46 ディアボロスの兄妹
ふと振り返った視線の先で碧が倒れた時は心臓が止まるかと思った、とナツナはその日の日記にそう書いた。
すわ、死んでいるのかと慌てて駆け寄って胸に耳を当てれば、心臓は規則正しく動いていた。ついでに安らかな呼吸音も聞こえた。2人揃ってその場に崩れ落ちた後、ナツナが碧を背負ってレーラズへの帰路を急いだ。
レーラズに辿り着くころには日は暮れきっていたが、碧は眠ったままだった。族長への挨拶もそこそこに自分たちの家へと運び、ナツナのベッドに寝かせる。
その傍に座り込んだナツナが頬をつついてみても起きる気配はない。
「起きないね」
「そりゃ、夜だからね。ナツナも寝なさい」
優しくそう言って頭を撫でたのはナツナの父、カガリだ。家族で揃いの赤い瞳は切れ長でディックの方によく似ている。
むぅ、と不満げに尖らせた唇が見えないふりをして、カガリは両手を広げた。ナツナは数回唸ってから、カガリの胸に飛び込んだ。ひょい、と力強い腕に持ち上げられ、ナツナは自分の部屋から連れ出される。
「ディックは今日、夜番の日だから自分のベッド使えってさ」
「はぁい」
しぶしぶといった体を隠しもせずに布団へと潜り込む娘の姿にカガリは苦笑を零した。だが、この我が儘娘を寝かしつけておかないと、聡明な息子の方に怒られてしまう。
「お休み、ナツナ」
「……おやすみなさーい」
頭まで布団を被るのを見守り、リビングへと戻る。丁度支度をしていたディックと鉢合わせた。滑り止めのついたグローブをはめ、十字架のような穂先のついた鎌槍を抱えている。履いたばかりのブーツでコツコツと地面を叩いて確認すると、ドアを開いた。
「いってらっしゃい、気をつけてな」
「はい、行ってきます」
折り目正しく挨拶を返したディックがこん、と石突で地面を叩く。カガリはこくりと頷いて夕闇に消えていくディックの背を見送った。ドアから入り込んだ冷たい空気が鼻をくすぐり、1つくしゃみをする。コート掛けからディックの上着だけが消えているのを確認し、カガリは自分も妻の待つ寝室へと戻っていった。
吐いた息がぼんやりと白く立ち昇る。仄暗い森がぽっかりと口を開けて待っているのを数秒見つめ、ディックは静かに一歩を踏み出した。さく、と下草が音を立てる。
レーラズを囲むようにスバルム一帯に広がるこの森はトネリコの森と呼ばれ、多種多様な魔物や動物たちの住処となっている。スバルムに住まうものは皆、この森の恵みで生きていると言っても過言ではなかった。特に他種族との交流をほとんど持たないディアボロスたちはその恩恵を強く受けている。
それゆえにトネリコの森に敬意を表し、守り人と呼ばれる役職が存在する。簡単に言えば、森の管理者だ。問題が起きていないか見回り、他種族と協力・交渉して資源の管理を行っているのだ。
ディックはその才覚から若干16歳にして守り人となった。まだ着任して数カ月だが、前任者も舌を巻くほどの能力の高さを見せている。
細く長く吐いた息が木々の隙間を昇っていった。それを見送って、ディックは森の中をゆっくりと進む。耳に痛いほどに静かな夜だ。ディックはひょい、と大きく張り出した枝に飛び乗る。がさりと揺れた木の葉が音を立て、また直ぐに静寂に戻った。
――相変わらず、何も聞こえない夜だ。
大きな幹に寄りかかり、ディックは目を閉じた。
明け方に家に帰ったディックは鳩尾にナツナのタックルをくらい、2時間ほど仮眠を取る羽目になった。自然と目覚める少し前にお腹が空いたと喚くナツナにボディプレスをくらい、肺の中の息を全て叩き出されながら跳ね起きた。
「……アオイはまだ寝てる」
流石に小言の一つも言ってやろうと開いた口を閉じる。腹の上に乗り上げたままの頭を撫でると、色が揃いの目を細めていた。
「果実水だけ飲ませたけど、全然目を開けないの。物音に反応もしない」
ナツナが一度言葉を切る。
「アニマで見たけど、意識がここにないの。どっかに連れてかれちゃった……ボクでも追えない」
毛布にしわが寄る。ぐりぐりと頭を擦りつけてくるのは泣きそうな声を誤魔化すためだろうか。ディックは上半身を起こして彼女の背中をぽんぽんと叩いた。
「彼女が意識を失ったのは森に入ってすぐだ……もしかしたら、主様に呼ばれたのかもしれない」
「ん、だといいけど……」
不安げなナツナの脳裏に浮かぶのは碧にひどく固執していた黒衣の集団だった。大した魔法が使えるようには見えなかったが、薬を盛られていたのだとしたらたちまちナツナの手からは離れてしまう。この天才肌の妹はそれが嫌なのだ。
幼いながらアニマに覚醒した特別なディアボロス――それがナツナだ。ディックの4歳年下の可愛い妹はまごうことなく天才だ。2人の精霊だけではなく神さまにまで愛された子供なのだと、彼女を知る大人は大概そう言う。
「何にも出来ないのヤダな……アオイともっといっぱいおしゃべりしたいのに」
いい子なんだよ、すごく遠慮しいだけど。碧の内側を覗き見たナツナは碧によく懐いていた。アニマを持たないディックにはよくわからないが、何か彼女の琴線に触れるものがあったのだろう。
「頭回るように糖分取るか……パンケーキとフルーツサンドどっちがいい?」
「……パンケーキ。蜂蜜いっぱいのやつ」
「ん、わかった。ちょっと待ってな」
ディックはナツナの両脇に手を差し入れると軽く持ち上げてベッドに座らせた。そうして自分は立ち上がるとキッチンに向かう。両親は既に集会に出掛けていて不在だ。
ここ最近の魔物の異常について、大人のディアボロスたちに守り人のディックやアニマ持ちのナツナも混じって定期的な話合いをしているのだ。今日はディックが夜番の明けということと碧がまだ目を覚ましていないことから、ナツナはお留守番だった。
ディックは欠伸を噛み殺しながら竈の前に立つと、指揮を取るように指を振った。ぶわりと風が渦を巻き、戸棚を開いては中のものを引っ張り出してディックの周りに浮かせていく。傍らに浮いていた卵を目の前に浮くボールに割入れると、落ちてきた泡立て器がひとりでにかき回していく。
粉類が振るわれていくのを余所目に、ディックは保存庫から幾らか果物を取り出した。こちらは自分の手で洗い、切っていく。一通り終わるとマッチで竈に火を点けてフライパンを温め、出来上がった生地を一枚一枚焼いていく。
3枚ほど皿に重ねたところで匂いに釣られたナツナがふらふらとリビングに現れた。ご機嫌はやや上方修正しているらしい。
「ん、ちょっと待ってな」
もう3枚焼き上げて別の皿に盛り付け、こちらには切ったイチゴとオレンジを乗せる。湯気を立てるパンケーキにバターを乗せ、おねだり通りに蜂蜜をたっぷりかけてナツナの前に押しやる。自分の方にはブルーベリーと蜂蜜だけ。パンケーキは冷めていても美味しいが、バターは溶けてないとなんだか嫌だ。
「いただきます」
「いただきまーす」
すっかりご機嫌になったナツナがディックに倣って手を合わせる。それを見たディックも唇をほころばせた。幾多の大人が彼女を天才と呼ぼうが、彼にとっては可愛い可愛い妹に過ぎないのだ。
スリッパを履いた足がぱたぱたと宙を泳ぐ。パンケーキはいい具合に出来たようだ。
「アオイが起きたらまずご飯だね。消化にいいのがいいかな」
ふふ、と笑うナツナにディックも頷いた。早々に空にした皿を手も触れずに洗うディックの隣で、ナツナが温風を起こして乾かしていく。
後片付けを終えてしまえば、両親が戻ってくるまでは暇な時間だ。いつもなら魔導書を読んで過ごすところだが、今日は足早にナツナの部屋へと向かう。
部屋を出る前と変わらず、安らかな寝息が聞こえてくる。相変わらずぴくりとも動いていないらしい。肩までかかった毛布にはしわも寄らず、かけたときそのままだった。
ナツナはベッドの脇に膝をついて上半身だけ乗り上げると、無言で両眼を赤く輝かせる。その眼に碧を映せば、脳内に次々と映像が浮かんでは消えていった。
少年に抱き上げられる幼い少女。小さな女の子の手を引いてあるく姿。老人と女性の怒声の間で愛想笑いする青年。青年と少女の愚痴を代わる代わる聞かされている青年。
どろどろと降り積もる感情と、そんなものを抱く罪悪感。家族なのに、家族だから。
「血の繋がりだけじゃ、愛せないのにねぇ」
ぽつりと落ちた言葉は碧には届かないのだろう。
ナツナに言わせてみれば碧の家族は酷い人たちだ。当人同士で話し合うこともせずに、碧1人にストレスを押し付ける酷い人たちだった。碧が人より少しばかり感受性が高く嫌味や愚痴を受け流せない性質だったのもあるのだろうが、
「……普通、家族の悪口なんて聞きたくないもんね」
普通だよ、フツー。重ねてそう言いながら碧の黒髪を梳く。母親と妹は茶色がかっていたので父親からの遺伝なのだろう。
赤いままの瞳がミズガルドでの景色を映し出した。魔物と戯れる姿やエルフに文字を教えてもらう様子が次々と流れていく。ドワーフとヴェズルに正義感をぶつける騎士に言葉を呑み込む姿に眉をひそめ、黒衣の集団に傷つけられた腕を見返しては怒りを募らせる。そうしてナツナとディックの背を追いかけて森に入って――そこで毎回映像が途切れるのだ。
「むー……」
ぽてんと頬をベッドにつけて小さく唸る。そんな百面相を見守っていたディックは近くにあった椅子に腰かけてふわふわの黒髪を撫でた。
「……わかんない」
「辛そうではないからね。呼吸も脈拍も正常だし……誰の仕業だとしても、アオイを傷つけるような意図はないはずだ」
ナツナにはわかり切っているようなことだろうが、あえて口にする。こっくりと頷くのを見て、ディックはもう一度ナツナの頭を撫でた。
「兄ちゃんはさ……何が起こってると思う?」
赤い目が、同じ色の視線と交わる。ディアボロスの集会でも、他種族との集会でもここ最近は毎回のように上がる議題だ。まだ、何もわからないし、知る術もない。今、目の前で眠っている碧こそがナツナがやっとの思いで見つけた手がかりなのだ。
「アオイさんの話だとやっぱりモリオンが関わっていそうな気はするけど……彼らはスバルムでは採掘していないだろう?」
永い歴史の中でヒューマーがスバルムを訪れたことは一度たりともない。漂流者ですらたどり着いたことはないのだ。その上、デミヒューマーたちはヒューマーよりも感覚が優れている者も多い。1人2人ならともかく、鉱石の採掘に必要な人員が侵入すれば気づかない訳がない。
「ミズガルドやニダウェの魔物に異変はないらしいし……スバルムの魔物たちは何を恐れているんだろう」
「世界がぐちゃぐちゃしてきた……だっけ?」
碧越しに聞いたスキュラーの言葉を復唱し、2人揃って首を捻る。一拍開けてぷは、と詰めていた息を吐いたナツナは再び碧の手を握った。
「起きて一緒に考えよーよぅ……」
ナツナは甘えるように握った手首を揺らした。碧はまだ、目覚めない。
ナツナは尊敬できる家族が大好きです。
碧は家族だから好きでいないと、と思っていました。




