75 この先とその後
シルフィードの試練、というよりは教団とのいざこざから数日。エドワードとシャオから連絡が飛んできた。それぞれウンディーネとサラマンダーの契約者になったとの連絡だ。
エドワードの方は何やら王国の方とひと悶着あったらしいが、問題なくレーラズに向かっているとのことだ。
もう二、三日もすればすべての準備は整うのだ。碧は自分にあてがわれた部屋でベッドに横になったまま、ぼんやりと考えを巡らせていた。
――正直なところ、もう選択はしていた。ただ、未練や罪悪感を消化しきれずにいるのだ。選ばなかった方は捨てるしかない。ユグドラシルの話では、通り道は永遠に閉ざされることとなる。二度と、会えなくなるのだ。
碧はのろのろと身体を起こした。それを待っていたかのように傍らのバスケットで丸まっていたルーナがベッドへと飛び乗る。ドア近くのコート掛けに留まっていたベリルも寄って来た。
『おはよう。アオイ』
『ちゃんと眠れましたか?』
すり寄ってくるルーナを撫で、心配そうにのぞき込んでくるベリルにくすりと笑った。そうして二匹と戯れていると、階下から暖かい匂いが昇ってくる。
「お手伝いしにいこっか」
頷いたベリルがすいーっとタンスの方へ飛んでいき、ルーナが前脚を上手に使って扉を開ける。その中から破らないように細心の注意を払いながらかぎ爪に引っ掛けられた上着が碧の元へと運ばれてくる。
「ふふ、ありがと」
どこか得意げな二匹の頭を交互に撫でて、碧は寝間着の上にその上着を羽織った。そのまま足元にまとわりついてくるルーナを抱き上げ、ベリルを肩に止まらせて階段を下りていく。
ここしばらく二匹はどこか甘えただ。永遠にいなくなってしまうかもしれないという不安の裏返しなのだろう。
キッチンへと続く扉を開ける。かまどの前に並んだ二つの影にあ、と小さく声が漏れた。
「ジェレミーさん、ディックさん、おはようございます」
「あぁ、アオイちゃん。おはよ」
「おはようございます。ちゃんと眠れましたか?」
かまどの様子を見ていたディックが振り返って告げた言葉がベリルと一言一句同じで、碧は小さく吹き出した。首を傾げるディックとジェレミーにベリルが少し不満げに鳴く。ごめんね、とその頭を撫でてやりながら、ルーナをダイニングの椅子に下ろす。
「ついさっきベリルに同じこと言われたから、つい……そんなに顔色悪いですか?」
「あぁいえ、そんなことは……わ、ちょっとやめてください、つつかないでっ」
眉を下げたディックにベリルが突撃していき、戯れている間に話はうやむやになる。一通りディックの髪をぼさぼさにして満足したベリルは、皿を並べる碧の肩へと戻っていった。
「う~ん、過保護」
髪に刺さった羽を払い落しながらディックが呟く。ジェレミーはけらけらと笑って切った材料を彼に渡した。
「ベリルはアオイちゃんの一番最初の仔だからね……まぁ、半分俺が騙したみたいなモンだったけど」
碧の保護のためにとそうしたが、ベリルもそれを望んでいたのだろう。あの時ジェレミーはベリルに碧の前に姿を現すようには言っていなかった。二人と一匹が戻るまで見守っていてほしい、と頼んだだけだったのだ。
一人になった碧が寂しそうにでも見えたのだろうか。面倒見のいいベリルのことだから、放ってはおけなかったのだろう。
「一緒にいたいでしょうに、アオイさんを説得したりはしないのでしょうね」
そうだろうね、と返したジェレミーがかまどの方に顎をしゃくる。ぼこぼことやや危ない音を立てていた鍋に、ディックは慌てて火を緩めた。
朝食を終え、後片付けを済ませると碧はトネリコの森へと向かった。ルーナとベリルが一緒だ。
教団の一件以降、ジェレミーとディックは碧にゆっくり考える時間を取らせようと一人になることを許している。まだ残党がいないとも限らないが、碧にはシルフィードの加護もある上にトネリコの森に戻ってきた魔物たちもいるのだ。問題はないだろう。
ジェレミーは足元に頭突きしてくるチビを撫でくり回しつつ、ディックと向き合って座る。チビもまた、少し甘えたになっているのだ。
「調べによればミズガルズには比較的ヒューマーに紛れやすいエルフや、幻視系の魔法を使える魔法使いが多少住んでいるようです」
「まぁ、たまに見つかって追い出されてたくらいだしね」
机の上に広げた地図の上。一番大きな大陸に幾つかピンが立てられている。ニダウェとも協力して調べた、デミヒューマーの住む町や村が示されているのだ。
世界の分割において、ヒューマーは一人残らずこの世界からいなくなってしまうのだ。彼らを相手に生計を立てている者への影響は計り知れない。
現状この事態を知っているのはジェレミーらを除いて一握りだけだ。ヒューマーのいないスバルムや少ないニダウェで、ミズガルズのその後のフォローをする必要があるだろう。
「世界の分割がどの程度我々の世界や意識下に影響を及ぼすかはまだわかりません……何せ世界をまたぐような大魔法ですから」
「歴史そのものから改変される恐れがあるってこと?」
「えぇ……ヒューマーがいなくなれば魔物の存在意義も薄れることになりかねませんから」
ジェレミーが小さくうなる。ユグドラシルの話では魔物はそもそもヒューマーの力となるべく精霊から加護を受けた存在なのだ。
「とはいえ、現状その存在意義は破綻していると言っていいんじゃないかな」
「えぁ……はい」
ざりざりと無精ひげの生えた顎を撫でながら、その存在意義を体現している男がそうのたまう。ディックは少し複雑な表情を浮かべたが、特に追及することはせずにぼんやりと同意した。
「貴方やアオイさんの所在も鍵になるでしょう。二つの世界において貴方たちだけがイレギュラー……お二人だけが、住む世界を選択出来るのですから」
「選択、か……」
考え込むジェレミーの気を引くようにチビがきゅうん、と小さく鳴いた。両脚の間に鼻先を突っ込んでくるのを引き寄せてわしゃわしゃと撫でる。
「何とかなったらいいんだけどね……」
「そう、ですね」
ジェレミーがぽつりと呟くのに、ディックは目を伏せて頷く。千切れんばかりに振られていた尻尾がぽてりと垂れ下がった。
◆◆◆◆◆
木漏れ日の中を歩く碧の後ろでルーナがふと足を止める。同じく頭の上を飛んでいたベリルが明後日の方向へと飛んで行った。少しだけ寂しそうに鳴く二匹だったが、呼ばれてもいない場所に立ち入ることは出来なかった。
身を寄せてきたルーナの頭を翼で撫でてやりながら、ベリルはぼんやりと輪郭が薄れていく主人の背中を見送った。
碧の視界の中で、唐突にずるり、と真っ白な巨躯が動く。ゆるやかな仕草に合わせて虹を湛えた鱗がはがれては落ちる。それを目で追って俯いた客人に、赤い瞳が薄く細められた。
『迷っておいでですか?』
「……少し」
絞りだすように答えた碧に、高い位置にあった白い頭がゆっくりと下がってくる。
『生きる世界は決めておられるようですが……何か気がかりが?』
こくりと黒い頭が頷く。そうでしょうね、と優しい優しい声が脳内にささやく。ユグドラシルは座り直すようにとぐろを解いてさらに身体を低くした。
『お話しましょう。貴方の迷いを、願いを、私は聞きたい』
「……うん」
迷惑だから。自分が聞くのが嫌だったから。そんな思いから閉ざしていた口を、碧はゆっくりと開いた。




