81 宣告
その日、世界の人々は一様に耳を押さえていた。初めは耳鳴りかと気にも留めなかった者もいたようだ。
しかし耳の中、頭の奥でごうごうと風が唸る音が確かに聞こえてくるのだ。頭を振る者もいれば、顔をしかめて耳殻を引っ張っている者もいた。
その音は段々と近づいてくるように明瞭になり、やがて声となって言葉を紡ぎ始める。
『総てのヒューマーに告ぐ』
重々しい声が、老若男女問わず人々の脳内に響く。皆辺りを見回して、自分だけがおかしいのではないのだと確認していた。そうして揃って空を見上げる。
どうしてか、声はそこから降り注いでいるように感じたのだ。
『今から貴殿らに二つの選択肢を与える。期限は三日だ。よくよく考えて選ぶといい』
誰、何、とそこかしこから疑問が噴出していく。声は小さな小さな笑い声を漏らした。
『俺は二十年前に、空よりこの世界に舞い降りた男だ』
ざわ、と人々の間に騒めきが走る。皆が思い思いに言葉を交わす中、黒いローブ者たちからは血の気が引いていく。
その中の魔法使いが声の位置をたどろうと躍起になるが、四大精霊の魔法に爪先ほども届くはずはない。民衆をコントロールしようにも、求心者たるオルターは未だ牢の中だ。
『俺は、この世界と隣り合うように存在する世界からここへ来た。その世界には魔物はおらず、ヒューマーだけが住む……貴殿らにとっては理想郷だろう』
騒めきは徐々に大きくなり、歓喜となって破裂する。快活を叫ぶヒューマー達に、城下を見下ろしていたジェイドは息を呑んだ。隣に控えていたグランは真っすぐと海の方角を見つめている。
『こちらの世界とあちらの世界は間もなく道によって繋がれる……その際にこの世界はヒューマーが住むのに適さない環境となってしまう。故に貴殿らに二つ、選択肢を伝えよう』
ジェレミーは一つ咳ばらいをした。意識して低めに話していたので喉が疲れてきたらしい。エドワードが水を差しだしてくるのを片手を上げて受け取り、唇を湿らせた。
その隣では風の紋様が浮かぶ両手を組んだ碧が祈るように目を閉じている。その肩にはディックとナツナの手が置かれ、魔力を供給していた。
渦巻く風が細かく空気を震わせる。それは世界を駆け巡って人々の鼓膜だけを揺らしていた。
『えー……一つはあちらの世界へと移住することだ。ただしこの世界で築き上げてきたものはことごとく失われる。全てあちらの世界にて一から積み上げることになるだろう』
記憶も身体も無くしてしまう、と言うのを限界まで濁すとこういう具合になるのか、とスペイスはそんなことをぼんやりと考えながら空を見上げていた。が、続いた言葉に大きく目を見開く。
『もう一つはヒューマーとしての身体を捨てることだ……つまりはこの世界で、デミヒューマーに生まれ変わることとなる』
再び騒めきが駆け抜ける。隣でバリーがふすん、と鼻から笑いを漏らしたのを聞いて、ラビは我に返った。その茶色い頭の上で、小さな友人が尻尾を振っている。
『これは、この世界を崩壊から救うための措置である。他の道も、それを探す時間も、俺たちには残されてはいない』
ジェイドがバルコニーの手すりに乗せていた手を一層強く握りしめた。グランも拳を硬くしている。
『これらは全て、バーテン教団の間違った教えがもたらした結果だ。この措置はヒューマーへの救済ではなく、世界を救うために必要なことだ……俺は、』
一度言葉を切ったジェレミーは、深くゆっくりと息を吸う。別にこんなことを伝える必要などなかった。普遍的なヒューマーは喜んで身体を捨ててあちらの世界へ向かうのだろうから。
それでももし、輪廻転生というものがあるのなら。魂に、その在り方が残るのなら。
『俺は、神の子ではなかった。お前たちに神の子にされたんだ……そして、それを不快に思っていた』
ジェイドの眼下から悲痛な声が聞こえてくる。偽物なのではないかと怒りをあらわにする者もいる。絶望のあまりその場にへたり込んでいる者だっていた。
たった一人の子供に、何を夢見ていたというのだろうか。たった一人の子供の、何を見ていたというのだろうか。
『俺にすがるな、俺に祈るな。俺は……お前たちの期待に応えたくない』
ぐっと胸元で握り締められた拳を風が撫でる。くすぐるような柔らかい風に、ジェレミーは碧の方を振り返る。碧は瞼を閉ざしたまま、少しだけ微笑んだ。
笑い返すように息を吐いて、ジェレミーは空を見上げる。
『この決定に関して、質問も抗議も受け付けない。繰り返しになるが、転移が起こるのは今より三日後となる。それまでに選んでくれ――この世界を捨てるか、ヒューマーとしての身体を捨てるか』
以上。
ジェレミーがそう言い終わると同時、ぷつりと風が止まる。途端に今まで大人しくしていたチビがジェレミーに飛びついた。疲れた様子の彼に身体を寄せ、ぶんぶんと尻尾を振る。
碧も組んでいた手をほどいた。肩に乗っていた大きさの違う手に、労うようにぽんぽんと軽く叩かれる。
「お疲れ様です」
「ねー、すっごい疲れたぁ」
甘いもの食べたーいとナツナはディックにおんぶをせがむように抱き着く。手慣れた様子で肩に乗った頭を撫でつつ、ディックは心配そうに眉を下げる。
「組換えの魔法は大丈夫?」
「問題ないよー。意外なんだけど、そこまで大きくは離れてなかったんだよね」
ナツナの視線を受けた碧もこくりと頷く。
「まぁ、エドさんみたいにデミヒューマーとのハーフが生まれるくらいだからね。あんまり大規模な変化の必要はなかったよ」
唐突に話題に挙げられたハーフエルフが目を丸くした。生物的にかけ離れた生き物同士はそもそも子孫を成すことは出来ないのだ。
「だからヒューマーの中にまだ残ってる祖の部分っていうのかな? そこにアプローチかける感じで再分化させる――組換えっていうよりは、進化し直しってとこかな?」
「聞いてる限りヤバイ魔法にしか思えねぇな」
「だから、転移時の一回こっきりにするって話になってんの」
ナツナの言う通り、この魔法は三日後に使われるのが最初で最後となる。そもそもが発動に必要な魔力が大きすぎるのだ。この先どんな天才が現れたとして、再現は不可能と言っていい。何せ、四大精霊全ての力を借りたとしても不可能なほどなのだから。
そのためこの数日、レーラズはてんやわんやだった。
今彼らがいるのは、ユーダ――世界の裂け目の程近くだ。その隣をガタゴトと車輪を軋ませながら荷車が通っていく。
谷に横付けされるように並べられたそれらには一様に布がかけられていた。そしてその場の魔物は皆その荷車から距離を取っていた。
「こっちは順調?」
「うん、結構集まってるよ。ニダウェの方には残ってたみたい」
シャオが尻尾をぴこぴこ揺らしながら答える。そのままかけられていた布をぺろりとめくれば、黒い水晶体――モリオンが顔を覗かせる。
近くにいる魔物たちは思い思いの方法で不快感をあらわにしていた。ぶわわ、と毛を逆立てているルーナを撫でながら、碧はごめんね、と呟く。
「魔力はこれでまかなえるし、モリオンの処理も出来るしで一石二鳥だな」
「今回の警備は万全です。ニダウェのドワーフやバハムーンにもご助力いただいてますしね」
ディックが見上げた先では唯一飛べるバハムーンがベリルとともに旋回している。視線に気づいたのか、バリーは真っすぐに下りてきた。
「切り出しは魔法で行うように厳命してるよ。残った分は折を見て処分しなきゃだね」
「くれぐれも気を付けてね」
ジェレミーの言葉にぴっと親指を立てて見せたバリーが再び翼を広げて港の方角へと飛んで行った。
モリオンは外界からの刺激に反応して内包する魔力を放出する。が、魔力に対しては反応が鈍いため、切り出しは魔法使いが慎重に行っていた。バリーの話では、ラビも率先して手伝いをしているそうだ。
魔法使いの少ないノア王国でモリオン製の武器があまり出回らなかったのは、そのためだったようだ。
「本当に後は待つばかりだね」
「はい」
うなん、と震えを理由に存分に甘えてくるルーナを撫でて、碧は頷いた。
本日午後に投稿予定の次話で完結となります。
もうほんの少し、お付き合いくださいませ。




