23 ニダウェのお嬢様
木漏れ日のように差し込む光を見上げ、碧はそっと目の前の透明な壁に手を着いた。ふよん、と不思議な弾力が触れただけの手をそっと押し返す。
『綺麗でしょ?』
はしゃぐグレイの声に碧は大きく頷いた。その視界の中をきらきらと魚の群れが横切っていく。アクアリウムの内側にいるような神秘的な風景だ。
「すごく綺麗だね」
一行は、海の中にいた。シャボン玉のような水のドームに包まれ、水中を進んでいる。グレイは先導するように水中を歩いていた。エドワードも興味深げに壁に手をついてしげしげと見つめている。シャオは足元が覚束ないのか何度かよろけては男やザクロに支えられていた。
「道分かる?」
『案内頼んだから大丈夫だよ』
男が尋ねるとグレイは水中を旋回しながらそう答えた。
『ニダウェから迎えに来てもらったんだ。1人でいいって言ったんだけど、皆アオイやアクアのこと見てみたいってさ』
シャボン玉にじゃれつくように数匹の魔物が、姿を現わす。小型犬の上半身にタコの下半身を持つ海洋の魔物だ。そのうちの一匹がぐぐ、とシャボンに顔を押し付ける。すると、その魔物は壁を突き抜けて内側へと入り込んでしまう。
勢いあまってべちょ、と床に突撃した魔物を4人は何となく黙って見守っていた。やがて顔を上げるとタコの下半身をもにょもにょと動かして碧に近づいてくる。足元までたどり着くと、つぶらな瞳で見上げてきた。
「えーっと……初めまして?」
碧は取り敢えずそう言った。みゅ! と嬉しそうな鳴き声が返り、犬の前脚が空を掻く。抱っこして欲しいのかと少し屈めば、タコの足と犬の脚両方を目一杯伸ばして抱きついてきた。
しっとりと濡れた毛と、ぬめぬめとしたタコの表皮の感覚が腕に絡みつく。何とも不思議な手触りだった。碧は元々タコや魚、爬虫類などは触れないタイプだった。が、男の家に入れ替わり立ち代わり訪れる魔物たちのお陰ですっかり慣れてしまっていた。
「初めて見る仔ですね」
碧の胸元に収まったその魔物は甘えるように頭を擦りつけてくる。じんわりと冷たい海水が服に染み込んでくるのに気づいて、碧は少し遠い目になった。
「スキュラーだね。おっさんも見るのは初めてだなぁ」
半獣半蛸の魔物、スキュラーが生息するのは海だけだ。陸上でも活動できないことはないが、タコの下半身が渇くと弱ってしまう。そのため海辺から離れた場所では生きられないのだ。
「……いやしかし、圧巻だな」
手のひらを目の上にかざしながら、エドワードは空を見上げていた。あるものは遠巻きに、あるものは興味津々に近くへ。数十はいそうなスキュラーたちはシャボン玉を囲むようにふよふよと泳ぎ回っていた。前見えねぇ、とエドワードがぽつりと零す。
「彼らが案内してくれるって?」
『うん。ギムレーの港に連れてってくれるみたい』
『ギムレー、きれいだよ。アオイたちにもはやくみてほしいな』
へぇ、と碧が小さく呟く。幼く拙い声はスキュラーのものだろう。大きさは小型犬程度とは言え、長い毛並みにたっぷり海水を含んだスキュラーはそれなりに重い。窺うように目を覗き込むと少し残念そうな顔をしたが、頷いてくれた。再び少し屈んでスキュラーを放す。
「……乾かす?」
濡れて色を変えてしまったパーカーを見たシャオが手のひらに炎を灯した。ありがたくその熱を借りて服を乾かしているとがくんと足元が揺れる。シャオが咄嗟に炎を消し、前につんのめったところを碧が抱きとめる――そして一緒に転んだ。
「大丈夫か?」
碧の上に倒れ込んだシャオをエドワードがひょいっと持ち上げた。碧の方には男が手を貸して立たせる。
「グレイ、どうかしたの?」
男が問うと、グレイは少し困ったような表情で振り返った。周りのスキュラーたちもざわついている。
『港の方がちょっと騒がしいんだ……ヒューマーの居住区で何かあったみたい』
「……あっち側は治安悪いからね。大概なにか起きてると思うよ」
エドワードに吊り下げられたままシャオは眉を下げる。場合によってはデミヒューマーがその解決や仲裁に当たることもあるのだ。今回もその類いだろうと説明するシャオにグレイはそっかぁ、と呟いて再び進み始めた。
「そういや、シャオの故郷が世話してくれるっていってたよな? お前、どこの出なんだ?」
「オイラはドウェルグ出身だよ。ギムレーもだけどドウェルグもヒューマーの居住区が割とすぐ近くにあるんだ」
よくケンカの仲裁とかしてたなぁ、とシャオが遠くを見つめる。
「そういや、エディやシャオはともかくおっさんとアオイちゃんはデミヒューマーの町入っていいのかな?」
「あぁ~……どうだろうな?」
男とエドワードが同時にシャオに視線を向ける。床に下ろしてもらったシャオは首を捻った。
「島流し以外でヒューマーが来ることってないからなぁ……どうだろ? ドウェルグの方はオイラが連絡しといたから大丈夫だけど……」
う~ん、と考え込んでいるシャオを尻目に男とエドワードは視線を交わした。入れないのであれば、一旦別行動するしかない。ヒューマーの居住区で魔物を連れ歩くのもまずいだろう。
「取り敢えずは着いてから様子見ようか」
男はそう結論付けるとスキュラーと戯れているチビの様子を見に行った。エドワードもグレイに針路の確認に向かう。シャオは碧とともにアクアリウムを満喫することにした。
それからしばらくして、シャボン玉が少しずつ上昇を始める。分厚い水の層に遮られていた光が強くなっていき、波間とスキュラーたちの隙間から差し込んできた。やがてそれは木漏れ日から陽光となり、シャボン玉の中に降り注いだ。
『ついたよ。ココがギムレー!』
再び碧の腕の中に抱えられていたスキュラーが碧を見上げるように首を伸ばす。碧はそのしっとりした毛並みを一度撫でて、もう一度目の前に視線を移した。
傾いた太陽に照らされ、エメラルドとガーネットを煮溶かしたような海。曇りのない白壁の港ではあちこちで威勢のいい掛け声が上がり、漁師らしき人々が網を投げ縄をたぐっていた。突然に波を割って現れた水の珠に驚いているようだったが、それを先導するように波を駆けるケルピーにはもっと驚いているようだ。
件のグレイは適当な船着き場に水球を寄せて上部の水を海へと戻した。お椀のような形になった水球からワイバーンとヴェズルが飛び立つ。騒めきが一層大きくなり、漁師の代表格らしき女性がこちらへと小走りに寄ってきた。
青い髪に覆われた両のこめかみから生える折れ曲がった角。背からはワイバーンに似た翼が生えている。うら若いバハムーンの女性だ。
ホットパンツにニーハイブーツを合わせ、チューブトップの上に袖のないジャケットを羽織っただけの露出の高い格好をしている。たくましく割れた褐色の腹筋と豊満なバストが見事なギャップを作り出していた。
「こんにちは、突然すみません」
男は港に降り立つ。エドワードが続いたのを見て、女性が少し驚いた表情を浮かべた。
「アンタらは……?」
異色としか言えない組み合わせに困惑しているようだ。その後ろでスキュラーを抱えたままの碧が男の手を借りつつ陸に上がったのを見て、切れ目がちな金色の瞳が大きく開いていく。
「あー……島流しじゃなさそうだけど、何者だい?」
「……カルラ?」
不意に名を呼ばれ、バハムーンがそちらを振り向く。途端、弾丸のように飛んできた影がみぞおちの辺りに着弾して彼女は吹っ飛んでいった。背中で地面を数メートルほど滑ってやっと止まる。男とエドワード、碧の3人は呆然とそれを見ていた。
「い、ってェ……!」
「ひっさしぶりだなぁ! 何年ぶりだろ? 会えて嬉しいよ!」
呻くバハムーン――カルラとは対称的に乗っかった影は楽しそうだ。が、その人影に触れた途端、カルラの方も喜色が弾けた。
「っ、アンタ、シャオか!?」
カルラはがばりと上半身を起こすと、確かめるようにシャオの顔をわしゃわしゃと撫でまわす。完全に犬を撫でる手つきだったが、シャオの方に不満はないようだ。むしろ気持ちよさそうに目を細めて受け入れている。
「ははっ、久しぶりじゃないか! 大きく……はなってないか……いやまぁ、元気そうで何よりだ!」
カルラはシャオを抱えたまま立ち上がる。もう一度ぎゅっと抱きついてから身体を放すとシャオを地面に下ろした。そうしてようやく男たちと目を合わせる。
「じゃあ、アンタらがシャオの友達か?」
「えぇ。貴女もシャオの友達なんですか?」
おう、と何とも男らしく答えたカルラはにっかりと笑った。そうして遠巻きに集まっていた漁師たちに持ち場に戻るように伝える。シャオとカルラのやり取りで大体の事情を察したらしく、異を唱える者はいなかった。
「あっちでもヒューマーの友達出来たのか……良かったなァ」
ぐしぐしとだいぶ下の方にある若草色の頭をかき回す。そうしてぽんぽんと2度叩くと、表情を少し引き締めた。
「会えたのは嬉しいけど、何で戻ってきたんだ?」
「……ぇえっと」
途端に表情を曇らせるシャオ。泳ぐ視線を捉えようとはせず、カルラは男の方を向いた。
「長くなりそうだし、アタシん家来な。疲れてるだろ?」
「ん、じゃあ……甘えさせてもらおうか?」
男が確認するようにそう言うと、エドワードと碧が頷いた。舞い降りてきたベリルがエドワードの肩にとまって、こちらも賛同するように鳴く。
「決まりだな、ほら行くぞ」
カルラはシャオの背中を軽く叩くと3人に背を向けて歩き出す。シャオが慌ててそれを追い、男とエドワードも続いた。
碧はスキュラーを海に返そうと防波堤の端に屈む。スキュラーは少し名残惜しそうに抱きついてきた。
「また遊びに来るね」
『……やくそく、だからね』
指きりのつもりなのか差し出されたタコの足に小指を絡める。ゆるゆると上下に振った後、スキュラーは海に飛び込んだ。顔だけ出してこちらを見つめるスキュラーに手を振り、碧もカルラたちの後を追った。
相互ともにすっかり忘れていた自己紹介は道中で済ませた。男が名乗らなかったことに関して少し不信感を持たれてしまったようだが、見た目通り度量の広い女性なのだろう。特に追及はせず、眉を上げるに留めていた。
「取り敢えず入って。申し訳ないけど、ワイバーンとケルピーは外でいいかい?」
カルラは一軒家の前で立ち止まった。周りを真っ白な塀で囲まれた大きな屋敷だ。とは言え流石にケルピーら大型の魔物は入れないらしく、庭を指し示して男たちにそう尋ねた。
『いいよー』
頭の中に入り込んで来た幼い声にカルラが目を引ん剝いた。いつぞやかの碧と全く同じ仕草でグレイたちの方を手で指し示す。視線を投げたシャオが頷いたので、カルラは大きく息を吐いた。
「……テレパシーが使える魔物がいるなんてねェ」
『ボクもボクら以外には知らないな』
にわかに信じがたいといった様子でそう呟く。悪戯っぽく笑うグレイに苦笑いしてカルラは2匹を庭へと案内する。ザクロは芝生を燃やさないように厳命を受けていた。
3人と残りの2匹はカルラに連れられて玄関近くの部屋に通された。壁際には大きな風景画が飾られ、敷かれたラグは品が良く一見して高級なものだとわかる。机や椅子、棚などの大きなものから花瓶やメモ帳に至る細かな調度品も全体の雰囲気を壊さないように選ばれ、配置されている。
カルラはそんな荘厳な部屋に入るなり窓を開け放った。そこからグレイがひょこりと顔を出す。チビは落ち着かないようで、きょろきょろと辺りを見回しては鼻先を細かく動かしていた。
「お嬢様、お客様ですか?」
不意に開けたままだった扉から涼やかな声が聞こえた。振り返れば、カルラと同じく折れ曲がった角と小ぶりな羽を持った老齢の男が音もなく佇んでいた。
「お嬢様?」
「何か言いたそうだなァ?」
エドワードが思わず漏らした単語にカルラが噛みつく。エドワードが弁明するより早く、シャオが声を上げた。
「キー爺! 久しぶり!」
「……これはこれは、シャオ様。お久しゅうございます」
老齢の男はやや腰を屈めてシャオに挨拶を返した。男とエドワードが扉側にいたので見えなかったのだろう。2人が左右に退くと、シャオを見つめて懐かしそうにしわの溜まった目尻を細めた。
「事後報告で済まない、キース。悪いが茶と軽食を用意してくれ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
キースと呼ばれたバハムーンの老人はきびきびとした仕草で踵を返すと部屋を出ていった。カルラは部屋の中心に据えてあった大きなテーブルを片手で軽々と持ち上げ、反対の手で椅子をまとめて引きずり窓際へと移す。
「取り敢えず座んな。話を聞かせてもらおうじゃァないか。アタシも聞きたいことが山ほどあるんだから」
そう言って長い脚を組んでニヒルに口の端を上げて笑うカルラ。その姿はやはりお嬢様というよりは姉御だった。
女性キャラ初登場かもしれません。




