74 隣でも後ろでもなく
ジェレミーがエドワードと交流を持って数年。エドワードはグリョートの山を登っていた。ジェレミーが普段使っているのだろう、獣道を辿った先には、初めて見た時よりも随分と立派になった家が建っている。ジェレミーに募る魔物に驚きながらも手伝った甲斐があるものだった。
前庭にはいつも通り集まっていた魔物たちが思い思いにくつろいでいる。その中からシルフィードの眷属が何体か飛び出してきてエドワードを迎えてくれた。
「いらっしゃい、エディ」
魔物が騒いでいるのに気付いたのだろう、家主も顔を覗かせた。
出会った時と全く変化のないエドワードとは対照的に、この数年でジェレミーの容姿は随分と変化していた。見事な黒髪は白が混じり銀に近いロマンスグレーに。日に焼けた頬には大きな傷跡が走り、鍛え上げられた体躯には炎のような赤い墨が絡みついている。
ワイバーンに協力して入れてもらったというそれを初めて見たときは、エドワードも目を丸くしたものだ。
そしてここ数年で、彼を取り巻く環境も変貌していた。
ジェレミーはノームやワイバーンたちによって鍛え抜かれた身体でもってこの世界で働き始めた。冒険者ギルドで長年放置されているようなフリークエストをこなし、生計を立てるようになったのだ。
抜きんでた体格と力を持った彼は、次第に人々の目を集めるようになる。その結果、彼がグリョートの山中に住んでいることが露見してしまったのだ。
山中に押しかけてくるような命知らずがいなかったのが幸いしたか、災いしたか――ジェレミーは再びヒューマーの英雄となってしまった。
神の子の没後に彼の意志を継ぐべく現れた屈強なヒューマー。魔物の住む山に居を構え、人里を守る大いなる守護者。
言いたくないことを山と抱えていたことを理由に、説明を避けたのも一つの要因だとは思うが。
「相変わらず人気者だねぇ」
二重に意味を含んだ言葉にジェレミーは苦く笑った。その足元でぶんぶんと尻尾を振る二メートルほどに育った狼は、初対面から相変わらずエドワードのことなど眼中にない。
「あぁそうだ。また近く魔物狩りやるんだってよ」
「……懲りないね」
エドワードがふかふかのマフィンとともに持ってきた報せにジェレミーはげんなりと肩を落とした。近く彼にも参加要請が来るだろう。
今から言い訳を考えておかなければ、とマフィンを一口かじる。グリョートの山でとれたベリーを使ったジャムが練り込まれたそれは程よく甘く、すさんだ気持ちを少し向上させた。
「何がそんなに怖いのかねぇ……」
強いもの、制せないものが恐ろしいというのなら、ジェレミーも迫害されていなければおかしいだろうに。意思疎通ができるか否かによるものならば、それも間違いだろうとエドワードは思う。
どれだけの言葉を尽くそうと、ジェレミーはヒューマーの味方にはなりえない。
彼の庇護対象は己を受け入れてくれたものであり、己が迎え入れたものだ。彼に期待し、前へ前へと押しやるものは彼の身内にはなれない。
「詳しい日程とかわかったらまた伝えるわ」
「うん。ありがと」
エドワードとてノア王国に愛国心などはない。ただ両親の眠る場所が無事でさえあればいいのだ。この国はエドワードを本当の意味で受け入れてはくれない。
自分になついてくれる魔物たちの方が可愛いし大事だ。それに大した戦果など上がらなくても、国民たちは勝手に盛り上がっている。失敗したところで国に影響などないのだ。
エドワードはふと、その催しの中に消えた青年のことを思い出した。遺体は見つからなかったと聞くが、魔物がヒトを喰らうことはなかったはずだ。誰も踏み入ったことのない森の奥へと行ってしまったのだろうか。
「神の子とやらが生きてたらもっとやばかったんだろうな」
「……そうだね」
少し硬い声音にエドワードは瞳を丸めた。が、ジェレミーはしれっとした表情でティーカップを傾けていた。そうして、ふ、と小さく息を吐くと口を開く。
「死んでてよかったのかも、ね」
エドワードは少しだけ眉を上げる。積極的に手助けこそしないものの、ジェレミーがヒューマーに害をなすことはない。無関心や嫌悪とは違う感情のようだが、表情からは読み取れない。
「あ、そうだ。冬服の採寸したいから近いうち店来いよ。前のシーズンのだとちょっと小せぇし……お前いつになったら成長止まんの?」
「身長はもう伸びてないよ」
「胴とか腕回りの話してんのよ、俺は」
エドワードはそれ以上この話題をつつくのをやめた。自分の正体を知ってなお態度を変えない稀有な友人だ。話したくなるまでは聞かない方がいい。
エドワードは待つのが得意なのだ。死ぬまでには話してもらえればまぁ、それで。そんな風にのんびり構えていた。
――転機が訪れたのは唐突だった。
ジェレミーが連れてきた青年。アオイという名のその子は、かつての神の子のように異世界から来たのだそうだ。
そしてジェレミーと同じように、魔物を受け入れて懐かれている。
この時点でエドワードにはちょっと引っかかる点がないではなかった。だがそれを問い詰める気はさらさらなかったし、そんな暇も早々になくなってしまった。
魔物を殺すためだけに作られたモリオン製の武器。二百年近く共にあった左腕の喪失。無関心から憤怒へと振り切れた友人。
エドワードが激痛と出血多量で意識を失っていたあの時。激情を破裂させたジェレミーを呼び戻したのは、あの場にいた誰よりも弱い碧だった。
碧はジェレミーの隣に並ぶことは出来ない。エドワードやシャオのような魔法の才能などなく、カルラやバリーのような腕っぷしもなければ、ナツナやディックのような突出した頭脳もない。
それでも碧は、ジェレミーの腕を引いたのだ。碧は彼にすがらなかった。
人格者であることを期待される辛さを、何もかも呑み下して矢面に立つことを強要される苦しさを、程度こそ違えど碧は知っていたから。
覚醒能力を自覚し、力を手に入れたところで碧は弱い。碧は魔物たちを剣にも盾にもしないからだ。
碧は弱いからこそ、誰にでも優しい子供だった。護られるべき子供だった。
――その子供にこの世界の運命を委ねることの、なんと残酷なことだっただろう。
◆◆◆◆◆
手の甲に濡れた感触を覚え、ジェレミーは視線を動かした。鼻面を押し付けていたチビが不思議そうに見上げている。ぐいぐいと押し付けられてくる頭を撫でながら、随分長く物思いにふけっていたらしいことを自覚して苦笑した。
それは正面にいた碧も同じらしく、手だけがふわふわとルーナやベリルを撫でている。碧の方はまだ戻ってきていないようだ。
ジェレミーはカルラから碧の過去のことを聞いていた。アニマで覗き見たナツナが愚痴のようにディックに話しているのも聞いたことがある。
優しくいい子に作られたこの子は、どちらの世界を選ぶのだろうか。
見知らぬヒューマーにすら温情をかけるこの子供は、血のつながりを捨てることができるだろうか。
ジェレミーは静かに目を閉じる。ウー……と少しだけ元気のない声で唸ったチビを抑えるようにわしゃわしゃと撫でてやった。




