72 老爺と青年
からん、と再びベルが鳴って扉が閉まる。ジェレミーはカウンターの向こうへと歩いていく店員の背を見送り、きょろきょろと店内を見回した。
言っていた通りオーダーメイド中心らしく、店内にはサンプルらしき服を着たマネキンが数体置かれているだけだ。幾らか設置されている棚には上質な生地が並べられている。
「とりあえず採寸するか……名前は?」
クリップボードと巻き尺を手に戻ってきた男の言葉に、ジェレミーは一瞬息をつめた。聡いらしい男はその様子に気づき、ちょっと困ったように持っていたペンでこめかみを掻く。
「名乗るの嫌なら適当に呼ぶぞ。ちなみに俺はエドワードだ、エディでいいぜ」
さらりとジェレミーの葛藤を流すついでのように名乗った男――エドワードはどうする? と視線で問う。ジェレミーは沈黙したまま首を横に振った。そ、とこれまた何でもないような態度でエドワードはコンコンとクリップボードをペンで叩く。
「んー……じゃあ、目の色にちなんでアクアにでもしとくか」
一人完結させたエドワードがさらさらと紙の一番上に仮名を綴る。よし、と呟いてクリップボードをカウンターの上に置くと今度は巻き尺を手にジェレミーに歩み寄った。
「上着脱いでもらっていいか?」
「……」
「嫌か」
再び沈黙を返したジェレミーに再び困った顔をするエドワード。それ以上に困って、というよりは焦っていたのはジェレミーの方だ。
上着の下に着ていたシャツは生地が少し薄くなっていた。脇腹の辺りに浮き出した獣の足跡のような鮮やかな赤は透けて見えてしまうかもしれない。
多少サイズが合わなくても既製品で済ませるべきだったかと後悔が首をもたげ始める。うぅん、と小さくうなったエドワードが巻き尺から手を放した。
床に落ちてくしゃりと丸まるはずだったそれは、位置を変えずにその場にとどまった。え、と瞠目するジェレミーにエドワードがひらりと手を振る。そうして彼に背を向けた。
「見られんの嫌なら向こう向いとくからよ。数字だけ読み上げてくれるか?」
つい、と指揮をするように動かされた指先に合わせて、巻き尺が宙を舞う。魔法だ、と認識した時には巻き尺が甘える蛇のようにウエスト近くをくるくる彷徨っていた。ジェレミーは少しためらったが結局は上着を脱ぎ、合図するように巻き尺をつついた。
数字を読み上げる声とペン先が紙の上を滑る音。店内は外とは切り離されたように不思議と静かで、落ち着く空間だった。寡黙そうには見えない女装の麗人はジェレミーに合わせて口数を減らしてくれているのだろう。
「ん……よし。いやマジでガタイいいな。駆け出し冒険者ってとこか?」
「……まぁ、そんな感じです」
このころにはジェレミーも多少会話を続けようとする気概を見せていた。掲げられた手の中に巻き尺が巻き取られていくのを見ながら、上着を羽織り直す。
「なら、ギルドカードあるか? この町のギルド所属なら割引できるぞ」
「あ、いえ、持ってないです」
「そ? まぁ、フリーでもやっていけそうだもんな」
そういうのもあるのか、と資金源になりそうなそれを頭の隅に置いておく。くるりと向き直ったエドワードは採寸用紙をペン先でこつこつと叩いた。
「取り敢えずシャツとスラックス何着か……上着もいるかね。野営とかすんならマントか大判のコートもあった方がいいと思うが……どうする?」
「あー……えっと、お任せしてもいいですか?」
「おー。二、三時間で仕上がると思うから、飯でも食ってきたらどうだ?」
引き出しが独りでに開いては、布や糸が空中を飛び交い始める。裁ちばさみは流石に自分で扱うらしく、じょきじょきと切られた布が寄り添っては縫い合わされていく。
その合間に見えた時計の針は両方ともおおむね天井を指していたが、それが気にならないほどに目の前の光景は興味をそそった。じぃっと突っ立ったままに突き刺さってくる視線に、エドワードは小さく笑う。
「座れば? あ、なんか飲む?」
ぼんやりと見ていたジェレミーの膝裏を掬い上げるように椅子が飛来してきた。鍛え上げられた体幹に敗北したそれがことりと床に落ち、小さなサイドテーブルが隣に並ぶ。
ことりことりと水差しとグラスがテーブルの上へと着地するのが、アクアマリンの瞳に映っていた。
エドワードはミズガルドに住まうデミヒューマーとしての心得があるため、普段は魔法をひけらかすようなことはしない。が、ジェレミーの反応がなかなかによかったもので少し楽しくなっていた。かつ、彼は彼で訳ありっぽかったので言いふらされるようなこともないだろうという打算もあった。
鼻歌混じりにはさみを動かし、風を編む。精霊に愛されたエドワードにとってこの程度の平行作業は苦にもならない。
「すごいなぁ……」
ぽつんと漏れるように落ちた言葉にボタンをつけていた針がかくりと曲がっておかしな方向へ糸を入れた。やべ、と小さく呟いて糸を抜き、やり直す。
そっとその声の持ち主の方をうかがってみるもほぼ無意識の言葉だったらしく、表情は変わっていない。なんとも不思議な青年だ、と当時のエドワードはそう思っていた。歳の割に情緒が発達しきっていないというか、なんというか。老爺心的に心配になってくるようなちぐはぐさだった。
一方でエドワードの魔法を眺めていたジェレミーはこの世界に迷い込んですぐのころを思い出していた。彼が初めて見た魔法は王宮付きの魔法使いのものだった。
通常の武器よりも魔物の障壁を砕きやすいのだと得意げに放たれたかまいたちは、数メートル先の的を真っ二つに切り裂いていた。その時はすごい威力だと感心すらしていたが、魔物に傷をつけるには遥かに足りないことを知った今としてはなんとも言えないものだ。
その力の大きさも、使い方も。あの魔法使いたちとは雲泥の差だ。これだけの力があれば、彼こそヒューマーの英雄になれるだろうに。
ふとそんなことを考えて、ジェレミーは苛立っている自分に気がついた。ふぅ、と息を吐いて視線を膝の上に置いていたカバンへと落とす。
――もぞり、と。薄い布地が確かに波打ったのが見えた。
「……」
ジェレミーは咄嗟にその丸いふくらみを上から押さえた。ぴゃッ! と小さな抗議の声が上がる。慌ててエドワードの方へと目をやったが、幸い彼には聞こえていなかったらしく相変わらずこちらに背を向けたまま布地や糸と踊っていた。
眉間をもみながら手の中の体温を確認する。ジェレミーの手のひらよりも少し小さい。エドワードの方をうかがいつつ、カバンを少しだけ開けて中を盗み見た。
眠たそうな金色の瞳と目が合う。しぱしぱと瞬いたそれがジェレミーを映してぱぁっと輝いた。瞳と同じ色の羽毛に覆われた小さな羽を一生懸命にはばたかせてジェレミーに飛びつこうとする。
ひよこに似たその魔物はフィアラルの雛だ。カバンの中で寝ていたのを気づかずにそのまま連れてきてしまったらしい。
どうしよう。そればかりが頭の中を回っていた。出かける前によくよくカバンの中を確かめるべきだったと今更な後悔がこみ上げ、冷たい汗がにじむ。
カバンから飛び出さないようにと指先であやすが、状況などわからない幼い魔物はご機嫌にきゅるきゅると甘えた鳴き声を上げてしまった。
「……あ?」
静かな店の中に響き渡った愛らしい声に、エドワードが手を止めて振り返った。




