77 無理解
こつこつと足音が下りてくるのを聞き、バイパーは少し顔を上げた。薄暗い視界の中を鉄格子が遮っている。あの、おぞましい黒馬との闘いの傷が処置されて直ぐに彼はここ、地下牢へと移されていた。
重い鉄の扉が軋みを上げて開く。ひゅう、と吹き込んできた風は冷たく、鎧をまとっていない身体には少し堪えた。
「団長……」
力なくそう呟いたバイパーの前には、岩のような大男――グランが立っていた。彼もまた鎧ではなくラフなシャツとスラックス姿だ。彼は掲げていたランプを手近にあった机に置くと椅子を引き寄せてバイパーの前に座る。
寒色の瞳は困ったようにしかめられており、床に座り込んでいたバイパーを歪めて映している。
「大事ないか」
「……はい」
一応は労いの込められた問いにこくりと頷く。実際打ち身だけで骨は折れていなかった。水を吸い込んだ肺にももう痛みはない。
「……納得がいかないという表情をしているな」
少し呆れたような声音に、握り締めた拳が音を立てる。ほとばしる感情のままに開いた口を片手で制され、ぐっと唇を噛み締めた。
「お前は自分が正しいことをしたと思っているか」
「ッ、当然です! 王都に侵入して来た魔族と魔物を退治しようとしただけなのですから!」
「それが俺の命令に背くものだったとしてもか?」
静かに問うグランの声に怒りは乗っていない。だが、わずかに彼を気圧するような響きがあった。押し黙ったバイパーに重ねるようにグランは口を開く。
「俺はあの時待機命令を出していた。彼らの出方を見たかったからな……まぁ、教団の残党に情報が漏れたのは俺の落ち度か」
唇が皮肉気に歪む。頭を捕らえ、解散するよう王命を出したところで膨れ上がっていた狂信者が止まるはずもなかったのだ。そういった輩が反発・暴走することは目に見えていた。故にグランは残党の動きには注意を払っていたのだ。
しかし、バーテン教団は信徒があまりにも多すぎるのだ。ノア王国の国民の九割以上はバーテン教団を信仰している。残りのごくわずかな民や魔法使いの一部は『ゲネウス』という精霊信仰を信じていることが多い。
そんな中、グランは無宗教だ。そしてその理由はバーテン教団にあった。
あの日。ジェレミーがグリョートの山へと捨てられた日、ノア王国ではそれを盛大に送り出すパレードが開かれていた。グランも家族に連れられて、そのパレードを見ていたのだ。
豪奢な神輿に乗っていた神の子は、自分と同じ年頃の無表情な青年だった。ぼんやりとした青い目で、熱狂する人々を見下ろしていた。
それを彼の家族や世間は、浮世離れした特別な存在の証なのだと思った。グランも、そう思っていた。
――なんの偶然か、そのがらんどうの視線が身体を通り過ぎるまでは。
目が合ったなどと情熱的なことを言うつもりはない。グランと同じ色をした彼の目には何にも映ってはいなかったのだから。グランは彼にとって背景ですらなかった。
あれは、庇護するものに向ける目ではなかった。そもそも彼は自分たちに目を向けてなどいなかった。心を傾けてなどいなかった。
それは代々騎士の家系に生まれ、幼いころから国民を護ることを志していたグランにとっては衝撃的な出来事だった。己と同じような恵まれた体躯を持ちながら何故、彼はヒトを護ろうとしないのか。
その答えを得ることはついぞなかったが、この衝撃はグランの心に根強く染みついていた。
「お前がバーテン教団の教徒であることも、奴らにそそのかされたことも知っている」
バイパーは特に優秀な騎士であった。碧のことを本気で心配し、正しい道に取り戻そうとしていた。
教団は、そこにつけ込んだのだろうが、それでも。
「だが、行動に移す前に少しも考えなかったのか? 王が教団を解体した意味、俺が出した命令のその意味を」
バイパーは変わらず黙ったままうつむいた。ため息を吐かないようにと一瞬息を詰め、グランは言葉を続ける。
「例の……アオイ殿の保護任務に就く前に俺が言ったことを覚えているか?」
自分でもその時のことを思い返しながら問う。グランの口の端が自嘲気味に吊り上がるのに、バイパーは戸惑いながらも頷いた。
「この世界は変わるどころか、終わろうとしていた」
「は、……?」
唐突な言葉に理解が及ばず、間の抜けた声が漏れる。グランもその反応は予想していたのだろう。ふ、と小さく笑みをこぼすとバイパーの目の前に一枚の紙をかざした。現王であるジェイド・ノアの署名と刻印が一番目につく場所に刻まれている。
バイパーの目が大きく見開かれるのを待って、グランは紙の片隅に火を着けた。その報告書はじわりと煤けると、あっという間に燃え尽きて塵になる。
「彼らは二つの世界の破滅を防ぐために、ここを訪れたのだ。この国には嫌な記憶しかないだろうに……特にあのエルフは」
「そんな、そんな妄言を信じていらっしゃるのですか!?」
「黙れ!!」
雷のような声が落ち、狭い地下牢に反響する。初めて声に険を乗せたグランは、手のひらの中の塵を強く握りしめた。
「我が国随一の魔法使いバイパーが精霊の領域に同行し、精霊そのものから話を聞いている。我々ヒューマーが精霊の加護を遠ざけた理由も、モリオンの存在も、神の子の本当の意味も! この事実を前提にすれば辻褄があうのだ!!」
今まで信じてきたことが根底から瓦解した衝撃。それはバイパーだけではなく、グランをも苛んでいた。愚かではない彼らにはそれが真実であると理解出来てしまうのだ。故に絶望も大きい。
「我々に残された時間はそう多くはない。お前のしたことは腹立たしいが、最期の時間を有意義に過ごせ――これは国王陛下からの恩情だ」
グランは懐から鍵束を取り出すと独房を開錠した。格子戸を開くが、バイパーは座り込んだまま動かない。
「どうして……どうして、その事実を私に話したのですか?」
絞り出すような問いに、既に背を向けていたグランはぴたりと足を止めた。振り返らないまま、ふ、と笑みをこぼすのが聞こえる。
「俺たちは償わなければならない。世界の危機を招いたこと。魔物やデミヒューマーに迷惑をかけたこと……たった独りの子供に、世界を救うための残酷な選択をさせたこと」
はっとしたようにバイパーが顔を上げる。あの時の、突き放すような、諦めたような言葉を思い出した。
『お願いですから、放っておいてください』
事実を知った今、その言葉の意味が痛いほどに理解できる。あの時のバイパーの正義感は毒だった。
理解を諦め、ただ距離を望んだあの子に自分は何をしたのだろう。碧の友人を侮蔑し、傷つけようとした。碧の感情、意思の全てをデミヒューマーや魔物によって作られた虚像だと断じた。
碧は、一度もバイパーの正義を否定しなかったのに。
だが、それはある種仕方のないことではあった。バイパーは普遍的なミズガルドのヒューマーだ。生まれた時からそう教え込まれてそのように育っただけだ。
愚直にそれを信じ続けたバイパーと小さな切っ掛けから疑いを持ってしまったグラン。彼らの違いはそれだけだった。
「償い……」
誰もいなくなった独房の中でぽつりとつぶやく。バイパーは格子戸にそっと手を伸ばした。蝶番が軋み、音を立てて扉が閉じる。床に転がった南京錠をそのままに、バイパーは牢の奥の壁に背中を預けた。
彼は、碧やその周囲に距離を差し出すことを決めたのだ。




