71 透明な偶像
ノームとの修行は数年に及んだ。彼の宣言通りジェレミーはひたすらゴーレムとの組み手をさせられ、ザクロと名付けられる前のワイバーンが悪ノリで造った大剣の扱いも時間をかけて学んだ。
ゴーレム相手に勝ち星を重ねられるようになった頃。もう大丈夫だろうとノームの領域からグリョートの山へと戻った。
人界から離れ、十八歳から二十二歳になる間に、ジェレミーはヒューマーの尊き英雄となっていた。
ジェレミーがノームの領域にいた間、魔物たちはその近くでそわそわと彼の帰りを待っていた。それが計らずも山の外へと迷い出てしまう魔物の数を減らしていたのだ。
偶然を奇跡にこじつけた美談。それに思うところがないわけではなかったが、ジェレミーは些末なことだと切り捨てた。そうして魔物たちの力を借りて山中に家を立てて暮らすことを決めたのだ。
自給自足を続けること更に数年。ジェレミーは一つの問題に頭を悩ませることとなる。
「これもそろそろキツイか……」
呟くジェレミーが目の前に広げているのは随分とくたびれたシャツだ。繕ったり継ぎ足したりしつつ騙し騙し来ていたのだが、立派にパンプアップした胸筋のせいで前が閉まらなくなりつつある。
グリョートの山に捨てられた際に幾つか持たされた衣服はどれも似たような状態となっていた。たまに訪れては魔物にあしらわれて去って行く騎士団やならず者から頂いたもので補充していたのだが、それもそろそろ限界が近づいていた。
『ジェレミー大きくなったもんね。ズボンも短くなっちゃってる』
シャツを前に困り果てていたジェレミーの脳内に幼い声が入り込む。剥き出しのくるぶしを見てくすくすと笑っているが、彼にとっては死活問題だ。流石に野生に帰るわけにはいかないのだ。
「町に買いに行くしかないかな……」
幸いにも衣服同様頂戴した金品が幾らかある。一番近い町も山に来る前に寄ったので道筋は朧げだが覚えていた。
大抵の大きな町は魔物の侵入を防ぐために背の高い壁に囲まれているからそれを目指して歩けば迷うこともないだろう。
「大丈夫、かな……」
川面に映る己の姿を見てぽつり、呟く。微かにでも確かに残っていた幼さはきれいさっぱり消失し、体格も相まって威圧感を醸し出している。
よくよく見ればあの時の青年だとわかるかもしれないが、ほとんどのヒューマーが覚えているのは偶像だ。教団の、それも上層部の者にでもうっかり出会ってじっくり見つめ合ったりしない限りは大丈夫だろう。
そうしてジェレミーは数年ぶりに人里へと下りたのだ。
訪れたのはグリョートの山に一番近い町、キファだった。身元証明の書類がなかったため通行料を取られることとなったが、無事壁の中へと足を踏み入れる。目深に被ったフードをさらに引き下げて、辺りを見回した。
ヒトがいっぱいいる、と。ジェレミーは益体もないことを思った。ずらりと並んだ出店やショーウインドウ。威勢のいい掛け声が飛び交い、色んな匂いが流れてくる。
それら全ては、透明な膜の向こうの出来事のようだった。
「さっさと済ませて帰ろう……」
独り言ちたジェレミーはもはや人里を己が帰る場所だと認識してはいなかった。
どこに何があるのかもよく分からず、ふらふらと町をさまよい歩く。服屋と思しき店を見つけたが、その隣に天から舞い降りる青年の紋が縫い付けられた旗がぶら下がっていたので、何となく避けてしまった。
そうして歩き回っているうちに己の偶像が耳の中へと流れ込んでくる。天使様。命を賭して魔物を討伐成された神の子。それらからも逃げるように足を動かしているといつの間にかどこにも行けなくなっていた。
立ち止まってしまったジェレミーの周りで楽しそうに、嬉しそうに、救世主が語られる。彼の友人に対する侮蔑と嫌悪が、溢れかえっている。
無意識に握り締めた拳に爪が食い込み、痛みに我に返った。だらだらと再び足を動かしだすが、纏わりつく声はどこへ行っても途切れることはない。
喉が詰まるような心地には、と小さく息を吐いたその時だった。
「気分でも悪いのか?」
喧騒の中でもしっかりと通る声に顔を上げた。うわ、とでも言いたげに表情を歪めた美丈夫が視界に入る。
「なんつーカッコしてんだ、お前」
店の軒下で煙草を吸っていたその男は煙と共にそう吐き出した。
その時のジェレミーはくるぶしが剥き出しになったつんつるてんのズボンとボタンが可哀想なことになっているシャツ、その上に薄い上着を一枚という褒められた格好ではなかったのは確かだった。それでも。
「……」
「何」
ゆるく首を傾げたその男とジェレミーは暫し見つめ合っていた。というよりは互いに互いの格好を観察していた。
ジェレミーの視線が自分の首から下に向いているのに気づいたのだろう。男は高く結い上げた金色の髪を揺らすように笑った。
「似合ってんだからいいだろ」
「……まぁ」
瞳の色に合わせているのか、その男は淡いエメラルドのワンピースを身に着けていた。肩幅を誤魔化すように羽織られたケープは丁寧な刺繍がされており、男の怜悧な美貌をよくよく引き立てている。
「服探してんなら寄ってくか?」
短くなった煙草を携帯灰皿に突っ込み、男は背後を指差す。男らしくごつごつとした指先が示していたのはジャケットを模した看板だった。
「お前、多分既製品だとチェストに合わせたら袖だるんだるんになるぞ。ウチはオーダーメイドメインだから体型に合わせて仕立てられるからよ」
気安くそう言った男はそのままジェレミーを招き入れるように扉を開けた。からん、と燻し色のベルが優しい音を立てる。釣られるように脚がそちらへと動いた。
男は透明な膜の内側へと、いともたやすくジェレミーを迎え入れて見せたのだ。
後の親友と初めまして。




