35 護られるべきもの
碧が部屋に戻ってから直ぐに、カルラは男を自分の部屋に呼び出した。若干疲れた様子の男がほどなくして執務室の扉を叩く。
「どうした、やつれてんな?」
思ったままを口に出すとちょっとチビがね、と答えが返ってきた。有り余る元気に振り回されたのだろう。そんな光景を想像して少しだけ笑うと、カルラは表情を引き締める。
「例の教団の件なんだけど」
途端に男の表情も変わる。
「どうも騎士の船を囮にして入り込んだらしいんだ。まだ他に仲間がいるってのは確認出来た。詳しい事はまだ聞き出してるとこだ」
最後の報告に関して男は少しだけ眉を上げたが、質問はしなかった。
「そんな訳で、しばらくアオイを外に出すわけにはいかない」
「そう、だね」
「で、バリーも別件でちょっと動けないんだ」
男が首を傾げる。何の話だろう、と顔がそう言っていた。
「だから、アクアに物資配達に行って欲しいんだけど」
頼めるかい? とそう尋ねるカルラに男は拍子抜けした様子で肩の力を抜いた。そうして今日のグレイとの会話を思い返す。丁度ラビに魔法の指導を頼みたいところだったのだ。首肯すると、カルラが薄く笑う。
「後、ついさっきアオイがここに来たんだ」
男は視線を下げてカルラの方を見たが、目が合わない。微妙に逸らされているような気がする。
「それで、護身術を教えて欲しいと言われた……あぁ、アタシからは一切、全く、話題にも出してない。完全にアオイが自分の意思で必要だと思って頼んできたことだ」
口を開きかけた男を見てカルラが後半をまくしたてる。男は一旦閉口したが、やはり言いたいことはあるらしく唇をへの字に曲げている。
「さっきも言った通り、アオイにはしばらく外出を控えてもらうことになる。その間にアタシが直接指導しようと思ってるんだが」
何とも言えない顔のまま男は口を引き結んでいた。内心かなり葛藤しているのだろうな、とカルラは想像して少しだけ笑う。そしてもう一押しだとも思った。
「あの子は滅多に何がしたいと言わないだろう? たまの我がままを叶えてやるくらいしても罰は当たらないんじゃないか?」
男が息を詰める。これは碧がスキュラーの様子を見に行きたいと言った時の台詞の使いまわしだ。碧はあまり自己主張をしない。その身体の中には何もないのかと思うほどに。その実、時折弾けそうなほどに詰まった何かを取りこぼして見せることがある。
「戦う術は教えない。身を護ることだけ覚えさせるさ……あの細腕じゃナイフだって重い」
男は初めてカルラと口論になった時のことを思い出していた。表情でそれに気づいたのだろう、カルラが肩をすくめる。
「シャオが言ってたらしいんだが、アンタとアオイには無条件で魔物を従える才があるらしいな」
ん、と肯定とも否定ともつかない声が応える。
「んで、アイツ曰くアオイの力がどんどん強くなってるらしいんだ」
男の脳裏に碧に会いに来たスキュラーの大群がよぎった。男も魔物に好かれている自覚はあるが、確かに碧の才は男以上だ。
「つまり将来的にあの子は魔物を自由に使えるようになる可能性がある。現状でもあの子が危険に晒されれば、魔物は本能的にその原因を排除しようとするんだと……こないだ話したスキュラーの件がいい例だ」
「あぁ……いや、そうか……」
そういうことか、と男は一人呟いた。訝し気なカルラを気にも止めず、額を手で覆う。その下では目まぐるしく思考が駆け巡っていた。
碧が来てから妙に増えていた魔物たちの来訪。指示もしていなかったのに碧の前に姿を現したベリル。いつの間にかエドワードを邪険にしなくなっていったチビ。港で漁師の仕事を手伝ったスキュラー。
――全て、碧が無意識下に望んだ結果だったのだ。口にせずともそれを汲み取って、魔物たちは碧の望みを叶えている。
「いや、でもこれ……」
「不味いよな」
男の言葉を先回りし、カルラはそう言った。
魔物を自由に出来る。それは、世界を大きく変える力を手にしている事を意味する。気に食わないものがあれば、魔物たちをけしかけて滅ぼせばいい。魔物にヒューマーは太刀打ちできない。デミヒューマーなら何とか出来るかもしれないが、双方に甚大な被害が出ることは必至だろう。
シャオが言うには魔物はそれでも碧に従うのだそうだ。碧の傍に居られること、碧の望みを叶えられることこそが、彼らの喜びに他ならないのだから。
「アオイがミズガルドのヒューマーじゃなくて本当に良かった」
カルラが思わずそう言うのも仕方のないことだった。この力を持ったのがミズガルドの普遍的ヒューマーであれば、魔物をデミヒューマーにけしかけて滅ぼした後、自死させていたことだろう。そこまで考えたところでカルラの頭にある考えがよぎる。
「もしかして、前の異世界人はこの力で魔物を殺したのか……?」
碧のこの才を異世界人固有の能力だと仮定するのならば、20年前の彼も同じ力を有していた可能性がある。だとしたら、たかだか十数歳の子供が魔物を殺して回ったという話もまだ頷ける。彼に心酔する魔物に『死ね』と望み、命じればそれで終わりなのだから。
「……だとしたら、教団はこの事を知ってるのかもね。王国とは別にアオイちゃんを狙ってるみたいだし」
男はどこか納得したように呟いた。執拗なほどに碧を狙うのは、その力を欲するが故なのかもしれない。彼らにとって異世界人はただのシンボルではなかったのだ。ノア王国に内密に動いているのにも、何かしら教団としての都合があるのだろうか。それとも、前回の反省を生かしての行動なのだろうか。
「その辺も質問事項に加えておくよ……何にせよ、アオイをあちら側に渡す訳にはいかないな」
あの子が望まない限りは。そう言い添えたカルラはふと顔を上げる。視線の先には苦い物を口にした時の顔をした男がいた。
「……護身術の件も構わないだろう? 多分あの子も自分の可能性に気づいてる」
「そう、だね……うん、頼んだ」
少々呆気なく了承を得られたことにカルラは少しだけ眉をひそめた。が、撤回されても困ると頷く。
「明日は何時くらいに出ればいいのかな?」
「え? あぁ、いつも通りで構わないよ。荷物とかはこっちで用意するしね」
わかった、と短く返した男はカルラに背を向ける。そのままさっさと出ていこうとするので、カルラはその背中に声を投げた。
「おやすみ……しっかり寝ろよ」
「ん、おやすみ」
ぱたんと音を立てて閉じた扉をしばらく眺めた後、カルラは書類整理を再開した。
一方ふらふらと自分の部屋に戻ってきた男はそのままベッドの上に倒れ込んだ。先客のチビがぼよんと跳ねて身体を丸める。どことなく疲れた様子なのを感じ取ったのか、男の頬に鼻先を寄せて甘えるように擦り寄った。
「ねぇ……」
小さな声がぽつりと落ちた。チビは尻尾をふらふらと揺らしながらも居住まいを正す。その頬をわしゃわしゃと撫で、男は黄金と目を合わせる。
「チビが成長したのは、アオイちゃんの為?」
灰青色の狼は何も知らないような顔で首を傾げていた。男はチビを抱き寄せるとその毛並みに顔をうずめる。太陽と土の匂いがする。その奥に染み付いてしまった別の匂いを、男は知っている。
「アオイちゃんは……アオイちゃんなら大丈夫だよね」
男の声に応えるように、チビは一声鳴いた。
◆◆◆◆◆
次の日の男は案の定寝不足の様子だった。食事の際は膝にスープを零していたし、それもチビがズボンを舐めだして初めて気づいていたような有様だった。エドワードが気を揉んでいたのでそちらに任せて大丈夫だろう。カルラは静観しておいた。あれはなかなか気の回る男だ。胃壁が少々犠牲になるかもしれないが。
そうして2人と1匹を送り出した後、碧と連れ立って屋敷の裏手へと向かう。カルラが幼い頃から使っている武闘場だ。普段は一般にも開放していてそれなりに人がいるのだが、今日は2人と2匹の貸し切りになっている。
「んじゃ、始めるか。ベリルとルーナは見学か?」
碧のフードに爪を立ててしがみついていたルーナをそっと引き剥がしながら、カルラは確認するようにそう言った。碧はこくりと頷いて、肩に止まっていたベリルを飛び立たせる。ベリルはそのまま部屋の隅に飛んでいき、不満げに丸まって不貞寝の体勢に入ったルーナを慰めに行った。
「キースに頼んで突貫で作らせた。限界まで柔らかくしてもらってる」
そう言ったカルラは、足元に置いていた大きな籠から手のひらより少し大きいくらいの玉を取り出した。布で出来ているらしく柔らかいそれをぽいっと碧に投げる。運動会なんかで使った玉入れの玉に似ているが、それよりも遥かにふわっふわだった。
「護身術っていってもな……長物や飛び道具からはとにかく逃げるのが一番だ」
カルラは籠から取り出した幾つかを片手でぽんぽんと弄んだ。
「言っちゃあ悪いが、アオイはそれほどタッパは無いし、肉つけるにも時間がかかる。足を鍛えるのが手っ取り早いんだ」
力のない碧には出来ることが限られている。だが、足が早ければ攻撃を避けられる、逃げられる、助けを呼びに行ける。どちらにせよ周りに頼らざるを得ないものの、碧の生存確率は跳ね上がるだろう。……教団や騎士たちが碧の命を狙ってくることはまず無いだろうが。
「そんな訳だから、取り敢えず逃げ回ってみてくれ」
歯を見せて笑ったカルラは片手で握っていた無造作に投げた。わっ、と小さな声を上げて碧は後ろへと下がる。散弾のようにまき散らされた玉は幾つか碧を掠めて地面に落ちた。
「まずは10分だ……始めるよ」
「あ、はいッ!」
意気込んで返事をした碧の髪をなかなかの速度の玉が揺らしていった。痛くはないとはいえ、顔の近くを掠めるとかなりの恐怖だ。思わず身体がすくみそうになる。
それでも、頑張らないといけない。頑張りたい。ぎゅ、と拳を握った碧は深く息を吸った。
――その10分後。
「よし、一旦終わりだ。お疲れ」
カルラの言葉に碧は力尽きたように膝をついた。両手もついて肩で呼吸する碧にルーナとベリルが駆け寄ってくる。
「そこまで体力ないわけじゃないだろうし……変なところに力入ってんだろうな」
「……ッ、はい」
少し噎せた碧にカルラは水を差し出した。自分も瓶を傾けながらボールの籠に腰かける。
「取っ組み合いの喧嘩とかもしたことなさそうだな」
「まぁ、記憶にある限りは……」
「……そう言えば」
カルラはふと思いついたように口を開いた。そうして碧と、碧にじゃれつこうとするルーナをそっと留めるベリルを見つめる。
「記憶喪失云々の話って……」
「あ、え、っと、その……はい、すみません」
気まずそうに口ごもった碧に、カルラはやっぱりか、と笑った。
「なぁ、アオイがいた世界ってのはどんなとこなんだ? 休憩ついでに教えてくれないか?」
カルラが少し前のめりになる。碧はちょっとだけ息を整えてから、話し始めた。
大陸は6つあること。デミヒューマーは魔物はおらず、ヒューマーと動物しかいないこと。魔法は存在せず、代わりに科学が発達していること。
「へぇー……ここのヒューマーにとっちゃ夢みたいな世界なんだな」
「言われてみれば……そうかもしれませんね」
デミヒューマーと魔物さえいなければいいのであれば、碧が元いた世界はさぞかし楽園だろう。頷いた碧は膝の上に乗ってきたルーナの背を撫で、ベリルの嘴を掻いてやる。
「……アオイは帰りたいとは思わないのか?」
意地の悪い質問かもしれないと思いつつも、口を突いて出た言葉は呑み込めなかった。何度か瞬いた黒曜が答えを探すように宙をさまよう。
「そう言えば、考えたことなかったですね」
そう言った碧の手が止まる。が、ルーナが不満げに鳴いたのでそれも一瞬だった。
帰りたくない訳ではない。それだけは確かだった。向こうには家族がいるし、少ないながら友達もいる。それでも、別に帰らなくてもいいと思っていた。
「……嫌なら答えなくてもいいんだが、家族とは不仲だったのか?」
少し前に家族について問うた際の反応を思い返しながらそう尋ねれば、ゆるゆると首が横に振られる。少し意外そうに目を丸めるカルラ。
「不仲だったわけではない、と思ってます」
言葉がするりと抜け出ていった。不思議なほどに凪いだ気分だ。膝の上の体温を撫でながら、碧は言葉を続ける。
「仲が悪かったのは、お母さんとお祖母さん、兄ちゃんと妹でした」
「兄妹いたのか!?」
思わず声を上げたカルラをウトウトしかけていたルーナがむすっとした顔で睨む。ゴメン、と手を上げて謝るとふす、と鼻を鳴らして許してくれた。
「いや、何か意外だな……」
「……そう言えば、おじさんにもそう言われました」
なんででしょうね? と碧は首を傾げた。どうしてだろうな、と適当な相槌を打ったカルラに先を促されて碧の、昔話が始まる。
ベリルはルーナに対してがっつり先輩風吹かせてます。




