38 叱られ方を知らない子供
「は?」
思わず低い声が出たが、ラビが気にした様子はない。伸びた前髪のせいで俯いていた彼の表情は窺えなかった。
「……僕の家族はヒューマーに殺されたんだ」
ラビは不意に顔を上げた。肩に乗っていた小さな獣の姿が、蜃気楼のように揺らぐ。男とラビの間を吹き抜けた風にさらわれるように、その身体を宙に撒き散らしていく。
「土人形……」
思わずエドワードがそう呟く頃にはカーバンクルだった土塊は、涙の形をした宝石だけ残して地面に混ざっていた。
「アイツらが言ったんだ……ヒューマーは魔物を殺しても、デミヒューマーを殺しても、罪には問われないって」
ラビの言う通り、ヒューマーが罪人となるのは被害者がヒューマーの時だけだ。魔物やデミヒューマーを傷つけようと、何かを奪おうと――果ては殺したところで、ヒューマーの法がヒューマーに罰を与えることはない。
「でも、そんなの不公平だ。ヒューマーだけは殺しちゃ駄目だなんて……そんなの、おかしい」
ラビはたった一つ残った宝石をぎゅっと握り締め、額に押し当てた。祈るように、誓うように、濁り始めた目を閉じる。
「おかしいから、正さなきゃ。平等にしなきゃいけない」
それに、と一度言葉を切ったラビは風の壁の向こうを睨みつけた。そこには遠巻きにこちらを見つめるヒューマーたちがいる。彼らの多くは第一世代――ここに来る前に更生不可と言われるほどの犯罪を犯した者だ。
「この綺麗な街に、アイツらは要らない」
アイツらが。アイツらだけが、この街を汚す。魔物とデミヒューマーの平和な世界を――ラビの理想を、壊そうとする。
「皆アイツらのこと、いなくなれば良いって思ってる。思ってるけど、出来ないだけ。だから、僕が代わりに殺す……それだけ」
「それで、代行者って?」
現場の血文字を思い返しながら男が問う。表情の抜け落ちた顔で頷いたラビに、男は乾いた笑いを返した。
「自分の後ろめたさを他人に押し付けるんじゃないよ」
エドワードはぎょっとした顔で男を見下ろした。男の声があまりにも冷たかったからだ。ラビの瞳が微かに揺れる。
「君が感じてる怒りも憎しみも、君だけのものだろ」
静かな声は、どこか自分にも言い聞かせているような不思議な響きを持っていた。
「……ラビは、さ」
不意にその声に温度が滲んだ。どこか憐れむように、ラビを見つめて言葉を紡ぐ。
「その手でもう一度……クルを撫でられる?」
小さく吐息が漏れた。
「……あ」
目の前に境界線が引かれたのが、確かに見える。男は危うくもその上に立っていた。爪先をこちら側に晒しながらも、手を引かれてそこに踏みとどまっている。その足元で、小さな獣の幻覚が手を振っていた。
「、は……」
――心臓を、殴られたのだと。ラビはそう思った。あまりの痛みに身体から逃げ出そうと暴れるそれが、脈打ったまま喉元までせり上がってくる。思わず握り締めた手の中の宝石に温度はない。
「あぁ……」
喘ぐように口を開いた。息が吸えない、吐けない。肺腑が水で満たされているようだった。
「あぁああ……っ!」
ラビは両手で顔を覆って呻いた。行き場を失った感情と共に、制御を無くした魔力が噴出して渦を巻く。
「下がれ、アクア!!」
エドワードが叫ぶと同時に大きく腕を振る。動きに合わせて巻き起こった突風が、男の身体を後ろへと押しやった。その足先を風切り音が掠めていく。メキメキと樹皮が割れるような音が断続的に響き、男の目の前に巨大な手が姿を現した。
「複合魔法……!」
エドワードが顔をゆがめる。複合魔法――それは読んで字のごとく2属性以上の魔法の掛け合わせだ。本来ならば他属性の魔法使いが2人以上で編む強力な魔法である。
噴出し、混ざり合ったラビの魔力が地中に潜んでいた木の根を急速に成長させたのだ。ずるずると大蛇が這うように、束になった枝や蔦がラビの身体を覆っていく。その中心で頭を抱えてうずくまる子供を護るように。叱られて怯える子供を隠すように。
「ラビ!」
「ラビ兄!」
男と子供たちの声が重なる。が、声は蔦の這う音に掻き消され、届かない。開いた瞳孔に現世は映らない。やがて外界を拒絶するように、ラビの姿は覆い隠された。
蔦と枝の繭の中で、ラビは膝を抱えていた。選んだはずだった。決めたはずだった。ラビの世界に害を成す存在を消し去ろうと。そしてそれは正しいことのはずだった。間違っているはずがない、アイツらは何の価値もない害獣なのだから。
どうして揺らいでしまったのだろう。どうして、迷ってしまったのだろう。どうして――こんなにも苦しいのだろう。
足元がぐらりと揺れる。支えがない。ラビには、手を引いてくれる人がいない。誰もいなかった。あそこにいたのは誰だ。男の手を、引いているのは誰だ。どうして自分には何もない、誰もいない。
自覚した途端にどうしようもない喪失感に襲われていた。気づかないふりで充分だったはずの穴が、急に存在感を持ってラビに現実を押し付けようとする。
「……っ、クル……クルぅ……!」
すがるように名を呼んでも応える声はない。当然だ。彼は3ヶ月前にいなくなった――奪われたのだ、あのロクデナシどもに。
「……あぁ」
その事実に突き当たった途端、燻っていた炎がひっかきまわされる。空気を得た消し炭が、音を立てて再燃する。その脳裏に、教団が吐いた理想がよぎった。
『ヒューマーだけの国』『ヒューマーだけの世界』それは、ラビの理想とは相反するものだ。それだけは阻止しなければならない。その為に必要なことは――。
「そうだ……護らなきゃ……」
ゆらりと幽鬼のように立ち上がったラビを照らすように、木漏れ日が差した。小さな隙間を無理やりにこじ開けた男の手が、そこに差し伸べられる頃には、ラビの姿はそこにはなかった。
「……いない」
繭の中を覗き込んだ男が呟く。それを拾ったエドワードが目を閉じて意識を集中する。が、風が運んでくるのは悲鳴と怒号、そしてそれを煽り立てる演説だけだ。
「……少なくとも近くにはいねぇ」
どうする? と問いかけるエドワードの後ろには、風の壁に阻まれながらこちらを遠巻きに見ている蛮族ども。ラビが作り上げた繭はフェンスの穴を埋めるように成長し、その後ろではギムレー側へと押しやられた子供たちが不安げに男を見上げている。
ラビのことを追うべきだろう。しかし、どこへ行ったのか検討もつかない上にここを離れる訳にもいかない。男はぐっと唇を噛んだ。
「もう少し言葉選ぶべきだったな……」
下から追い打ちをかけられ、男は深く息を吐いて蔦の繭から飛び降りた。バツが悪そうな様子にエドワードもそれ以上の追撃はやめ、再びどうする、と問う。
「ギムレーからの応援が来るまでなら俺1人でも充分だ……っつっても追跡手段がないんじゃどうにも――」
エドワードがそこまで言ったところで、その傍らから砂埃が巻きあがった。間欠泉のごとく湧き上がった砂に、2人は咄嗟に目を庇う。
「なん――?」
男の疑問を遮るように凛とした鳴き声が響く。音源がいつもより低い位置だったので揃ってそちらを見下ろせば、地面から生えるように顔を覗かせた狼の頭がそこにあった。
「チビ?」
訝しげな男を尻目にチビはしゅるんと自らが掘った穴に潜っていってしまう。それなりに深いらしく、誘うような鳴き声が幾らか反響して男の耳を打った。
もう言葉は要らなかった。エドワードが送り出すように男の背を叩く。男はこくりと頷いて、チビが掘った穴に身を投じた。
◆◆◆◆◆
けたたましいノックから間を置かず、武闘場の扉が勢いよく開かれる。カルラは少しだけ眉を上げてそちらを見た。そこにいたのは物資調達グループの若いバハムーンだ。息は乱れ、顔は赤い。入口に倒れかかるようにして石段に身体を預けている。
緊急事態と見たカルラは碧に一言断ってからそちらへ向かい、飲みかけの水をそのバハムーンに手渡した。彼はそれをぐびぐびと飲んでから、口端に滴る雫を拭いもせずに息せき切って話し出す。
「居住区で暴動です! 神の子信仰教団が煽動しているようです!」
「何だって!?」
神の子と言う単語を聞いた途端、ベリルが険のある声で鳴いた。あまりの剣幕にバハムーンは一瞬そちらへ目をやったが、直ぐに視線を戻してカルラへの報告を続ける。
「その者たちの手によって金網が破壊されています! 確認した限り5箇所ほど……今はそちらへ人員を集中させて抑えています」
「怪我人は?」
カルラの問いに、バハムーンは一瞬息を詰めた。怪訝そうにする彼女に、自身の腕を差し出す。カルラの肩越しに見ていた碧が息を呑む。
「ギムレー、ヒューマー共に多数出ているようです。よくわかりませんが、奴ら爆発物を所持しているようで……」
上着を巻きつけただけの上腕には色濃く赤が滲んでいる。立ち昇る血の臭いに、カルラは顔色を変えた。
「……金網の正確な損傷位置はわかるか?」
「こちらにメモがあります」
バハムーンは判定の手に握っていた紙切れを差し出した。赤いインクでしたためられたそれを受け取ると、カルラはバハムーンに肩を貸して立たせてやる。
「キースに救護テントを展開するように言伝を。アンタもそこで治療を受けたら、送られてくるだろう情報の整理を頼む」
「了解しました!」
カルラはバハムーンが走り去っていくのを見届けると、碧の方へと向き直る。碧は床に座り込んだまま、膝の上で両手を痛いほど握り締めていた。カルラはその上に己の手を重ねる。
「アンタのせいじゃないんだ。気にしなくていい」
それが上手く出来ない子供だと。知ってはいてもそう声をかけずにはいられなかった。俯いたままの頭が微かに上下する。潤みそうな目元を拭うと、顔を上げる。
「あの……何か手伝えることありますか」
「そうだね、キースの手伝いしてもらえるかい? ただ、屋敷からは出ないようにね」
連れ立って武闘場から出ると、カルラは地下室の方へと走っていった。碧もベリルとルーナを連れてキースを探しに屋敷の方へと小走りする。
不意に、ルーナが大きく鳴き声を上げた。同時に地面がぐらりと揺れる。
「っ、わ……!」
碧が尻もちをついた弾みでルーナは腕から投げだされたが、彼女は空中で優雅に一回転して地面に降り立った。先導していたベリルが大きく旋回して戻ってくるのが見える。彼が、弾丸のような速度で突っ込んで来ようとするのも、一瞬だけ。
「え……」
小さく声を上げた碧の周りを囲むように土が盛り上がる。その小山を突き崩すように太い枝が天を切り裂いて伸びていく。碧の視界を塗りつぶすように、枝が絡み合い微かな木漏れ日すら断たれていく。
近寄ろうとしたルーナが弾かれ、ベリルも絡み合うように成長した枝に阻まれた。ベリルは何度もたいあたりを繰り返すが、びくともしない。
「ベリル! ルーナ!」
壁となった籠に取りすがって叫ぶが、外の音は聞こえない。空洞の中で声が反響するだけだ。心臓が痛いほどに早鐘を打つ。閉じ込められた――一体、誰に?
最悪の想像が頭の中を駆け巡ったその時、後ろから名を呼ばれる。
「ラビ……?」
驚きと不安が声に滲む。差し込む光があまりにも細く、暗くてよく見えないのだ。ラビも碧の名を一度呼んだきり、沈黙してしまっている。
「……居住区は危ないって聞いたけど、ラビは大丈夫だったの?」
応えはない。碧はラビの方を探ろうと手を伸ばした。不意にその手が掴まれる。ぎちりと皮膚が鳴いて、骨が軋みを上げるほどの力で。
「い、っ……!」
思わず上げた呻きにも反応はない。代わりに強い力で抱き寄せられ、つんのめるように膝をつく。そこまで近づいてようやく顔が見えた。
「ラビ……?」
「……アオイ」
ようやっと反応らしい反応を返した声は低く沈んでいる。その声には聞き覚えがあった。無理やりに手を引かれたことも覚えている。
「お願い、アイツらのところに行かないで」
真っ直ぐに見つめてくる目には、かつて新緑を燃やしたものと同じ炎が宿っていた。ミズガルドで見たそれよりも、不安定に揺れている。自分を正義と信じたい人間の目だった。
彼を創り出したのは周りの環境であり過去なのですが、そうあると決めたのは自分自身なのです。




