ミズガルドは特に忙しくなりそうだし」
「魔物たちにも手伝ってもらえるかな」
胸にすり寄ってくる鷹と猫を撫でながら、碧は空を仰ぐ。二度と開かれることのない道の名残は、消え去ろうとしていた。
これからは、この世界でたった二人。異端として生きていくのだ。
これにて『せめて異世界では普通になりたかった』を閉幕とさせていただきます。
途中で一年以上も更新を止めてしまった時期がありながらも、何とか完結とすることが出来ました。
それもこれも最後まで追いかけてくださった皆様のお陰です。
本当にありがとうございました。
個人的にはそれなりに納得のいく最後に出来たかなと思っています。
そもそも小説もどきは幾つか書いてきましたが、完結させられたのはこの作品が初めてとなります。
今、めっちゃくちゃ嬉しいですひゃっほい。
彼らの今後についてはまた思いつき次第、外伝的に追加していこうかと思っています。
新しい小説のプロットや登場人物設定なんかもネリネリしているので、また何か連載し始めたら生温かく見守っていただければと思います。
改めまして、最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。
良ければ評価や感想等いただければ、更なる励みになります。
またどこかで視界の端にでも引っ掛けていただければと思います。




