39 さよならとはじめて
※小動物が酷い目にあいます。苦手な方はお気をつけて。
ラビは行かないで、と口にした望みを叶えようとでも言うのか、碧の両手首を痛いほどに握り締めている。その胸に額を預け、祈るように目を閉じていた。碧はろくに身動きも取れないような状態で茶色のつむじを見つめていた。
「……何があったの?」
碧にはラビが酷く怯えているように見えた。居住区は戦闘になっていると聞いたが、巻き込まれたのだろうか。しかし、視線が届く範囲には怪我はしていないようだ。
「おじさんやエディさん、は……、っ?」
語尾が不自然に跳ねたのはラビの手に更なる力がこもったからだ。
「っ、痛いよ、ラビ……!」
遠慮がちにそう訴えれば途端にラビの手が力を無くした。碧の胸に押し付けられていた額も膝の上へと落ちた。母親に泣き縋る子どものような格好で、ラビは震えている。
「どうしたの……?」
自由になった手でラビの頭を撫でれば、一層震えは大きくなった。色を失った唇が、同じくらい震える声を紡ぐ。
「教団の連中が、アオイのことさらいに来たんだ……」
ぎゅ、と碧の膝の上で4つの拳が握られる。
「アイツら、ヒューマーたちに言ったんだ。アオイさえいれば、ヒューマーだけの世界が創れるって……」
目の色を変えて金網に殺到したヒューマーたちを思い出し、ラビの瞳が憤怒に染まる。幾多のヒューマーから爪弾きにされながら、自分たちもその世界の住人になれるのだと思い込んだ犯罪者たち。ミズガルドのヒューマーの中でも特に倫理観の足りない彼らは簡単に魔物を、デミヒューマーを殺そうとする。
――ラビの世界を、壊そうとする。
「お願い、行かないで。ヒューマーだけの世界なんて嫌だ。アイツらだけが笑ってる世界なんて嫌だ……!」
言葉に熱がこもっていく。顔を上げたラビが再び碧のパーカーに縋りつく。その胸元から涙の形をした宝石が零れ落ちた。僅かな木漏れ日が反射して、碧の顔を照らす。
「これ、クルの額の……? あれ、そう言えばクルは一緒じゃないの?」
碧の呟きにラビの脳裏に3ヶ月前の出来事がフラッシュバックする。
◆◆◆◆◆
ニダウェの金網の内側で産まれたラビは、ウンディーネとノームの寵愛を受けた子供だった。その反動とでも言うのか、両親に愛されたことは一度としてなかった。
そんな小さなラビを支えてくれたのが、ギムレーのバハムーンたちと魔物だった。ラビはヒューマーには珍しい魔法使いということもあり、幼いながらも似たような境遇の子供たちを束ね、ギムレーとの橋渡しをしていた。
「ん、必要なものはこれで全部かな」
「えっと……はい、大丈夫です」
「いつもありがとうね。助かってるよ」
バリーがへにゃりと笑う。ギムレーとのやり取りにも慣れ始めたころのことだった。唐突に褒められ、ラビの方も照れくさそうに笑う。そんな和やかな空気を切り裂くように幼い悲鳴が上がる。
「ティナ!?」
ラビが悲鳴の主を呼びながら振り返るのと、その視線の先にいた大男が吹っ飛んでいくのはほとんど同時だった。怯えた子供がぺたんと座り込むその背後で凶器を手放した大人が宙を舞い、放物線を描いて地面に落ちる。
驚いたラビが視線を戻せば、指先を拳銃の形にしたバリーが平然とそこに立っていた。
「……大丈夫、かな?」
「あっ、ありがとうございます!」
わぁわぁ泣き出した少女を抱きかかえながら、ラビは頭を下げる。バリーは気にするなとばかりに手をひらひらと遊ばせて笑った。が、直ぐにその表情を少し曇らせる。
「最近、増えたねぇ……そういう時期だから、仕方ないっちゃ仕方ないんだけど」
頻度の増した襲撃にバリーは溜め息を吐いて頭を掻いた。数日前に追加が来たばかりなのだ。ギムレーと交流する子供たちをいいカモだと思いこんだ短慮な輩が増える時期だ。
「……君に言うのも心苦しいんだけど、充分気をつけてね」
「はい……」
真剣な面持ちで頷くラビ。バリーはもう一度溜め息を吐いた。
「今度、魔導書を幾つか持ってくるよ……文字は読めるんだったよね?」
「あ、はい。簡単なものなら……」
自分たちが金網の向こうへ行けない以上、自衛の手段を持たせるのが最善だ。そう脳内で言い訳して、バリーは言葉を続ける。
「じゃあ、また明日」
「はい、ありがとうございました!」
バリーの背を見送ってから、ラビは未だぐすぐすと鼻を鳴らす少女の背を優しく叩いていた。そうしてバリーの魔法を思い返す。いつか、自分もあんな風に魔法でみんなを守れるようになりたかった。
この頃のラビはまだ魔力が不安定で、まともに魔法を使えるような状態ではなかった。更に言えば、己が2人の精霊の加護を得た魔法使いということにも気づいていなかったのだ。
「ほら、ティナ。こっち見てごらんよ」
ラビはそう言いながら手のひらを地面にかざす。途端にもこもこと土が盛り上がり、猫や犬等の愛らしい小動物たちの姿になる。この時のラビが唯一まともに使える砂人形の魔法だ。
クルもラビの肩から飛び降り、その中に混ざった。灰色の動物たちの中で鮮やかな桃色の毛並みがちょろちょろと駆けまわる。元気出してと言わんばかりに小さな小さな身体を伸ばしてぴょこぴょこと飛び跳ねていた。そんないじらしい小動物に心を動かされない者はいないだろう。
「……ふふっ」
くすくすと誰かが笑いだしたのを皮切りに、穏やかな笑いが広がっていく。ティナも目は赤いままだったが、クルを指先で撫でて笑っていた。満足げに、得意げに胸を張るカーバンクルに、ラビも笑う。
「ありがと、クル」
きゅ、と嬉しそうに鳴きながらラビの手に頭を擦りつける彼はラビの家族というだけでなく、このコミュニティの癒しでもあった。クルが定位置であるラビの肩に戻ると、子供たちは手分けして物資を分配する。ラビも自分の分を受け取ると、自分の住処へと帰っていく。
コミュニティの子供たちは、大昔にヒューマーの為建てられたというアパートに住んでいた。メンテナンスを出来る者がいないので見た目は廃墟のようだが、バハムーンが立てただけあって頑強な造りだった。ちなみに大人のヒューマーの多くは魔族が造った家など使えるか、と自分たちで簡素な家を造って生活している。
ヒューマー居住区に人が少ない頃は、もっとギムレーとも交流があったらしい。ラビたちが住むアパートはその頃に建てられた物だ。最初の頃はギムレーも彼らをミズガルドから追い出された憐れなヒューマーだと思っていたのだろう。しかし、数を増やすことで己が正義だと勘違いした犯罪者たちは、ついにはギムレーとの対等な交流を拒むようになった。
「ただいま」
「あら、おかえり」
何となく習慣づいている挨拶に声が返り、ラビは目を見開いた。咄嗟に玄関を閉める。他の子供たちに聞かれたくなかったのだ。異様な空気を感じ取ったクルがラビの首筋に頬を寄せる。ラビはその頭を撫でるとクルをシャツの襟元に隠した。
「……どちら様ですか」
意図せず硬く冷たい声になった。が、相手側はそれを気にした風もなくけらけらと笑う。
「何よ、せっかくこんな汚いところまで来てやったってのに愛想ないわねぇ」
どこで手に入れたのか、鼻を突く煙を吐きながら目の前の女性は艶やかなルージュで誤魔化した唇を歪ませた。頼んでません、とあくまでも他人行儀な態度を崩さないラビに苛立ったのか、女性はラビと同じ色の目で彼を睨む。
火のついた煙草を壁に押し付けて消すと、金色の巻き毛を揺らしながらつかつかとラビに歩み寄った。パァンッ、と乾いた音が鳴る。
「おかあさまに向かってその態度は何? アンタが今、生きていられるのは誰のお陰だと思ってるの?」
ラビは打たれた頬を抑さえもせずに、乱れた髪の隙間からおかあさまを睨み返していた。彼女の名はソラノ。ラビの母親にしてミズガルドで何人もの男を騙して金銭を搾り取った詐欺師だ。
ソラノはニダウェでも己の美貌と若さを使い、幾人もの男を誑し込んでいた。気ままに相手をしていた結果産まれては直ぐに捨てられているのが、父親の違う兄妹たちだった。その長男であるラビは、ソラノが自分の子供だと認識している数少ない1人なのだ。
しかし、赤子だったラビが13才に成長したのと同じだけ、彼女も老いている。劣悪な環境も祟って、額に寄せられたしわは消えなくなり、美しく艶やかだったブロンドは水分を失ってパサついていた。もう男を引っ掛けることも出来ない彼女は、時折こうしてラビの居場所を嗅ぎつけて集りに訪れることがあった。
「何の用ですか」
口を動かす度に鉄錆の臭いが鼻に抜ける。叩かれた拍子に歯が当たったのだろう。じんわりと滲む痛みにラビは少しだけ顔をしかめた。心配だったのか、襟元から姿を見せたクルがラビの頬を小さな手で撫でる。
「おおっ!? コイツ、カーバンクルじゃねぇか!」
不意にそんな声が轟き、ラビの襟元から温もりが奪い取られる。みぎゃッ、と潰れた悲鳴を上がったのは、見上げるほどに大きな男の拳の中だった。
「な、お前……!」
ラビが声を発した途端、小山のような男がそちらをぎろりと睨み下ろした。そうして次の瞬間には、ラビの腹に重い拳がもたらされる。紙くずのように吹っ飛んだラビはドアに叩きつけられ、そのままお腹を抑えてうずくまった。内蔵への衝撃に呼吸の仕方を忘れそうになる。
「誰に向かってンな口利いてんだ? あぁん!?」
男は苦悶するラビを見下しながらチンピラめいた口調で威嚇する。この男はゴーシュ、ラビの父親だった。ミズガルドで強盗殺人を繰り返し、ニダウェに流された先で若いソラノに誑し込まれた男の1人だ。不意にその丸太のような腕に細く白い手が触れる。ソラノだ。
「ちょっとアンタ、騒がしくするんじゃないわよ。人が集まってきたら面倒でしょ」
殴ったことではなく派手な音を立てたことを咎める彼女は、血反吐を吐いた自らの子供を一瞥すらしない。吹っ飛ばされた時に頭を打ったせいで、ラビの目の前はぐらぐらと揺れていた。そんな朧げな意識の中で、クルの悲鳴を聞いた。
「コイツの額の宝石って高く売れるんでしょ? たまにはアンタも役に立つじゃない」
妙に重い頭を少しだけ上げる。くすくすと笑う女の顔には霞がかかっていた。太い指が必死に身をよじるクルの額の宝石を摘まむ。
その後の光景も、音も、はっきりと覚えている。今でも時折夢に見るほどに。1人殺す度に歩みを止めそうになるラビの背を忘れるな、忘れるなと押して来た記憶だった。
嫌な音を立てて引きはがされた赤色の宝石。それを追うように流れ出した同じ色。黒真珠のような瞳が瞬く間に濁っていく。ゴミを捨てるように目の前の床に放り投げられたのは、動かなくなった小さな身体。
這うように近づいて抱き上げる。両手に収まった身体から、どんどん体温が逃げていく。こめかみの辺りで血管がのたうつのを感じていた。
「本当に綺麗ね……ゴミから取れたとは思えないわ」
「これでしばらくは楽出来るな……オイ、次来る時も同じ奴用意しとけよ?」
呆然としていた意識が僅かに浮上する。眼球だけ動かしてそちらを見れば、黒い靄が何事かしゃべっていた。眩暈がする。
「同じ、やつ……?」
「カーバンクルだよ、カーバンクル! 一匹ぐらいじゃなく、もっと集めとけって言ってんだよ」
頭の中で血流が爆音を奏でていた。顔は尋常でないほど熱いのに、手足の先は冷え切っている。
「魔物なんざ、死んで初めてヒューマーの役に立つんだ。俺らが有効に使ってやるんだよ」
光栄に思え、と続いた声をラビは聞いていなかった。頭の中が煩い。脳と心臓の位置が逆転してしまったかのようだ。どうして、と掠れた声を絞り出せば、嘲笑が返る。
「何がどうして、よ。魔物殺したくらいで、ぼーっとして……頭おかしいんじゃないの? ていうかいつまでそのゴミ抱えてんのよ、気持ち悪い」
ゴミってなんだ。目の前に立っているこれらはなんだ。どうしてこれは人語をしゃべっているんだ。気持ち悪い。
「ヒューマーは魔物をころしていいの?」
「殺したんじゃねぇよ、駆除だ、くーじょ。あんな化物、生きてるだけで罪ってもんだ」
己が罪人であることを棚に上げて、笑いながら。ラビの家族の命を金に換えて、これらは生きていくのか。
「あぁ、そうか。お前はここの産まれだから知らねぇんだな……いいか? 魔物とデミヒューマーは駆除すれば駆除するほど称えられるんだよ。異世界の勇者の話聞いたことねぇのか?」
「あぁ、あの話は何回聞いてもスカッとするわよねぇ! そのまま絶滅させてくれればもっとよかったのに」
眼球の中で血管が切れたように、目の前が赤く染まっていく。身体の震えが止まらない。短い生涯の中で、感じたこともないような激しい怒りと憎しみが湧き上がり、悲しみや倫理観を沈めてしまった。
「まぁ、とにかくだ……また足りなくなったら来るから、用意し――」
続く声の代わりにひゅう、と風の抜ける音がした。
ソラノとゴーシュは犯罪者ですが、魔物やデミヒューマーの扱いや彼らへの態度については通常のヒューマーと大差ありません。




