ある2人の約束
3カ月も更新止めておいて、予告を裏切った作者がここにいますよ。運営さん、こいつです。
すみません、オースチン視点書いてる最中に、「あれ? これ展開的に過去話先に入れた方がいいんじゃない?」と思ってしまいまして……急遽過去話を入れることになりました。
オースチン視点は次回です。
流石に次回は今回みたいに月単位で更新止めたりはしないので、そこはご安心を。
「やったー私の勝ち! 今日の水汲みはレオの番ね!」
先に井戸に着いたテナが、そう言って快哉を上げる。
「くっそぉ、負けた……」
一瞬遅れて井戸に手を着いてから、俺は息を整えながら声を絞り出した。
毎朝恒例の井戸までの駆けっこ。今日はテナに軍配が上がった。
仕方なく、勝負に負けた俺はテナの分の桶も受け取ると、水汲みを始めた。
体全体で引っ張るようにしながら、井戸の底まで下ろした桶を引っ張り上げる。
それを2回繰り返して、2人分の水汲みを終えた。
「ほら」
テナの分の桶を渡してから、俺も自分の分を持って家路を辿る。
「ふっふっふ~、レオったら男の子のくせに足遅いんじゃなぁ~い? 今日で4連敗じゃん」
「うっさい、明日は勝つんだよ」
「はいはい、昨日もそう言ってたけどね~」
隣同士の家に同じ年に生まれた俺達2人は、物心付くころから一緒にいた。
そして、2人が7歳になった頃から、勝気で男勝りなテナの提案で、俺達は何かと勝負をするようになっていた。
家から井戸までの駆けっこ勝負。
洗濯物勝負。
庭の草むしり勝負。
家のお手伝いにかこつけて、俺達はいつも勝負をした。
どっちが速く出来るか。どっちが上手く出来るか。
そして、負けた方には罰ゲームがある。
だからこそ、俺達はお互いに本気で勝負をした。
「大体、勉強なら俺が絶対に勝つんだ。そんなに言うなら勉強も勝負に入れようぜ」
「それはイヤ。薬師のお父さんに教えてもらってるレオに、私が勝てる訳ないもの」
「だから一緒に習えばいいじゃないか。おじさんだってそう言ってただろ?」
「お父さんだって簡単な計算しか出来ないし。いいもん、私の家は農家なんだから、計算も文字も必要ないもん」
「出来た方が絶対役に立つって。勉強が習える機会って貴重なんだぞ?」
「そんなの知らな~い」
テナは女の子の割に運動神経が良く、勝負は俺が負けることの方が多かった。
でも、それも俺達が10歳になるまでだった。
その頃になると、単純な運動勝負で俺が負けることはまずなくなった。
しかし、勝負自体は続けていた。
テナがハンデを付けることを拒否したのもあって、勝負の内容はその時々で変化した。
夏には虫取り、冬には雪合戦。
ある時は羊毛を使った糸作り。
またある時は行商人との値切り交渉。まあこれは可愛い女の子と平凡顔の男子、どちらに分があるかは明白だったが。
この頃になると、賭け事の内容など半ばどうでもよくなり、純粋にテナとの勝負を楽しむようになっていた。
勝てば素直に嬉しいし、負けてもテナの輝くような笑顔が見られるのだから。
俺にとっては、勝っても負けてもご褒美があるようなものだった。
その感情が恋だということに気付いたのは、それから2年後のこと。
この小さな村の中で終わるはずだった俺達の運命が、大きく歪んでしまった年のことだった。
「この村のテナという娘が運命の巫女の1人であると神託が下った」
それが、ある日突然俺達の村を訪れた騎士が宣言した言葉だった。
伝え聞いた話によると、先日王都の神官長に神託が下り、“魔”が発生することの予告、ならびに勇者と運命の巫女の指名が行われたという。
その1人に、テナの名前があったというのだ。
その夜、運命の巫女を輩出するという名誉に村中がお祭り騒ぎの中、俺とテナは村を抜け出して近くの丘に来ていた。
この丘はたくさんの種類の花が咲き誇るちょっとした名所で、小さい頃からよく2人で遊んだ場所だった。
丘の上に座り、並んで星空を見上げる。
言いたいことはあるのにどうしても言葉にならず、胸の中に色んな言葉が浮かんでは消える。
2人共無言のままただ時間だけが過ぎ、少し肌寒くなってきた頃にようやくテナが口を開いた。
「……セルラナ」
「え?」
「ほらここ。この季節に咲いてるのは珍しいね」
「ああ……本当だ」
「小さい頃は、よくこのおじさんの手伝いがてらセルラナを探す勝負をしてたっけ」
「そうだね。最近は俺の方が探すのが圧倒的に早くなったからやらなくなったけど」
「あの頃はなんだかんだいい勝負になってたよね」
「ははっ、でも2人が勝負してる間に、父さんは2人合わせたよりもずっと多い数のセルラナを採取しててさ。なんだか自分たちがすごい低レベルな争いをしてるみたいで恥ずかしい気分になったよな」
「そうだったね。でもって2人組んでおじさんに挑んだんだけど、結局一度も勝てなくて」
「それがどうしても悔しくって、いろんな本を読んでいる内に、薬草の中でセルラナの生育場所だけはすぐ分かるようになっちゃたっけ」
「そうだったんだ。あっ、こっちはフィリアナじゃない? 小さい頃よく蜜を吸ってたよね」
「テナはそれ見付けたら必ずやってたもんなぁ。それで一回、虫が付いてることに気付かずに花を吸っちゃってさ」
「やめて! あれすごいトラウマなんだから!」
「はははっ、あれ以来テナは花の蜜を吸わなくなったよな」
「笑い事じゃないよ……危うく虫食べちゃうところだったんだから……」
「ごめんごめん。でもあの時のテナすっごい声出してたからさ」
「むぅ……そんなこと言うなら、レオだって昔私がポケットに長虫入れた時すごい悲鳴あげてたじゃん」
「あれは驚くだろ! というか、俺はまだあの時のこと許してないからな!」
「ぷぷっ、まだ引きずってるのぉ~~? 小さい男ぉ~~」
「うっさい! あんまりにもビックリしてポケットの中で潰しちゃったんだからな! そのズボン履き続けなきゃならなかった俺の身にもなれよ!!」
「あははははっ」
「笑うなーー!」
「あはは…………」
「……テナ?」
不意に、テナが笑い声を収めて俯いてしまった。
そして、ぽつりと小さな声で囁く。
「……やっぱり、行きたくない」
「え……」
「やっぱり、行きたくない! この村を離れたくない! お父さんやお母さんや……それにレオとも! ずっと、ずっと一緒にいたいよぉ!!」
「テナ……」
「王都なんて行きたくない! 他の国なんてもっと行きたくない! 使命なんて知らない! 私はここで、この村でずっと生きていたいよぉ!!」
「……」
涙を流しながら震え声で叫ぶテナに、俺は何も言えなかった。
自分の心のままに、「じゃあここにいろよ。俺もテナと一緒にいたいよ!」と言えればどれだけよかったか。
でも、そんなことを言ってはいけないことが分かる程度には、俺はもう大人になってしまっていた。
運命の巫女として女神様に指名を受けた以上、それを断ることなんて出来っこない。
そんなことはこの国の民が、いや、この大陸に住まう全ての人々が許しはしない。
国の上層部は、どんな手を使ってもテナに使命を果たさせようとするだろう。
それこそ、いざとなればテナの大切な人を人質に取ってでも。
だから、ここで引き止めることは出来ない。
今俺がすべきことは、テナの背中を押してやることだ。
俺は泣きじゃくるテナから視線を外して立ち上がると、星空に向かって叫んだ。
「俺は! いつか必ずこの国一の! いや、この大陸一の薬師になる!!」
「え……?」
突然の叫びに、テナが真っ赤に泣き腫らした目で呆然と俺を見上げる。
そのテナに視線を合わせて、俺は強く笑って言った。
「そのために、俺は父さんの元での修業を終えたら王都に行く。王都で国家公認薬師になって、その数年後には国家公認薬師筆頭になる。そして、いつかはこの大陸一の薬師になるんだ!!」
「レオ……?」
「だからテナ。お前がこの村に残ったからって、俺は一緒にはいられないぜ。俺は夢を追って王都に行くんだからな! まあ精々、お前はこの村で俺が伝説となるのを風の便りで知るといいさ」
そう言って挑発的な笑みを浮かべると、テナの目に強烈な対抗心が燃え上がった。
「ふ、ふんっ! やれるもんならやってみなさいよ。あんたが伝説になるって言うなら、私だって伝説になってやるわよ! 見てなさい! 大陸中の“魔”なんてあっという間に浄化して、史上最高の巫女になってやるから!!」
そう言ってビシッと俺に指を突き付けるテナを見て、俺は内心で安堵の息を吐いた。
しかしそれを表には出さず、より挑発的な笑みを深めて言った。
「なら勝負だな! 俺が大陸一の薬師になるのと、お前が大陸中の“魔”を祓うのと、どっちが先か」
「いいわよ。やってやろうじゃないの! 何を賭ける?」
「それは――」
そこで、言葉に詰まる。
「言え! 今言わなくてどうするんだ!」そんな言葉が脳裏で響く。
目を閉じてテナへの想いを再確認し、勇気を奮い立たせる。
そして、俺は一度深呼吸をした後、意を決して口を開いた。
「俺が――」
「レオが思い付かないなら――」
2人の声が重なってしまい、2人とも口を噤む。
「……どうぞ」
「いや、そっちこそ……」
そこでお互いの顔色を窺って、俺はふっと息を吐いた。
「……同時に言おうか」
「……いいよ」
そして、2人揃って息を吸うと、同時に叫んだ。
「「もし、俺(私)が勝ったら――――」」
「「俺(私)と結婚して(くれ)!!!」
そして、同じ内容を叫んだことにキョトンとして顔を合わせる。
そして同時に噴き出した。
「ちょっ、レオったら顔真っ赤じゃない!」
「うるせぇーー! 言っとくけどお前だって真っ赤だからな!」
「私のは泣いたからですぅーー」
「うそつけ! さっきまでそんなに赤くなかったぞ!」
そうやって2人で笑い続け、やがて笑い疲れた頃に、俺はぽつりと言った。
「あぁーーあ、これじゃあ賭けになんないよなぁ」
「そうねぇ……じゃあ、こういうのはどう? どっちがプロポーズするかを賭けるっていうのは?」
「なんだよそれ?」
「私が勝ったらレオからプロポーズするの。当然あんたが考え付く最高にロマンチックな方法でね。その代わり、もしあんたが勝ったら私からプロポーズしてあげる」
「おいおい……それ、もし俺が勝ってもかなり情けなくないか……?」
そう言うと、今度はテナが挑発的な笑みを浮かべた。
「あぁ~ら? 運命の巫女様からの求婚では不満かしらぁ~?」
その顔でそんな風に煽られたら、俺に引くという選択肢はない。
同じ様に笑いながら、俺は受けて立った。
「……いいぜ。巫女様に王都民の前で『レオ様、どうか私と結婚してください』って言わせてやるよ」
「ふふんっ、私こそ、王都中の住民が見守る前で跪かせてあげるんだから!」
そして、俺達は約束を交わした。
今までで最大級の勝負。お互いの人生を賭けた勝負の約束を。
そしてその翌日、テナは騎士に連れられて村を去った。
* * * * * * *
テナが旅立った後も、村には月に1、2回の頻度でテナからの手紙が届いた。
1通はテナの家族宛て、そしてもう1通は俺宛てだ。
手紙の中には、テナが運命の巫女として力を付けていく様子が生き生きと描かれていて、俺も頑張らなければならないと思った。
俺が「父さんに習った薬を全部自分で調合出来るようになった」と書けば、テナは「“魔”に侵された羊の群れを祓った」と返し、「父さんの手を借りずに馬に蹴られたおじいさんを治療した」と書けば「“魔”が発生した村を1つ救った」と返される。
こんな手紙の上でも当然のように競い合う自分達に苦笑しつつ、それでも俺は、こんないつも通りのやり取りに強い安心感と満足感を得ていた。
しかし、テナが旅立って8カ月が経過した頃から、テナの手紙が村に届かなくなった。
こちらから送った最後の手紙にも一切返信はない。
1月待っても2月待っても、テナからの手紙が届くことはなかった。
流石におかしいと思った俺は、父さんに相談することにした。
もしかしてテナの身に何か起こったのではないかと思うと、居ても立ってもいられなくなったのだ。
俺の話を聞いた父さんは、薬草を仕入れに王都に向かうついでに、テナのことを聞いて来てくれると言ってくれた。
そして、父さんは王都から驚くべき話を持って帰って来た。
「勇者一行は全員無事だ。ただ、彼らに同行していた騎士団の精鋭部隊が隣国で全滅したらしい」
「ええ!?」
思わず父さんに掴みかかりながら、急き込むように尋ねる。
「テナは!? テナは無事なのか!?」
「落ち着け。さっき言った通り、テナちゃんは無事だよ」
「じゃあなんで手紙が来ないんだ!」
「それは……」
そこで父さんは少し目を逸らすと、「飽くまで私の想像だが」と前置きしたうえで語った。
「テナちゃん達が今滞在している隣国は、勇者一行を取り込みたいと考えているのかもしれない」
「え……?」
「勇者一行は、勇者様自身を含めて基本的に平民の集まりだ。巫女様の1人は貴族令嬢らしいが、それだって彼女自身が爵位を持っている訳ではない。はっきり言ってしまうと、勇者一行にはこの国に縛られるだけの公的な地位が無いんだ。だから、もし勇者一行が他の国を気に入って移住したいと言った場合、この国にその意志を捻じ曲げる権利はないんだよ」
「そんな……!?」
「もちろん、彼らにだってこの国に残した家族がいるだろう。だから実際にそんな事態になることは早々ない……と思う。でも、もしその家族からの手紙が途絶えたら?」
「あ……」
つまり、そういうことか。
隣国はテナに故郷を捨てさせるために、テナが出した家族や俺への手紙を握り潰しているということか。
愕然とする俺に、父さんは「飽くまで私の想像だぞ」と念押しした。
そして、こうも続けた。
「だが実際、王国の騎士団が全滅したにも拘らず、隣国は代わりとなる部隊の派遣を拒否しているらしい。『自国にこれ以上、無闇に他国の軍事組織を入れたくない』と言われてしまえば、王国としても無理強いは出来ない」
だがそれでは、勇者一行がたった4人で隣国に取り残されているということになる。
「テナ……」
もし、もしテナが、突然俺が手紙を返信しなくなったと思い込んでいたら?
そのことで深く傷付いていたら?
そう思うと、不安と焦燥に胸を掻き毟られるような心地がした。
だが、俺からテナに連絡を付ける手段があるかといえば、それは否だ。
隣国が国を挙げて動いているなら、一庶民である俺にはどうしようもない。
それに直接隣国を訪ねようにも、今は大陸中が、いつどこで“魔”が発生するかもわからない緊張状態だ。
一般人は、入国も出国もかなり厳しく制限されているだろう。
そもそも、この情報自体がどのくらい前の情報か分からない。
本当は半年前の情報で、テナ達はもう別の国に移動しているかもしれないのだ。
国内ならともかく、全く現在地が分からない相手に、どうやって連絡を付けろというのか。
突然、自分とテナを繋ぐものが酷く頼りなくなった気がして、どうしようもなく心細い気分になる。
(でも……)
大丈夫だ。
俺達には約束がある。
あの日交わした勝負の約束。俺達2人の絆。
そうだ、テナは一度やると決めた勝負は絶対に白黒つける。
勝手に勝負を放棄して、うやむやにするなんてことはあり得ない。それは俺が一番よく知っている。
だから、俺はそれだけを信じていよう。
テナが見知らぬ土地で頑張っているというなら、俺も1人で新天地へと歩き出そう。
いつか訪れる再会の時に、「俺の勝ちだ!」と胸を張って言えるように。
俺も進もう。ただ真っ直ぐに。
そう心に決めると、俺は父さんの顔を見上げてはっきりと宣言した。
「父さん、俺王都に行きたい」
* * * * * * *
コンコン
『入りなさい』
一枚板で出来た重厚な扉をノックすると、扉の向こうからしわがれた声が返って来た。
「失礼します……」
挨拶しながら部屋に入ると、中は古い紙の匂いと薬草の臭いとが混在した、何とも言えない臭気に満ちていた。
反射的に顔をしかめそうになるのを堪えながら部屋の奥を見ると、様々な薬草と器具が乗っかっている大きな机の向こうに、眼鏡を掛けた1人の老人が立っていた。
歳の頃は60を過ぎたくらいだろうか。
頭巾で纏められた髪は真っ白に染まっており、顔も手も皺だらけで、腕も細く筋張っている。
しかし、その枯れ枝のような外見に反して、そのシャンと伸ばされた背筋と深遠なる英知を感じさせる瞳は、力強い生命の輝きに満ちていた。
王都に行って国家公認薬師を目指すと伝えると、父さんは「この人に師事するといい」と言って、1通の紹介状を書いてくれた。
その相手こそがこの老人で、なんと現国家公認薬師筆頭だ。
なんで父さんがそんな人と知り合いなのかと思ったが、どうやら父さんが一時期師事していたらしい。
(凄い迫力……この人が現国家公認薬師筆頭ヴジハ・ラロザン。薬師の名門ラロザン子爵家の先代当主の弟であり、名実ともにこの国一番の薬師……)
じろりと向けられた視線に、自然と背筋が伸び、体が緊張する。
鋭い視線が俺の体を上から下まで往復した後、その細い手に持った父さんの紹介状に向けられる。
「おぬしがゼオの息子か。まったく、あの馬鹿弟子め。久しぶりに連絡を寄越したと思ったら、まだ13歳になったばかりの子供を押し付けおって……」
忌々しそうにそう呟いた後、再びじろりとこちらに視線を向ける。
「まあよいわ。遠路はるばるやって来た子供を有無を言わさず放り出すほどわしも鬼ではない。とりあえず1週間は屋敷においてやろう。じゃが、役立たずの穀潰しをいつまでも置いておくつもりも、ましてや弟子にするつもりなど毛頭ない。見込みなしと判断すれば1週間後に容赦なく叩き出すからそのつもりでいるんじゃな」
「あ、ありがとうございます!」
「ふんっ、では最初の問題じゃ。スピレイの水薬が持つ効能と、その調合法は?」
安心したのもつかの間、いきなり投げかけられた質問に慌てて背筋を正す。
しかも、質問内容もかなり難易度が高い。
スピレイの水薬は一般的にはかなり使用用途が限られているマイナーな薬で、実家にあった書物の中でも扱っている書物は1冊しかなかった。
だが、俺は過去に実際に扱ったこともあるので問題ない。
「はい、スピレイの水薬の効能は解熱です。副作用が一切ない反面効果も弱いため、小さな赤子が熱を出した場合に使われます」
「……ほう」
「材料はボルボナの根とレンブルの蜜、それにリムナスの葉です。量はボルボナ1に対してレンブルが2のリムナスが7。まずはボルボナとリムナスを細断した後すり潰し、そこにレンブルを加えます。それらを試験管に移した後、溶液が三層に分かれるまで遠心分離し、一番上の透明な層だけを取り出すとそれがスピレイの水薬の原液です。実際に投薬する際にはこれを水で10倍に希釈して用います。……これが、『薬学全集 第五章 幼児・小児』に書かれているスピレイの水薬の製法です」
「うむ」
「――ですが、この製法は不完全です」
「……うむ?」
「この製法では遠心分離の際、『溶液が三層になるまで分離せよ』とされています。これはボルボナとリムナスから薬効成分を抽出しつつ、不純物を取り除くための手順ですが、実際のところ、この段階で一番上の透明な層にはほとんど薬効成分が残っていません。……幼児向けにはこの程度でよいのでしょうけど……」
「……では、どうすべきだと?」
「はい。遠心分離はせずに、ジュシュブの古木から作った炭を投入し、薬効成分を吸着させるのです。その炭を水で洗えば、より薬効の強いスピレイの水薬が出来ます。お……僕はこの方法で精製したスピレイの水薬が、副作用はないまま、成人にも非常に高い効果を発揮することを確認しました」
「(……え? マジで?)」
「え? なんですか?」
「いや、……オホン。ンン、なるほど。よろしい」
「ありがとうございます」
「(その製法書いたのわしなんじゃけどなぁ)」
「? 何か仰いましたか?」
「なんでもないわ!」
こうして、俺は師匠に弟子入りした。
しかし、修行の道は決して楽ではなかった。
国家公認薬師に師事する目的は、やはり調剤の極意と実際の治療行為を実践で学ぶことにあるが、最初からそれを習う訳ではない。
俺が最初に指示されたことと言えば、書庫にある書物を全部読破することだった。
流石は国家公認薬師筆頭の書庫だけあって、今まで読んだことのない書物がたくさんあり、俺は心躍った。
そして書庫に籠って1カ月掛けて全部の書物を読破したのだが、それを師匠に伝えると「……もう一度最初から丁寧に読み直しなさい」と言われてしまった。
そうは言われてももう内容は全て暗記してしまったので、復習も兼ねて500冊以上あった書物の要点だけ抜き出して1カ月掛けて7冊の本にまとめ直したら、微妙に白目を剥きつつも調剤室への立ち入りを許可してもらえた。
それからは、学んだことを早速実践出来るのが嬉しくて、新しく学んだ薬を2カ月掛けて全て調合してしまった。
すると、今度は完全に白目を剥きながら、助手として師匠の治療現場に同行する許可をもらえた。
* * * * * * *
「小僧! ボロファナトを寄越せ!」
「はい! 師匠!」
「ん? 馬鹿者! 間違えるでないわ! ボロファナトじゃ!」
「え? 間違えてませんよ?」
「たわけ! ボロファナトは水薬じゃろうが! これは粉薬ではないか!」
「いえ、ですからボロファナトを粉末にしたんです」
「……なに?」
「液体の状態だと保存がきかないので粉末化しました。その薬包紙の上の分だけ服用させてください」
「え? いや、そんな簡単に……これ、表彰もんの発見なんじゃけど……」
「師匠! 患者さんが!」
「お、う、うむ」
* * * * * * *
「また新しい感染者か! このペースでは一向に調剤が間に合わんぞ!」
「ヴジハ様! 薬はまだですか!」
「ええい! そんなに早く作れるかい! さっき20人分用意したばかりじゃろうが!」
「師匠! とりあえず50人分用意しました!」
「「え?」」
「早く患者さんのところへ持って行ってください!」
「あ、はい」
「あっ、30分後にはもう50人分出来るので、そのタイミングで取りに来てください」
「ア、ハイ」
「レ、レオ? おぬしなんでそんなに早く調合出来るんじゃ?」
「自分なりに手順を最適化した結果です。師匠も手を貸していただけますか? 師匠の力が加われば今の倍はいけます」
「う、お、うむ」
* * * * * * *
そんなこんなで師匠の助手を務めるようになってから1年が経ち、俺はついに国家公認薬師の資格を得た。
なんでも国家公認薬師としては史上最年少記録だったらしいが、そんなことはどうでもいい。
“大陸一の薬師”を目指す俺にとっては、ここはまだまだ通過点に過ぎないのだから。
というか、こんなこと言ってはなんだが予想以上に試験の内容が簡単だった。
この程度ならあと半年くらいは早く資格を取れたと思ったくらいだ。
それはともかく、資格を得たところでふと疑問に思った。
“大陸一の薬師”それは具体的にどういった存在を指すのだろうかと。
国一番の薬師なら、国家公認薬師筆頭を指すだろう。だが、大陸一となるとどうだろうか。
いくら考えても答えは出ず、俺は結局師匠に相談することにした。
「師匠、大陸一の薬師とはどんな存在ですか?」
「なんじゃい藪から棒に……」
「幼馴染に大陸一の薬師になると約束してしまったんです。でも、大陸一の薬師の定義が分からなくて……」
「勢いでよく考えずに約束するからじゃろうに……大陸一の薬師……のう」
(そんなことわしだって知る訳ないじゃろ。そんなもんに定義なんてあるかい。……そうじゃな、適当なこと言って誤魔化せばええか)
「そうじゃなぁ、伝説の秘薬、“天の雫”を作れれば、それはもう大陸一の薬師を名乗ってもいいのではないかのー」
「なるほど、“天の雫”ですね! ありがとうございます師匠!」
「え、おい?」
何やら師匠が戸惑ったような声を出していた気もするが、気にせずに書庫に向かう。
しかし書庫では見付からず、王都の図書館で調べてみると、“天の雫”とは神話に登場する秘薬で、幻の万能薬であることが分かった。
服用すればどんな病気も毒も一瞬で消え去り、傷口に塗れば欠損した肉体すら再生することが出来るという。
神話なだけあって材料自体は分からなかったが、本の中の1枚の挿絵に、女神が真珠薔薇の花弁を薬壺に散らしている姿が描かれていた。
これが正しいなら、“天の雫”の調合には真珠薔薇が必要だということだろう。
「真珠薔薇、か……」
伝説上の代物であり、“天上の花”とも称される最上位の薬草。
そして……
『一回見てみたいなぁ~真珠薔薇。どれだけきれいな花なんだろう?』
かつておとぎ話の絵本を読んだテナが、そう言って憧れていた花。
「……」
正直、雲を掴むような話だ。
だが、道は定まった。
「……よしっ!」
そして、俺は普段の業務と並行しつつ、目的に向けて訓練と調査を開始した。
* * * * * * *
「師匠!」
「なんじゃ朝から騒々しい」
「しばらくお暇を頂きたいと思います!」
「暇……? 別に構わんが……なんじゃ、故郷にでも帰るのか?」
「いえ、真珠薔薇の探索に行こうかと」
「はあっ!?」
「“天の雫”を作るのに必要なんです。では、行ってまいります!」
「ちょっ、待て! お、おぬしなにを本気にしとるんじゃあぁぁぁーーー!!!」
* * * * * * *
「ふむ……そろそろ薬茶でも飲んで一服するかの」
バンッ!
「お久しぶりです師匠! ただいま戻りました!」
「ぶおっほぉ!!!」
「あっ、すみません! 大丈夫ですか?」
「ごっほごっほ…………こんのたわけが! 窓から帰ってくる馬鹿がどこにおる!!」
「すみません……一刻も早く、こいつをちゃんとした鉢に植え替えてやりたくて……」
「なに……? なんじゃその花は?」
「真珠薔薇です」
「ふぁっ!?」
「秘境で発見しました。効能も確認済みです」
「(えぇーーなにこやつ。マジで引くわーー)」
「師匠?」
「……なんでもないわ」
* * * * * * *
ガタンッ ゴトッ
「おい御者、もう少し急いでくれ!」
「落ち着きなされ伯爵殿。御者は既に出来る限りの速度で走らせておるわ」
「ですが、こうしている間にも娘が! 娘が!!」
「おぬしが慌てても仕方なかろう。それよりも下手に急かして事故になったりしたらそっちの方が大変じゃ」
「うぅ……」
「ですが師匠。たしかにこのままではお嬢様の容態が心配です。俺が先行して応急処置だけでもしましょうか?」
「先行? どうやって馬車よりも早く先行するんじゃ?」
「屋根の上を走ります」
「「はぁ?」」
「屋根の上を走ります」
「2回言わんでいいわ! 何を言っとるんじゃおぬし。薬品や器具を持ったままそんな芸当出来る訳が無かろうが」
「出来ますよ? 秘境から帰って来る時だって、真珠薔薇の鉢を片手に持ったまま野獣の襲撃を躱しつつ山を7つほど駆け抜けましたし。という訳で、お先に失礼します。……よっと」
バンッ ガッ タタンッ スタッ
「え、ちょ、うぉぉ!?」
「うおおおおおぉぉぉぉぉぉーーーーー…………」
「「えぇーーー……」」
~~~~~~~~~~~~
ドタドタドタッ バタンッ
「あっ、師匠、伯爵様」
「娘、娘は!?」
「お父様? そんなに慌ててどうなさいましたの?」
「お、おお! もう、もう大丈夫なのかい!?」
「はい、もうどこも苦しくありませんよ?」
「お、うおおぉぉぉ……」
「師匠、応急処置はしておきました。あとはお任せします」
「あ、うむ」
(いや、どう見てもめっちゃ元気なんじゃけど……普通に立って歩いとるし。わしがやることなんてもうないじゃろ。もういやじゃこの弟子……。こやつ差し置いて筆頭名乗っとる自分が恥ずかしくなるわ)
* * * * * * *
「今帰ったぞ」
「おかえりなさい、師匠。王女殿下の御様子はどうでしたか?」
「むぅ……一応面会は許してもらえたのだがの……正直なんとも……」
「そんな……師匠に治せないなら、一体誰が……」
「……のう、レオよ」
「なんですか?」
「王女殿下を……おぬしに任せることは出来るか?」
「はい!? 師匠に治せないなら俺に治せるわけが――」
「甘えるでないわ!!」
「――っ!?」
「師とはいつか越えるもの。わしに出来ないからと言っておぬしまで諦めてどうする!」
「そう、ですね…………分かりました。俺が王女殿下を治してみせます!」
「うむ、任せたぞ」
(まあ、とっくにわしなんて越えとるんじゃけどな……)
* * * * * * *
「マジで治してもーたよこやつ……」
「師匠、本日で王女殿下の治療は完了です。明日からは通常勤務に戻りたいと思います」
「そうか……いや、明日からはおぬしとミツラで店を続けてくれ」
「はい?」
「この店はおぬしにやる」
「はいぃ!? ちょっ、じゃあ師匠はどうするんですか!?」
「わしか? そうじゃのう……いっそのこと領地にでも引っ込もうかのう……」
「いやいや、師匠がいなくなったら王族の方々の治療は誰がやるんですか!」
「あっ、心配せんでも今日からおぬしが筆頭じゃから」
「はいぃぃ!!?」
「陛下にも既にそう伝えてあるわ。ではわしは先に屋敷に戻る。それじゃあの」
「いや、ちょっと待ってください! 師匠! 師匠!?」
* * * * * * *
そして、俺が師匠から筆頭の地位を引き継いで2カ月後。
約5年ぶりに女神様より神託が下った。
その内容は、今期の“魔”の発生が終息したことを告げるものだった。
“魔”の発生が終息したということは、これ以上“魔”が増えることはないということ。
現在発生が確認されている“魔”を浄化すれば、今代の勇者と運命の巫女はその役目を終えるということだ。
テナの帰還の日は、きっと近い。
急がなければ。
“天の雫”はまだ、完成していない。
でも、心のどこかで分かっていた。この勝負はきっと――――
* * * * * * *
そして、それから3カ月後。
王都に勇者一行の帰還の報が届いた。
5日後に勇者一行は王都へと帰還するらしい。
勇者一行は誰1人欠けることなく、5年に渡る旅を終えたのだ。
“天の雫”は……遂に完成しなかった。
でも、俺に悔しさはなかった。
胸中にあるのはテナが無事だったことへの安堵と、いっそ清々しさすら覚える気持ちの良い敗北感だった。
(勝負は俺の負け、か……。えぇ~~っと、王都民の前で跪いての公開プロポーズだっけ?)
いささか……いや、かなり恥ずかしいが、でもやらないわけにはいかない。
それがテナと交わした約束だったから。
―― もういい
そして5日後。
テナは帰ってきた。グッと女性らしく、美しく成長した姿で。
―― もう、分かってるから
勇者一行は王の御前に跪き、祝辞を受ける。
そして、王に願いを聞かれた勇者は、「この3人と結婚する許しを」と……
―― もう、やめてくれ
そしてテナは、再会した俺を冷たい目で見て。
「私、勇者様と結婚する――――
「うぼほぉ!!?」
突然腹部に凄まじい衝撃を受け、意識が急浮上する。
「ごほっ! ごっほごっほ、おぇっぷ」
「あっ、おはようございます師匠」
「ミツラ……お前何やってんだ?」
なんと、ベッドに寝ている俺の腹の上に、ミツラがボディプレスの体勢で乗っかっていたのだ。
「師匠がうなされていたので、起こして差し上げようかと」
「うなされ……?」
そう言われてみると、なにやら悪夢を見ていた気もする。
しかし、一瞬前まで見ていたはずの夢だが、今の衝撃で全部吹っ飛んだ気がする。
まあ、思い出せないなら無理に思い出す必要もないだろう。
それよりも、今は目の前の問題に対処すべきだ。
「……ミツラ、なんだその恰好は」
「寝巻ですよ?」
「……随分と涼しそうだな」
ミツラの身に着けている衣装は形状こそネグリジェだが、大事なところ以外は全部スッケスケだったのだ。
下手したら全裸よりも煽情的な衣装だが、残念ながらその衣装を着こなすには圧倒的に体の起伏が足りていなかった。
「それで? そっちの掛け布泥棒は?」
視線を横に逸らし、ベッドの端で俺が掛けていた掛け布に包まってプルプル震えている物体に目をやりながらそう問い掛けると、ミツラもそちらをチラリと見てから答えた。
「土壇場でチキッた、ただの腰抜けなのでお気になさらず」
「お前辛辣だな……年上に向かって」
いや、まあ微かに漂う香水の香りで、あれが誰なのかくらい想像ついてるけどな。
「それはそうと師匠。どうですか? アタシの魅力に野獣になってくれてもいいんですよ?」
「ならねぇよ」
こう言っては失礼だが、いかんせん体形と衣装が不釣り合い過ぎて、子供が背伸びしているようにしか見えない。
そんなものを見ても野獣になんて…………いや、よく見ると魅力的なような……?
たしかに女性らしい起伏には乏しいが、その健康的に引き締まった足などはなかなかにセクシーで、衣装の裾から覗く太腿などは特に…………いや、この思考はおかしい!!
「お、お前……何か焚いてるな!?」
「ふふふ、流石は師匠、気付きましたか。なに、マムシンを少々」
「んな馬鹿な! あんなもの焚かれて気付かないはずが……」
「ふふっ、苦労に苦労を重ねて、遂にほぼ完全な無臭化に成功したマムシンver.5……アタシの自信作です」
「ドッコに本気出してんだよ!!」
「さあさあ! 観念して獣になってください! そしてアタシの体を思う存分貪ってください!」
「するかぁ!! ふんっ!!」
「ぐっ!」
跳ね起きると同時に当て身をし、ミツラの意識を刈り取る。
そして素早く上着を羽織ると、部屋のドアに駆け寄って外へ飛び出し――――
ゴトンッ
……ゴトン?
下を見ると、なぜかドアノブが床に落っこちていた。
ナニコレどーゆう状況?
「おい、なんだこれは! オースチン!」
咄嗟にそう叫ぶと、すぐにドアの向こう側から返事が返ってきた。
『はいレオ様、おはようございます』
「ああ、おはよう……じゃない! なんだこれは!」
『申し訳ありません。どういうわけか、ドアノブがすっぽ抜けてしまいまして』
「わざとだろ! わざとだよなぁ!? そんなことがそうそうあってたまるか!」
『申し訳ありません。現在修理の担当者を呼んでおります故』
「お前ならすぐ直せるだろ! くっ、こんなところにいつまでもいられるか!」
「師匠ぉ~~据え膳食わぬは男の恥ですよぉ~~」
「っ!! ミツラ!? もう気付いたのか!?」
「ふふふ……山奥育ちの野生の令嬢の回復力を舐めてもらっちゃ困りますね……。ほらっ、ナオミさんもいつまで丸まってるんですか! 協力するって言ったでしょう!」
『私はミノムシ。ただのミノムシ』
「な~に寝惚けたこと言ってんですか! そぉい!」
「あぁ~~れぇ~~~」
ミツラに引っ張られて掛け布の中身が出て来るのを見て、慌てて視線を天井に逸らす。
いかん、今この状況であの衣装を着たナオミさんを見たら、流石に理性を保てる自信がない。
「師匠ぉ~~」
「う、うぅ……レオさん!」
見たらダメ、見たらダメ!
でも、見ないと2人の突撃に対処出来ない!
ヤバい、これ詰んだかも。
「さあ! 観念してください!」
「うぅ……勘弁してください……」
「う、うおおおぉぉぉーー!!」
そして、退路を断たれた俺は、雄叫びを上げながら唯一残された突破口へとダッシュするのだった。
……別に窓ガラスをぶち破る必要はどこにもなかったことに気付いたのは、朝の冷たい空気で頭がすっきりした後のことだった。
そしてその時には、悪夢にうなされていたことなどきれいさっぱり忘れてしまっていた。