42 動き出した世界は
風が男のコートをはためかせる。碧も顔の方に流れそうになった髪を押さえた。咄嗟に閉じた目を開ければ、男の背中が遠く見えた。
「え……」
ごうごうと耳元で風が唸りを上げる。不意に足が地面から離れ、尻もちを着いたような格好で身体が浮き上がる。思わず伸ばした手が渦巻く風に弾かれた。
「アオイッ!!」
男とラビの声が重なる。が、分厚い空気の層に遮られ、碧には届かない。そうこうしている内にどんどん地面が遠くなっていく。
「この……っ」
ラビが片手を前に突き出した。手のひらから高圧水流が放たれ、鞭のようにしなって碧を包む風のドームを打つ。瞬間、碧の頬にちりっと熱が走る。
「いっ……!?」
思わず頬を押さえた手が赤く濡れる。じりじりと焼かれるような痛みに閉じた瞼が涙を押し出した。ぱっくりと裂けた頬に塩水が微かに染みる。
「ベリル、止まれ!!」
男の声よりも早く、ベリルは碧を覆う風に突撃してしまっていた。バチィッ、と火花が散り、ベリルが弾き飛ばされていく。
「ベリル!」
碧は届かない声を上げ、手を伸ばした。その腕を這い登るように、衝撃波が走り抜ける。一拍遅れて裂けたパーカーに鮮血が飛び散った。
「ッあぁああああ!」
体験したこともない痛みの連続に、勝手に叫び声が上がった。大きく切り傷が入った右腕を庇い、うずくまる。痛い、痛い。それしか考えられない。
「ッ、クソどこに……!」
男は降ってきたベリルを受け止めながら、周囲に視線を巡らせる。人影はない。魔法使いがどこかにいるはずなのだ。男はラビの方を見上げて叫ぶ。
「ラビ、この辺りの魔法使いを探せる!?」
「あっ……は、はい!」
ラビは目を閉じて意識を集中させる。耳の奥で鼓動に似た音が鼓膜を揺らしていた。自分のせいで碧が傷ついてしまったのだ。ぎゅ、と握り締めた手が欄干を軋ませる。
その握られた拳の上に、クルが駆け降りる。落ち着けとでも言うようにぽんぽんと叩かれ、ラビは深く息を吐いた。急速に溢れ出た魔力が、瞬く間に周囲へと広がっていく。
「……っ、そこ! 廃屋の影になってるところに!」
ラビが叫びながら指し示した瞬間には、チビがそこに頭突きをかましていた。既に崩壊しかけていた壁が砕け散り、そこに隠れていたらしい魔法使いが声も上げられないまま吹っ飛んでいく。
「っ、あ……!」
空中で放り出されることとなった碧は、直ぐに地面と出会うこととなった。どさりと建物の屋上らしき場所に投げ出され、痛みに丸まろうとする身体を無理やりに引き上げられる。
「いッ――!」
切り傷の入った腕を握られ、頭の中に火花が散る。力の抜けた脚は座り込もうとするが、腕を引く誰かがそれを許してくれない。首に回った腕に半ば身体を預けるようにして立たされた。
「お前は……」
男が見上げた先、小高い建物の上で黒衣の男が碧を抱え上げていた。翻る黒衣のフードには複雑な紋様が刺繍されている。男はその意味を知っていた。
「教会の代表が何でここに……!」
ぎり、と奥歯が音を立てた。アクアマリンを溶かすように目の奥で焔が燃え上がる。そんな男の様子を歯牙にもかけずに、黒衣の男――バーデン教団創始者、オルターは口を開く。
「動くなよ。こちらとしても、これ以上これに傷をつけたくないのでな」
碧の首筋に鈍い光が押し当てられる。ラビの周りをうっすらと漂っていた砂煙が地面へと帰った。
「……えらく雑な扱いじゃないか。前とは大違いだ」
毛を逆立てるチビを軽く押さえながら、男がオルターへと声を張り上げる。肩に止まったベリルだけでなく、ラビも彼を睨んでいると言うのに、オルターは動揺する様子も見せない。
「あぁ、そうだ。我々は前回間違えた……もっとしっかりと教育してから、使うべきだったのだ」
男に応えたというよりは自分に言い聞かせているようだった。腕に力がこもったのか、碧が微かに呻く。縋り付いた左手でオルターの腕に爪を立てた。未だ出血が止まらない頬と腕から流れる血が、黒衣に染み込んでいく。
「だが、この状況はこの状況で使えるだろう。魔物や魔族、それに与する愚かなヒューマーによって連れ去られ洗脳された神の子を、バーデン教団が取り戻し解き放つ……なかなかいいシナリオだと思わんかね?」
沸騰して上がって来る胃の奥をぐっと呑み込んだ。震える肩を、ベリルが趾で握り締める。
「ではこれで失礼するとしよう。色々と準備が必要なのでね」
オルターはそう言うとふところから取り出したものを素早く投げつけた。それは男の少し手前の地面に叩きつけられ、鈍い輝きを放つ。
「下がれッ!!」
男は反射的にラビを巻き込みながら後ろへと飛んだ。刹那、モリオンが内包していた魔力が炸裂する。轟音と共にもうもうと黒煙が立ち込め、辺りを覆った。ベリルが大きく羽ばたき、瞬く間にそれを散らす。
煙の晴れたそこに、当然オルターはいなかった。地面に横たわる魔法使いが置き去りにされているだけだ。煮えたぎっていた臓腑が急速に冷たくなっていく。
「……ごめんなさい」
不意に斜め下から声が聞こえ、男は固まっていた眼球を動かしてそちらを見た。目を伏せたラビがそこに立っている。
「あの、僕……」
「今、その話はしたくないな」
口から零れた刃物が嫌な音を立てた。ぎゅ、と唇を引き結んだラビを一瞥し、男はチビに吹っ飛ばされたままの魔法使いに歩み寄る。
「うぐぇッ……!」
ドスッ、と鈍い音を踏み鳴らして、男のブーツが魔法使いの胸に突き刺さった。肺の空気を叩き出されて悶えているが、踏まれたままなので身体を丸めることすら出来ずにいる。衝撃に覚醒した意識が再び落ちていきそうになる。
「アイツどこ行ったか知ってる?」
「ぃ、ぎ……ぐぅ、あっ……!」
じりじりと体重をかけられ、肺がつぶされていく。満足に息も吸えないような状態で言葉を発せられるはずもないのだが、男はそれに気づかない。はくはくと開閉する唇が青く色を変えていく。
「なぁ……」
「その辺で」
割り込んだ声が水を呼んだ。帯状にしなったそれが男の片足を捕まえてひょい、と持ち上げる。男は吊られた片足をそのままに声の主を振り返った。
「それは拷問じゃない……ただの八つ当たりだ」
そう言ったバリーは、丁度広げた翼を畳んでいたところだった。ふと男の肩にいつの間にかなくなっていた重みが舞い戻る。こちらも羽を畳んだベリルが男を覗き込んでいた。
「その仔が案内してくれたんだよ。大体の事情もグレイを通して聞いた」
こちらへと歩み寄るついでに魔法使いを蹴り転がし、バリーは男の目の前に立つ。同時に男の足を解放した。顔を覗き込んでくる彼は変わらない笑みを湛えている。
「必要な情報は僕が引き出すよ。その後の搾りカスなら好きにしていいけど……どうする?」
小首を傾げたバリーは幾つか水球を生み出すと宙に躍らせる。冷えた空気が漂い、チビがふるふると頭を振った。男は黙ったまま地面を転がった魔法使いを見下ろす。男の袖をチビが優しく食んでぐいぐいと引く。
「……どうもしない」
そ、と短く返したバリーの声はどこか弾んでいた。そうしてその笑顔のままラビを振り向く。
「えり好みしてる暇もないからね、君にも手伝ってもらうよ。罰はその後」
「え……」
返事は? と少し低くなった声に問われ、ラビが慌てて頷く。その頭の上に、クルが楽しそうにしがみついていた。満足そうに頷いたバリーが、男の方へと向き直る。
「そう言えば、ベリルすごい剣幕だったよ。さっきの君より怖かったな」
男がベリルの方を向く前に、ベリルは彼の肩から飛び立っていた。風を斬り、雲を払い、高く高く舞い上がっていく。
『あぁ……あぁ!』
誰にも届かない吐息を落とし、ベリルは大きく吠えた。
『口惜しい、口惜しい!! あの程度の男に奪われるなど!!』
激情が破裂せんばかりに膨らみ、胸を食い破ろうとする。あの男の四肢を八つ裂きにしてやりたい。髪の先から足の爪先に至るまで、その身体の全てを地獄に突っ込んで消してやりたい。身体から溢れだそうとする願望を、腹の中に留めておくのは不可能だった――本来ならば。
ベリルはひとしきり上空で荒れ狂うと、羽を畳んで急降下する。時間にして30秒も経ってはいなかっただろう。男の肩に舞い戻ったベリルは乱れた羽を撫でつけると何事もなかったかのように前を向いた。
傷つけられたとはいえ、碧はあの男の死を望まないのだろう。ならばベリルがすべきことは碧を助け出すことだけだ。
――その過程で頭髪を毟り取ってやるくらいの事は許されるだろうか。そんなことを考えながら、走り出した男たちを先導するように再び舞い上がった。
◆◆◆◆◆
どん、と背中を突き飛ばされ、碧は部屋の真ん中にあったベッドに突っ伏した。身体を起こすよりも早く、背後で鍵のかかる重々しい音が響く。
「っつぅ……」
真新しい包帯で覆われた腕がのたうつように痛みを訴えた。押さえたかったが、両手首を身体の前でまとめる手錠のせいで叶わない。
「……きもち、わるい」
代わりに胃の辺りを押さえる。冷や汗が止まらない。ここが船の上であることが理由ではないのだ。オルターと名乗った男が言うには、船の船底にモリオンが幾らか使われているらしい。
だから、魔物に助けを求めるのは無駄だ、と。オルターはそう言い捨てて去って行ってしまった。微かに揺れる感覚から船はもう動き出しているのだろう。
窓すらないこの部屋では行き先を確認することすら出来ない。調度品もこの無駄に大きなベッドだけだ。碧はそこに横たわるとぎゅ、と身体を丸めて込み上げてくるものを飲み下した。
微かにスキュラーたちの声が聞こえてくる。が、それも段々と遠のいていった。
さみしい、と。不意にそう思った。子供のころは独りでいることの方が多かった。独りには慣れていると思っていた。しかし、異世界に来てからはいつも誰かが傍にいてくれたのだ。
――独りでいることと、独りになることは違う。そう気づいてもここには誰もいない。
鼻をすする音がやけに大きく響いたその時だ。控えめなノック音が扉を鳴らした。小さな反抗心から返事もせずに顔だけそちらへと向ける。隠れようにもベッドしかないのだ。直ぐに見つかって引きずり出されるのが落ちだろう。
もう一度、ノックが響く。何故こちらの確認がいるのだろうと碧はぼんやりと思う。勝手に開けて入ってくればいいのだ。こちらからは開かないのだから。
「失礼するよ」
涼やかな声が扉を開けた。若い男の声だ。碧は疑問符を浮かべながらベッドに座り直す。入って来たのは見慣れてしまった黒衣が2人。
片方は見上げるほどに大きく、身体をすっぽり覆うフード付きのコートでも分厚い筋肉が浮いて見えている。声を出した方が、早々にフードを脱ぎ捨てた。飴色の髪がさらりと流れ出る。
「君がアオイさんかな?」
ラベンダーの瞳が碧を見つめる。碧が何も答えずにいると、彼は困ったように頬を掻いた。そうして大柄な黒衣の方を仰ぎ見る。
「君が大きいから怖がられてるのかな?」
悪戯っぽく笑うと白い歯が零れた。大男は小さく唸ると、膝をついてフードに手をかける。碧の目が微かに見開かれた。
「おじさん……?」
おじさん、と碧の言葉を復唱した茶髪の男がくすくすと笑う。大男は複雑そうな表情を浮かべていた。
「まぁ……そう呼ばれてしかるべき年齢ではあるが……」
「あ、いえ、その……間違えました、すみません」
もにょもにょと口ごもった大男に、碧も慌てて謝罪する。茶髪の男が堪えきれないとばかりに肩を震わせていた。碧は改めて大男の姿を見上げる。
逆立った銀色の髪にアイスブルーの瞳。直ぐに男とは別人だとわかったが、何となく雰囲気が似通っている。体格や年代も同じくらいだろう。
「あー……その、何となく察しているかもしれないが、我々はバーデン教団の者ではない」
こくりと頷く。大男は碧の方を窺いつつ、手錠に手を伸ばした。碧も特に抵抗はしない。敵意を感じないというのもあったが、身体を折り畳んでまで碧を怖がらせまいとする様子にやはり男の姿が重なったのだ。
ふっ、と小さく気合を入れる声が聞こえると、碧の両手が自由になった。金属の輪は手首にかかったままだったが、鎖が引きちぎられている。そのまま大男は手錠の方も力づくで取り去ってしまった。
「……ありがとうございます」
少し赤くなった手首を摩りながら、碧は軽く頭を下げた。微笑んだ大男が後ろに下がり、茶髪の男が碧の前へと進み出る。そうして大男の方を手で指し示した。
「改めて自己紹介しよう。こちらはグラン、ノア王国騎士団の団長だ」
目の奥がじわりと熱くなった。聞き覚えのある名前だ。知らず握っていた拳に爪が食い込む。彼の方も碧の反応に心当たりがあるらしく、俯いて押し黙っている。
密度を増した空気を払うように1つ咳払いし、茶髪の男は自身の胸に手を当てる。
「そして僕はノア王国の国王、ジェイド=ノアだ」
よろしく、とそう言って片手を差し出し、麗しの王は優しく笑った。
これにて第2章完結です。
少々幕間を挟んでから、第3章始動となります。
投稿を始めて半年余り。亀の歩みではありますが、何とかここまで書いて来れました。
これもひとえに閲覧してくださっている皆さま方のお陰です。本当にありがとうございます。
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これからも完結目指して頑張っていくのでよろしくお願いします。




