12/21・墜落する星/what it is like・中
その日は朝から雨が降っていた。地球で体を得てから初めての雨だった。
前の日の夕方まで、そこそこの数の子どもが走り回っていた公園は悪天候のせいで誰もいなくて、ぼくは入り口のところで引き返そうかと思案した。
彼女が気に入っているらしいブランコや、ところどころ錆びているジャングルジム、ドーム型になっていて中が空洞のコンクリート遊具は全て雨粒で濡れていて、ひっそりとそこに佇んでいる。ベンチもいくつか設置されていたけど、屋根が付いていないためそこにも当然人はいなかった。
そのときのぼくは引き返すことはせず、ところどころ水たまりが出来ている公園内に入っていき、ただ無言でブランコに座った。
体に当たる雨はなんとも言えない感覚で、途中見かけた人間達が傘を差しながら歩いている理由がなんとなく分かった。
物理的な体を持つ生き物は、体が雨に曝されることをあまり好まない。触覚は生きるための術として生まれたのだろうけど、そもそも体を害されるという概念のなかったぼくには不可思議な感覚に思えた。
水瀬あさひの観察は、彼女が公園に来るときにしか行っていなかった。しようと思えば片時も離れず観察することだって可能だったのだけれども、それをしなかったのは、観察サンプル数を増やすため彼女以外の人間の観察も行っていたからだ。
もちろん観察のメインに据えるのは彼女という存在だったけど、とにかく、その頃のぼく達は人として生活するにあたって人間というものに早く慣れなければならなかった。人の生活に潜めるように。溶け込み観察できるように。
一番はじめ、この地球にやってきたとき、感情を持つ生き物を観測したぼく達は、ヒトの観察を行おうと思った。しかし視覚を持たないぼく達は、物質的な体を持つ彼らを正しく観察することが出来なかった。
だからぼく達は、まず、ぼく達とコミュニケーションできる存在を探した。そして見つけたのが管理者なのだ。管理者は、この惑星で唯一ぼく達と同じく体を持たない精神体として存在していた。ぼく達は唯一交流できる相手であるこの管理者にアクセスした。
初めて管理者と対話をしたぼくの仲間は、驚くべき発見をした。管理者はぼく達とほとんど同じ精神体であるにも関わらず、ヒトと同じく『感情』を持ったまま存在していたのだ。この事実は、管理者がぼく達とは違うルーツで発生した存在であるかもしれないということをぼくらに示した。
ルーツは違えど、同じ精神体としてコミュニケーションが取れるという事実はぼく達にとって好都合だった。観察などしなくとも、『感情』がどういうものなのか管理者に聞けばすぐに分かると思ったのだ。
しかし、ぼく達がかつて捨ててしまった『感情』という機構を持っている管理者は、情報の共有を拒んだ。情報共有が出来ればあっという間に解決する問題に対して、管理者はぼく達が実地で、自分たちの目で、『感情』を観察しろと言った。
こういったわけで、当初の予定通りぼく達・他称宇宙人はヒトの観察をすることになったのだ。
管理者から地球人の体を借り受け、いくつかの約束事と知識の幾ばくか、それから借り受けた体でぼく達が出来ることについて脳にインプットした。
物理的な力量も動物的な感覚も、借りた器に依存する。器に入れられたぼく達は見た目も出来ることもほとんど普通のヒトとなんら変わりは無かった。
ぼく達をぼく達たらしめたのは、遥かに優れた情報処理能力を有していたからだ。それがヒトとぼく達とを明確に線引きしていた。
得た情報を操作・取捨選択し、必要があるならツールを用いることなく同種族である個体と情報を共有することができる。これは体に依存しない存在として、精神体として進化を遂げた結果得られた能力だ。
本来ならこの情報処理能力をヒトの精神に作用させることは不可能だ。ヒトの精神は体に、もっと言えば脳に強く紐づけられていて、ぼく達には精神と脳がどういったメカニズムで相互作用しているのかが分からない。
地球でもこの力が使えるようにしたのは、他の誰でもない管理者だった。しかし、この力はヒトには過ぎた力であったらしい。物理的な体を持つヒトと、精神体のぼく達。物理的な体は、ぼく達には窮屈すぎた。簡単に言えば規格が違ったのだ。
データ容量の小さい記憶媒体へ、決められた容量以上のデータが入れられないように。結構な割合で無理のある話だった。管理者は膨大なデータそのものであるぼく達という存在を、無理矢理ヒトの規格に合わせ、器に押し込んだ。
歪みが起こるのも、無理からぬ話だった。ぼくらの力はヒトには過ぎた能力で、管理者はその力を引き出せるようにしたけど、それでも力を使うと器に負荷がかかってしまう。
使ってすぐにどうこうなるような負荷ではないけど、長期的な観察をする予定だったから出来れば使うのは避けたかった。けどその日、ぼくはほとんど意図せず、器に負荷が大きくかかるほどの力を使ってしまった。
「アマネくん?」
雨音に紛れた声を、ぼくの耳はきちんと拾った。視線を移動させるとドーム型のコンクリート遊具の中から彼女がこちらを窺い見ていた。
彼女は目が合うと慌てたように背中を向け、その数秒後にコンクリート遊具から飛び出してきた。バサッという音がして、傘が開く。彼女は傘を持ったまま走って寄ってきて、ぼくは動かずその様子をじっと観察した。
「びしょぬれ!」
「うん」
「風邪引いちゃうよ!」
「うん」
多分これは、怒ったときの顔。ブランコに座って立ち上がろうとしないぼくに焦れた彼女は、ぼくの腕を引っ掴んでその場に立たせた。彼女の傘はとても小さくて、二人で入ると色んなところが濡れてしまう。
「ぼくはもう濡れてるから、傘を傾けなくてもいいよ」
「いいの!」
どこに行くのかと思ったら、先程彼女がいたドーム型遊具の中に引っ張り込まれた。ぐいぐい押し込まれた遊具の中は、天井に丸い穴が空いていて、側面に数カ所出入り口があるのにも関わらず外よりもほんのりと暖かく、雨宿りが出来た。中には彼女のランドセルが一つ。彼女は傘を丁寧に閉じて、壁に立てかけた。それからぼくを頭のてっぺんからつま先まで見て、ランドセルの中をごそごそと漁りだした。出てきたのは巾着袋だった。
「アマネくん、これ着なよ」
「これ何?」
「体操服」
「いいの?」
「だってびしょぬれだと気持ちわるいでしょ……」
そういうものなのかな。そしてこれは着た方がいいのかな。巾着袋と彼女を交互に見る。見たところ、彼女は差し出したものを引っ込めるつもりは無いらしい。両手で袋を受け取ると彼女の表情は和らいだ。
半袖の、それなりに厚手のシャツと、深い紺色のハーフパンツ。体操服には、腹側と背側に大きく彼女の苗字が書いてあった。これは個体の識別をするのに便利そうだ、なんてことを考えていると着替えている最中壁に寄りかかってずっと無言だった彼女が口を開いた。
「アマネくん、なんでびしょぬれなの?」
特にこれといった理由は持ち合わせていない。気付いたらいつものように公園にいた。そしてたまたま傘を持っていなかった。それだけだ。
「なんとなく」
「……変なの」
「君はどうしてここにいるの?」
地面の上に倒れているランドセルを見れば、家に帰っていないことは明白だ。彼女はふらりと視線を逸らして「家に帰りたくないから、ここに住むの」と、子どもらしい現実味のないことを呟いた。
「住むの?」
「うん」
「無理だと思う」
「……」
彼女は緩慢な動きでしゃがみこんで、体育座りをした。そして体育座りをした膝に額を乗せて「そんなこと分かってるよ」と投げやりな言葉を返してきた。くぁ、と一つ大きなあくび。あまり眠れていないようだった。
「隣に行っていい?」
「そんなの、アマネくんの自由にしたらいいよ」
言葉通り隣にぴたりとくっ付くと、丸くて黒い瞳がちらりとこちらを見た。
「自由にしていいって言ったけど、こんなにくっ付くとは思わなかった」
外の雨音に混ざって、彼女の控えめで小さな笑い声がドーム内で反響している。胸のあたりが何だか苦しい。昨日の夜時点では体に不調は無かったはずだから、この苦しみは錯覚なのだろう。ヒトの体は思い込みで不調を訴えることもあるらしい。だからこれが錯覚によるものであるということは十分に考えられた。外殻はヒトそのもので中身はヒトと全く異なるぼくに、果たしてそのメカニズムが適用されるのか、という疑問は残ったけど。
ひとしきり笑った彼女はふうっと息を吐いて「あーあ、帰りたくないなあ」と聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。
「どうして帰りたくないの?」
彼女はまた額を膝に乗せて呻いた。
「……最近家に帰ると、知らない大人の人がいっぱいいるから」
「知らない大人?」
「うん。私ね、ぼんやりしてるからよく事故とかに遭いそうになるんだけど、それは悪いものが取り憑いてるからなんだって。
それを追い払ってくれるのが知らない大人の人たちなんだけど、私、あの人たち嫌い。あの人たちが来るとお父さんとお母さん、仲が悪くなるし」
「……そうなんだ」
雨音は止まない。会話が途切れて、体の半身がやけに温かい。うとうとしながら彼女は「アマネくん、何時に帰る?」と問うてくる。さっきまでそれなりに明るかった外は、いつのまにかほとんど夜と言っても差し支えないくらいに暗くなっていた。
「君と一緒の時間に帰るよ」
「じゃあ、帰らなくていいよ。ここに住もう」
「ぼくはともかく、君がここに住むのは無理なんじゃないかな」
「……アマネくん、さっきから無理って言葉ばっかり使ってる。なつかないキツネみたい。私はたぶんアマネくんになついてるのに」
「君の言う、なつくってどういう意味?」
「ん、たぶん……好きってことかなぁ」
とうとう眠気に勝てなかったらしい。彼女は完全に寝入ってしまった。そんなちょうどのタイミングで、雨音に紛れて足音が近づいて来た。あさひを呼ぶ声、声、声。複数人数の足音。
側面の穴から、近づいて来る足が見えた。そしてその足はドーム型遊具の前で立ち止まり、中を覗いた。傘をさし、ぼくや彼女よりも大きな体を持つそのヒトは、ぼく達の姿を認め驚いたような声を上げた。慌ただしく通信端末をポケットから取り出して、それに向かって何事かを捲し立てた。
胡散臭い笑顔の大人に何かを言われて、ぼくはそれに応えた。ここからは、記憶の欠落が多くなっている。
ぼくは大人に抱えられた彼女の後に着いていって、彼女の家に行った。彼女の家には彼女の両親らしきヒトが二人と、彼女が言っていた『知らない大人の人たち』だと思われるヒトが数人。
そこでぼくは、その場にいた水瀬あさひ以外の人間の記憶を部分的に消去、操作した。観察するにあたって不都合があれば記憶の操作をする。この日以前にもそういったことはしてきた。してきたけど……
「随分色々なものを消したんだ。どうして消したの?」
「水瀬あさひの観察の、障害になると思ったから」
「あぁ、そう」
ぼくにだけ見える形をとり、彼女の姿で管理者は笑った。ぼんやりとした表情の『知らない大人の人たち』がぞろぞろと外に出て行く様子を眺めて笑っている。
「君の観察相手は、眠っているんだねぇ」
ソファーの上に寝かせられた彼女に近付いて、管理者は「おや」と首を傾げた。
「意識に阻害作用が働いてるね。君がやったの?」
「大人達がうるさかったから。起きてしまうかと思って」
したり顔で管理者は頷いて「……へぇ、なるほどね。ほら、君もそんなところで突っ立ってないでこの子の安らかな寝顔を見てみなよ」と手招きをする。
ぼくが動かず無言でいると、分かっている癖に驚いたような表情で管理者は「もしかして、膨大な量の力を使ってしまって動けない?」と問うてきた。いちいちわざとらしいのはきっと意識してやっているからなのだろう。
「……」
「自業自得だね」
「……」
「無視するなよ、ボクと君の仲だろ」
彼女が眠っているソファーの端に座って管理者は足を組む。大人たちは去り、彼女の両親には別の部屋に移動してもらった。だからここにはぼくと、管理者と、眠る彼女しかいない。
「本来ならこの子は、今日死ぬはずだった」
管理者はその小さな手で彼女の髪を梳いた。
「大人達に見つかったこの子は公園から逃げて、視界の悪い雨の中を走行していた車に轢かれてしまうはずだった。だけど君が邪魔をしたから、結果として運良くこの子は生き延びることが出来た。
でもね、君のその力はこの子を救うためのものではない。今日その力を無駄に沢山使って分かったと思うけど、次、大きな力を使えば君の器は駄目になるから」
「はやく次の観察相手を見つけるといい」
瞬き一つ。一瞬で管理者はぼくの視界から消え失せた。そして管理者と入れ替わるように、あさひの瞼が開いた。
「おはよう、あさひ」
彼女は眠そうに目をこすって少し体を起こした。視線が右に左に揺れて「あれ、家?」と寝ぼけ眼で呟く。「そうだよ」と答えれば不安げに眉根が寄った。
「大人の人たちは?」
「そんな人たちいないよ。多分悪い夢を見てたんだ」
「夢?」
「うん。全部全部、悪い夢だ」
「そっか、夢か……あの大人の人たちはもう来ない?」
「元々、そんな大人はいなかったんだよ」
目隠しをするように、彼女の額のあたりに手を翳す。現実と夢の境を曖昧に。……ヒトの体はとても不便だ。雨が体に当たると煩わしいし、記憶の取捨選択は出来ない。ぼく達がかつて捨てた『感情』だって、きっと不合理なものだと断じられて捨てられてしまったものなんだろう。
「ありがとうアマネ君」
翳していた手を一旦よけて彼女の目を真正面から見る。
「どうしてお礼を言うの?」
「わかんないけど、なんか言いたかったから」
これは多分、嬉しいときの顔。下がる眉尻、細まる瞳、上気する頬。嬉しそうな表情のあさひを観察していると、再度胸のあたりが苦しくなった。
ぼく達がかつて捨てた『感情』が不合理なものだったとしても。それでもぼくは、彼女を、水瀬あさひを目の前にすると、それがどういったものなのか知りたくなってしまった。思えばこの日の時点で、ぼくは深刻な不具合を抱えていたのかもしれない。