66 特別な子供
ジェレミー・ティーエンはイギリスの産まれであった。少し高齢の両親の間に生まれた、待望の第一子である。ジェレミーの誕生とほぼ同時期に父親が友人から引き取り、チビと名付けられたシベリアンハスキーと共にそれはもうすくすくと成長していた。
身体は大きいが物静かで穏やかな少年であった。
そんな大人しい少年が青年となるほんの少し前――彼はとある事件を起こした。
彼を知る者は皆口をそろえてこう言うのだ。『こんなことをする子じゃなかった』『いつも人に優しくて、親切な子だった』
証言はどれも過去形だった。
――では、今はそうではないのか?
結論だけ述べるのであれば、そんなことはない。彼はいつだって親切で、優しい子供だった。その優しさが向けられる先が、限定されているだけのことだ。ジェレミーは誰にでも分け隔てなく優しい人間ではなかった。しかしそれを責められるいわれなどないのだ。
人を傷つけて遊ぶような人間が人に優しくして貰おうなど、そもそもがおこがましいのである。
事件は、そんなことに気づきもしなかった子供のイタズラが発端となった。当時のジェレミーは大人しいと思われていたので、度を越えたからかいを受けることがあった。何をされても曖昧に笑うだけ。そんな態度が一人の子供を増長させてしまったのだ。
馬鹿な子供はあろうことか、ジェレミーの大事な兄弟であるチビに石ころを投げつけたのである。石ころが大きかったのと、当たり所が悪かったらしく、チビは頭から出血してしまった。
子供は今度こそジェレミーは取り乱して泣き喚くだろうと思っていた。それをにやにや傍観してやろうと思っていたのだ。
まさか、白い毛並みを撫でていた手のひらが突然に硬い拳となって自分の鼻っ柱をへし折りにくるとは露ほども思っていなかったのである。一撃目で目の前を赤く染めた少年は、慌てて謝ろうとしたのだ。くらくらしていた頭を地面に擦り付けて謝罪した。
残念ながら増えた血流でごうごうとうるさかった耳に命乞いは届かなかったようで、下げられていた後頭部に強烈な突き落としを喰らい、再び目の前に火花を散らすこととなった。
結局他の子供が大人を呼んでくるまで、ジェレミーを押さえられるだけの人数が集まるまで、馬鹿な子供は攻撃を受け続けることとなった。この間ジェレミーは一切言葉を発することも無く、少しの躊躇いを見せることも無かった。
事件そのものに関しては当時ジェレミーが少年であったことと、相手が先にチビに怪我をさせたことが考慮され、喧嘩両成敗となった。が、彼は念の為に精神鑑定を受けることとなる。
その結果、ジェレミーは通常の少年よりも感情が希薄であると結論づけられた。彼は大人しかったのではなく、外からの刺激を何とも思っていなかったのだ。
では、何故今回のような事件を起こしてしまったのか。それは、彼にとって怒りだけが明確に感じられる感情だったからだ。味覚において辛さだけが痛覚として脳を刺激するのと同じように、ジェレミーにとって怒りだけが唯一衝動として心を揺らすものだったのだ。
加えて彼は自分が家族や友人と認識した者が傷つくことを過度に厭った。己の体格と力の強さに自覚を持ち、彼らを自分の庇護対象としていたのだ。
前述の通り、ジェレミーは同年代の少年に比べて体格と運動神経に恵まれていた。そのため、もっと大きくなってから同じような事件を起こしてしまえば取り返しがつかないことになるかもしれない。この事態を重く見たジェレミーの両親は、彼に二つの約束を授けた。
『自分の為に拳を振るわないこと』
『無抵抗の人間に攻撃をしないこと』
せめて自分への口撃や攻撃には耐えるように。彼が力を奮うに値する理由が、周囲が納得するような理由があるように。勢いのままに相手を殺してしまわないように。怒りへの制御が出来ない以上、同じことが起きないように両親は自分やチビの身の回りについても最新の注意を払っていた。
幸いに、ジェレミーは自分に向けられる悪意に耐えられる心と体を持っていた。彼にとってからかいやいたずらは頬を撫でるそよ風にも満たないものだ。しかし、彼は自分の考え方感じ方が他人と違うことを知ってしまった。
自分が『普通』でないことの自覚は、少年にとって耐えがたい違和感だった。ジェレミーは普通になりたかった。あるいは、
――自分が普通とされる世界を、望んだのかもしれない。
◆◆◆◆◆
ジェレミーは気がつくと全身びしょぬれだった。間断なく降って来る水のベールが視界を覆っている。瞬きをしてまつ毛に絡みついた水分を追い払っても目の前の景色は変わらなかった。
どうやら自分はレンガ造りの噴水の中で尻もちを着いているらしい。学校へと行く途中だった筈なのにな、とぼんやりそんなことを思いつつ、取り敢えず立ち上がろうとした。
「……どこ、ここ」
いくらジェレミーの感情が希薄とは言え、その時は流石に驚きを禁じ得なかった。寄宿舎へと続いていたはずのレンガ道を、馬車が駆け抜けていく。立ち並ぶ簡素な露店に、低い建物。遠くに見える城にも見覚えがない。
夢でも見ているのかと立ち尽くしていた彼を、いつの間にか喧騒が包んでいた。それはそうだろう。何もない空中から、ヒトが光に包まれながら現れたのだ。その光景に、人々が神秘を感じてしまうのも無理からぬことだった。
加えてジェレミーがこの世界のヒューマーには珍しい黒髪を持っていたことも大きな要因となる。
ジェレミーは訳も分からないままに王宮へと丁重に連行され、当代のノア王国国王のガリオン・ノアに謁見した。その頃には宰相の座についていたオルターが彼の世話を願い出た。それどころか宰相の座を辞し、瞬く間に神の子を信仰する宗教団体を作り上げたのだ。
それは、あっという間にノア王国全土に広まり、ジェレミーの退路を断った。
「貴方様は特別なのです。我々ヒューマーを魔物から救うために神が遣わした救世主……それこそが神の子」
繰り返し言い聞かされたこの言葉が、ジェレミーの心を動かすことは終ぞなかった。オルターはジェレミーの庇護対象には成りえない。彼らは、ジェレミーを利用しようという気概を隠そうとはしていなかった。
身寄りも頼りも無い青年。自分たちの役に立たなければ、価値などない行くところなどないとそう囁き続けた。自分たちの役に立てるようにと妄言を詰め込み、適当に武器の扱い方を教え、あっさりとグリョートの山に捨てた。
彼らは元よりジェレミーに特別な力があるなどとは思っていなかった。教団にとって彼は同年代よりも身体が少し大きいだけの青年でしかなかった。
もしも、彼らがもう少し賢かったなら。神さまの存在を信じて彼に優しくし、仲間にしていたとしたら。きっと魔物とヒューマーの歴史は大きく変わっていたのだろう。今となっては栓の無いことだ。
教団はジェレミーを捨ててから数日後、その亡骸を探して山に精鋭を送り込んだ。しかしどれだけ探しても無惨に引き裂かれたはずの彼の身体は一欠けらも見当たらなかった。恐らく爪の一片も残さず喰われたのだろうと結論付け、教団は捜索を打ち切った。
そうして教団の為の物語は作り上げられ、世界中のヒューマーの心を救った。




