ある執事の1日 ー午後ー
近日とはなんだったのか……あの、もうシンプルにごめんなさい。かなり遅くなりましたが、オースチン視点後編です。
テナ様にお帰り頂いてから数時間後、わたくしが執務室で書類仕事をしておりますと、不意にこめかみの辺りに電気が走ったように感じました。
長年の経験で分かります。これは……争いの気配ですね。
手元の書類から視線を上げ、気配の出現場所を探ります。
(屋敷……ではなさそうですね。となると、診療所ですか)
目を閉じ、意識を集中させると、聴覚を飛ばします。
執務室から、屋敷の中を通って外へ──
『そろそろ昼食の仕込みを始めるか』
『はい、何から始めましょうか──』
『おお! これが新刊ですか!?』
『ええ、タイトルは《鬼畜執事に攻められて…… ~堕ちる純情薬師~》よ!』
『ふおお! ありがとうございます! ありがとうございます──』
『あっ、そこはもう掃除しましたよ。隣の部屋をお願いします』
『え? でも隣の部屋はもう──』
そして、王都の大通りを抜けて、レオ様とミツラ様の診療所へと──
『安いよ安いよぉ』
『じゃあ、その服をもらおうかしら──』
『でね、あの子ったらまたおねしょしちゃったのよ……』
『あらまあ、でもまだ4つでしょう? それくらいの子なら仕方ないんじゃ──』
『だから!! 俺の妹がここで出された薬のせいで死に掛けてんだよ!!』
捉えました。
ふむ……これは、少々厄介な輩が来ているようですね。
「少し出ます。10分くらいで戻ると思いますが、その間お願いします」
「はい、畏まりました」
部屋にいた副執事長にそう言い置くと、わたくしは部屋の窓を開け、宙へと軽く身を躍らせました。
庭木の枝に着地すると、そのしなりと反動を利用して一気に跳躍。屋敷の塀を飛び越え、診療所に向かって最短距離を翔ま……駆けます。
そして、10秒程で診療所の正面入り口に辿り着くと、静かに扉を開けつつ全力で気配を消します。
ちょうど待合室にいる方々の注意が奥の診察室へと向いていましたので、無事気付かれることなくその間を通過。わたくしが診察室の前まで辿り着くと同時に、正面入り口の扉が閉まってバタンと音を立てます。そして、待合室にいる人間の注意がそちらに向いた一瞬のタイミングで、するりと診察室に滑り込みました。
すると真っ先に目に入ったのは、こちらに背を向ける3人の屈強な男達。そして、その向こうで男達の視線を一身に集めるミツラ様。男達は日頃から荒事に慣れ親しんでいることがまざまざと察せられる、退廃的な雰囲気を纏ってミツラ様を睨みつけております。
ヴジハ様の姿が見えませんが……ちょうどどこかに出掛けておられるようですね。というより、この男達がミツラ様1人になったタイミングを狙って押し掛けてきたという方が正しいでしょうか。
「だからぁ、どう責任を取ってくれんだって言ってんだよ!!」
真ん中のスキンヘッドの男がそう凄みます。しかし、普通の少女なら……いえ、大の男でもすくんでしまうようなその気迫を前に、ミツラ様は眉1つ動かさずに辛抱強く言葉を重ねられました。
「ですから、まずその妹さんに会わせてください。死に掛けているというなら、そちらが最優先でしょう?」
「ああん? てめぇ、誤魔化そうとしてんじゃねぇぞ!!」
「いえ、誤魔化すとかではなく、責任というならまずは──」
「誠意を示せって言ってんだよ! 誠意を!!」
……会話になっておりませんね。
もっとも、相手は端から会話などするつもりは無く、勢いと気迫だけで押し切ろうとしてるのでしょうが。
「どうしてくれんだよ! この偽薬作りの詐欺師が!!」
男の口からその言葉が放たれた瞬間、ミツラ様の額にビシッと青筋が立ちました。
「だからぁ──」
そして椅子から立ち上がりつつ、ゆっくりと眼鏡を外すと、結っていた髪を解き──
「まずは妹に会わせぇて言うとるじゃろがい!! もし本当にそんな妹がおんならなぁ!!」
ガンッと椅子に足を乗せながら、南方の方言丸出しで啖呵を切られました。……レオ様がいらっしゃらないので、ずいぶんと遠慮が無くなっておられるようで。この啖呵には男達も度肝を抜かれたようで、完全にのけ反ってしまいました。
しかし、すぐに我を取り戻したようで、再び凄みます。
「んだとてめぇ! 俺が嘘を吐いてるって言いてぇのか!?」
「じゃかぁ、そじゃねっつんならここん連れて来んかい!!」
「てんめぇ……俺を誰だが分かってそんな口きいてやがるのか?」
「あん? チンピラがこわぁて王都で商売できんかぁ! こちとら山でぐぬと闘ってきとんぞ! 野生の令嬢なめんちゃあ! ちぃしゃあがぶぶてごまんけすぞ!!」
おやおや、ミツラ様の訛りがますますキツく……ここまで来るとわたくしでもかなり聞き取りにくいですが、最後の言葉はたしか南方の方言で「お前の《ピー》を《ガー》で《ザザー》するぞ」という意味の暴言だった気がします。それと、“ぐぬ”というのはたしか“飢餓状態の熊”を指す言葉だったと思うのですが……ミツラ様は一体どのような幼少期を過ごされてきたのでしょうか?
男も意味は分からずとも酷い挑発を受けたことは理解したようで、怒気を漲らせながらその太い腕を振り上げます。
「ふっざけ──」
「失礼」
流石にミツラ様や診療所に危害が及ぶのは看過できませんので、この辺りで介入させて頂きましょう。
振り上げた男の手首を背後から掴むと、そのまま背中でねじ上げます。そして、驚いたように目を見開いていらっしゃるミツラ様にそっと頷き掛けますと、ミツラ様は肩の力を抜き、いつの間にかその手に握っていらっしゃった薬瓶を机の上に置かれました。
……なんの薬かは分かりませんが、使わずに済んでよかったです。
「イッテテテテ!?」
「少々興奮し過ぎではありませんかな? 他の患者の皆様のご迷惑です。妹君を救いたいのなら、もっと落ち着いてください」
「ああん!? なんだとこら! てめぇには関係ねぇッテテテテ!?」
「……ふむ、やはり会話になりませんか。そこのお二方、もし事情をご存知なら話して頂けませんか?」
それまで黙っていた残りの2人に目を向けますが、こちらも完全に興奮しているようで、男を拘束するわたくしをただ睨むばかりです。
「てめぇ、アニキを放しやがれ!!」
「うすら寒い笑みを浮かべてんじゃねぇ! 俺達は《赤錆の傭兵団》だぞ!!」
「……ほう、それは脅迫ですか? それであればこちらも国法に則って対処させて頂きますが?」
そこで笑みを引っ込めて目を開き、男達を順に見回しますと、男達は一様にビクッと体を跳ねさせました。
「ん、な……」
「んっだその目、気持ちわりぃ」
わたくしの目を見た2人は気圧されたように後退りますが、わたくしが拘束している男は角度的に見えなかったのもあり、構わずにだみ声を上げます。
「てめぇ、状況分かってんのか! 俺達はあの《赤錆の傭兵団》だっつってんだぞ!」
「あなたこそ状況が分かっているのですか? 組織の名前を出したということは、今回の一件、あなた個人ではなく組織として責任を取って頂くことになりますよ? あなたの傭兵団の長はこのことを承知しているのでしょうね?」
「ん、な、だっと……」
長のことを引き合いに出してようやく状況が理解できたのか、男が暴れるのをやめました。口をパクパクと開け閉めしていますが、言葉が出て来ません。ふむ……そうですね、後は彼女にお任せしますか。
「後はお任せしてもよろしいですか? コーゼット様」
そう背後に声を掛けると、どこかバツが悪そうな表情のコーゼット様がおずおずと入って来られました。
「あ、あれ? コーゼットさん? いつからそこに?」
「申し訳ない、ミツラ殿。彼らが決定的な狼藉に及ぶまで待機していようと……もちろん、直前で止めるつもりではいたのですが、オースチン殿に先を越されてしまい……」
「え、え? じゃ、じゃあさっきのあれ、聞いて……」
「はい、実に素晴らしい啖呵でした。思わず私も扉の陰でビクッとしてしまいました」
「う……うぅぎゃああぁぁぁーーー!! 忘れて!! 今すぐ忘れてぇ!!」
ミツラ様はどうやら方言を気にしておられるようで、頭を抱えて蹲ってしまわれました。コーゼット様は何を気にしているのか分かっておられないご様子でしたが。
「さて、と。そこ3人、貴様らを騎士の権限で拘束する。大人しく同行するならそれでよし。抵抗すれば骨の2、3本は折れることになるが、どうする?」
コーゼット様が腰の剣に手を掛けつつそう脅しを掛けますと、男達も状況の悪さに気付いたのか、一斉に顔色が悪くなります。視線が一瞬にして2つの扉と壁際の窓に向きましたが、わたくしがミツラ様を巻き込まないよう軽く殺気を放ちますと、すぐに逃走は困難だと察したようで大人しくなりました。
その場で全員の両手を拘束し、コーゼット様に引き渡します。
彼らが憲兵の詰め所に連れて行かれるのを見送っておりますと、隣のミツラ様が落ち着かないご様子でこちらを見上げられました。
「あ、あの……もしかして、オースチンさんも?」
「申し訳ありません。ですがご安心ください。レオ様にはお伝えしませんので」
「ううぅ……そうしてもらえると助かります……」
どうやらミツラ様はご自分の訛りをかなり気にしておられるようで。普段から意識して方言が出ないようにされています。
「……そこまで気になさらずとも、レオ様は方言くらいでミツラ様を見る目を変えるということはないと思いますよ? それに、世の中には方言というものに魅力を感じる男性が一定数おります」
フォローのつもりでそう申し上げたのですが、ミツラ様はむっと唇を尖らせてしまわれました。
「たしかに、西方の方言とかならそうかもしれませんけど……」
「……ふむ」
南方は元々狩りを生業とする民族が住んでいた地であるので、そこに住む人々は屈強な肉体と豪快な気質を持つ人間が多いです。そのせいか、南方の方言は一般人からすると荒っぽく聞こえるというのもたしかです。が……
「ミツラ様、世の中にはギャップ萌えというものがございます」
「ギャップ萌え? それは……」
「はい、女性がふとした時に見せる普段と異なる姿に、男性は少なからず魅力を感じるものなのです。普段礼儀正しい弟子であるミツラ様が見せる、豪快で凛々しい姿というのも、立派なギャップ萌えになるのではないでしょうか?」
「な、なるほど……」
「診療所の前で何をバカ話をしとる」
その声に顔を上げますと、大通りの向こうからヴジハ様がこちらに向かって来られるところでした。
「あ……すみません。ヴジハ様」
「これは失礼致しました。わたくしがミツラ様を付き合わせてしまっただけですので、責はわたくしに」
そう言ってヴジハ様に頭を下げますと、ヴジハ様はいつものように鼻を鳴らされました。
「それで? 何かあったのか? いや、いい。先に診察じゃ」
「あ、はい。ではオースチンさん、ありがとうございました」
「いえ、これも執事の仕事ですので」
「……うん? うん……」
「それでは、失礼します」
一礼し、その場を去ります。
そのまま執務室へ……っと、少し寄るところがありましたね。
「いやぁ、新刊も堪りませんなぁ」
「流石は職人クロサ先生」
「ふふふ、次回作も期待していてね」
「あっ、なら次回こそオス×レオの純愛モノを……」
「いえいえ、男体化ミツラ様も加えた鬼畜執事の調教モノを是非……」
「は? なにそれ聞き捨てならないんだけど?」
「そっちこそ。主従純愛モノとか解釈違いなんですけど?」
「面白い話をしておりますな。わたくしも交ぜて頂いても?」
「「「「「げえ!? オースチン!!?」」」」
「う、うぅ……ヒドイです、オースチン様」
「まったく……何をやっているのですか、貴女は。わたくしはともかくとして、主人であるレオ様を貶めるようなものを書くとは」
「う……ですが、最近は人相書きの仕事もありませんで、筆を持て余しているというか……」
「では、そちらの仕事をしてもらいましょうか?」
「はい?」
「“護惨誅”に命じます。先程憲兵の詰所に連行された《赤錆の傭兵団》を名乗る3人組の素性と背後関係を探ってください。もしその3人組が本当に《赤錆の傭兵団》だった場合は、そちらも同様に」
「! はっ!!」
部屋から出て行く彼女を見送ってから、わたくしは執務室に戻る前に、念のために診療所の方へと聴覚を飛ばしました。
『む……なんでこんなところに希硫酸が置いてあるんじゃ?』
『あ、すみません。すぐに片付けます』
……聞かなかったことにしましょう。
* * * * * * *
その夜、わたくしはヴジハ様のお呼び出しを受けて客室を訪ねておりました。
「それで、どういったご用件でしょうか?」
「ふんっ、言わずとも察しておるじゃろう? 昼間にウチの診療所で騒いだ連中のことよ」
「……ふむ」
たしかに、予想はしておりました。なので、予め用意しておいた書類を懐から取り出し、ヴジハ様にお渡しします。
「これは?」
「あの3人組に診療所の悪評を流すよう依頼をしたと思われる人物の人相書きです。かなりの人間を間に介していたので遡るのが少々手間だったようですが、最終的に辿り着いたのがこの男です」
「ふん……やはりな」
「見覚えがございますか?」
「レズリー薬師学会の木っ端薬師よ。予想通りじゃかな」
忌々しそうにそう言われるヴジハ様に、わたくしも内心で同意致します。
レズリー薬師学会とは、十数名の国家公認薬師で形成される、薬師間の相互協力と技術共有を目的とした団体です。表向きは。
その目的と名前だけを聞けば、いかにも意識の高い薬師が集まった、国にも認められた権威のある団体のように思えますが……その実態は、金儲けしか頭にない二流薬師の集まりです。そのことを知っている人間は多くありませんが。
具体的にどんなことをやっているかというと、大々的な講習会を開いて、国家公認薬師を目指す若者達から多額の受講料を受け取ったり、国家公認試験を受けるための推薦状に名前だけ貸して、これまた金銭を受け取ったり。また、自分達が開発した、新薬と言えば聞こえがいいが、実際は既存の薬の調合比率を多少変えただけのような薬を、「レズリー薬師学会認可」という自演でしかない謳い文句と共に高額で売り捌いたり。
言い出せばキリがありませんが、法にこそ触れていないもののほとんど詐欺に近いことを平然と行なっている連中です。
元々国家公認薬師とは、各地で薬師を名乗って偽薬を高額で売りつける者達が大勢いた頃、そういった詐欺師と本物の薬師を区別するために作られた国家資格です。にも拘らず、その資格を利用して詐欺紛いのことをする者がいるとは……本当に嘆かわしいことです。
「また嫌がらせか。本当によく飽きないもんじゃな」
「同感です」
そして、そんな薬師の皮を被った守銭奴連中にとっては、真に人々のことを思い、薄利で良質な薬を売るレオ様やヴジハ様が目障りなようです。一度お2人の処方する薬を使えば、彼らが売る高いだけの薬など買う気にもならないでしょうし、これは当然でしょう。
人々の為に薬を作るという薬師の本分に従っているだけなのに、一方的に目の敵にされる側としてはたまったものではありませんが。
それでも、名門貴族の出であるヴジハ様が筆頭であった時は、彼らも表立った敵対行動は取っていなかったのですが……平民であるレオ様が筆頭の地位と診療所を継いでからは、露骨な妨害工作をするようになってきました。
今回のように人を雇って悪質なクレーム行為を行わせたり、根も葉もない悪評を流したり。その度にわたくし共で対処してきましたが、未だに薬師学会そのものの責任を追及できるようなネタまでは掴めていないのが現状です。
「まったく、忌々しい……あの薬師の本分も忘れた金の亡者共が……」
「心中お察しします。ですが、この件に関しては第6王女殿下も動いてくださっているので、遠からず解決できるかと」
「王女殿下か……」
そのように申し上げますと、ヴジハ様は眉間の皺を少し緩めながらどこかうんざりした表情を浮かべられました。
「それにしても……よりによって王女に惚れられるとは、やはり父親の血なのかのぅ……」
「ヒラノーラ様……いえ、今はノーラ様でしたか。あの方が当時の王太子殿下との婚約を解消してレオ様の父君と結婚された際には、わたくしも驚きました」
レオ様の母君であるノーラ様は、かつての名をヒラノーラ・バブリーといい、王国でも名門中の名門貴族とされているバブリー公爵家の長女でした。
当時の王太子殿下、現在の国王陛下と幼少期より婚約を結んでおられましたが、その美貌と流行を先駆ける斬新なファッションセンスとダンスセンスから社交界の華と呼ばれ、多くの貴族の憧れの的でもあった方です。
しかし、ある時対立貴族に毒を盛られ、公爵家に仕える薬師の誰もがお手上げ状態の中、たまたま近くを通りかかったレオ様の父君であるゼオ様に救われ、そこで恋に落ちたということです。
「わしにとっては驚いたでは済まんかったわい。わしの後を継ぐのはあやつじゃと見込んでおったのに……国家公認試験を受ける直前にあんなことをしおって、あの馬鹿弟子が……」
当時のことを思い出しておられるのか、ヴジハ様は苦々しい表情でそう吐き捨てられました。
ゼオ様は当時、ヴジハ様のお弟子さんの中でも抜きん出た才覚を持ち、また薬師でありながら医術にまで秀でた才能を持っておられ、国家公認試験を受ける前から、未来の国家公認薬師筆頭となることは確実だと言われるほどでした。
しかし、いよいよ国家公認試験を受けるという時になって身分違いの恋をしてしまい、その道が閉ざされてしまったのです。
なにせ相手は王太子の婚約者にして、多くの貴族子息の憧れである社交界の華。
それを射止めた平民の見習い薬師に対する貴族の反発は凄まじく、また患者に手を出したという事実が薬師としての信用を大きく損なってしまったこともあり、ゼオ様は王都に居られなくなってしまったのです。
その師であるヴジハ様にとっては、育てた恩を仇で返されたも同然なので、苦々しく思うのも無理ないことですが……
「ふふっ」
「なんじゃい」
「いえ」
ゼオ様がノーラ様と結ばれる際、ヴジハ様がお2人の味方をしたことを知っている身からすると、その嫌悪感にはどこかわざとらしいものを感じてしまいます。
「ですが、そのお陰でレオ様がお生まれになり、このように貴方様の後を継いでくださったではないですか。ですから、あの時の行動は間違いではありませんでしたよ。ゼオ様も、ノーラ様も、そして貴方様も」
「……なんの話か分からんな」
「左様でございますか」
「……ふんっ」
いつものように笑みを浮かべてヴジハ様を見詰めておりますと、ヴジハ様は苛立ち混じりに鼻息を鳴らし、話を変えられました。
「わしとしてはむしろ、陛下の英断に驚いたがの。よりによって令嬢の側から婚約解消を申し込まれ、しかもその婚約者を奪ったのが平民だなどと、王家にとっては屈辱でしかなかろうに」
「そう、ですね……」
わたくしも当時は驚きました。
ヒラノーラ様が当時の殿下に婚約解消を申し込んだ際、わたくしはそれを隣の隠し部屋で聞いていたのですが、殿下はヒラノーラ様からそこに至った経緯を丁寧にお聞きになると、なんと殿下自ら円満な婚約解消を提案されたのです。
バブリー公爵家からの慰謝料なども固辞され、公爵家にもヒラノーラ様にも、もちろんゼオ様にも一切責任を追及されることなく、表向きは性格と価値観の不一致という名目で婚約は解消されました。そのおかげで、他の貴族は表立ってゼオ様とヒラノーラ様を非難することが出来なくなったのです。
ヒラノーラ様もこれには大層驚かれ、殿下になぜ自分を責めないのかと問われておりました。すると、殿下はなんと、「身分違いの恋に苦しむ気持ちは、自分もよく分かる。だからそなたを責めることは出来ない」と言われたのです。
それだけではありません。
あまりにも意外なお言葉に動転されたのでしょう。思わずと言った口調で「どなたか平民に恋をされたことが?」と訊かれましたヒラノーラ様に対し、殿下が「娼婦だ」と答えてられたのです。あの時の衝撃ときたら、身を潜めていることも忘れて思わず声を上げそうになってしまいました。
「……その言い方。貴様は何か知っておるのではないか?」
「いいえ、生憎何も」
探るような視線と共に向けられたヴジハ様の追求を、わたくしは笑顔で躱します。
あの時の殿下の言葉が果たして真実であったのか、それともヒラノーラ様が気に病まぬよう、咄嗟に吐いた冗談だったのか。それはわたくしにも分かりませんし、あえて調べようとも思いません。そして、あの時の会話を第三者に他言するつもりも。
ただ、事実としてヒラノーラ様と殿下の婚約は穏便に解消され、社交界の華と未来を嘱望された天才薬師はひっそりと、されど驚くほど平穏無事に表舞台から姿を消したのです。
それから20年近く、お2人の噂を耳にすることはございませんでした。そう、今から4年前に、レオ様がヴジハ様の元を訪ねられるまでは。
「ふんっ……まあなんにせよ、今回レオがバブリー公爵家に呼ばれたということは、王家にあの一件に関する遺恨は残っていないということじゃろうな」
「そうですね……一応、ノーラ様もバブリー公爵家を廃嫡された訳ではございませんので、そのご子息であるレオ様がバブリー公爵家の認知を得ることには何も問題はございませんが……それを陛下が黙認しておられるということは、そういうことなのでしょう」
公爵家と陛下に掛け合ったのは、恐らくブルゾア様でしょうね。
元々バブリー公爵家は恋愛に関してはかなり寛容な家系であり、レオ様はもとよりノーラ様にも何も含むところはなかったようですが、陛下に遠慮をして今までレオ様との接触は控えていたようです。それが、今回正式に陛下の許しを得て、レオ様とお会いすることになったといったところでしょうか。
なんにせよ、これでレオ様は、王女殿下の降嫁先として申し分ない身分を得ることになるわけです。
「やれやれ、順調に外堀を埋められておるようじゃの……それにしても、王女殿下はあんな方じゃったかの? わしが知る殿下は、もっと王族らしい王族じゃった気がするのじゃが……」
「……レオ様と出会って、あの方も変わられたのですよ」
もっとも、今のブルゾア様はどこまで本気でやられているのか、わたくしでも少々測りかねるところがありますが。
「それにしてものぉ……この前、婚姻届けを持って診療所に押し掛けて来た時は目を疑ったぞ」
「ふむ……それは、本当に婚姻届けでしたか?」
「なに?」
「レオ様が、そのように言っておられただけではないですか?」
「む……たしかに、実際に書面まで確認した訳ではないが……殿下はレオにサインを求めておったし、一番下に殿下のサインがしてあったことは確かじゃぞ?」
「しかし、それは一般的な契約書であれば大体そのような形式になっているでしょう。ブルゾア様も、それが婚姻届けであるとは明言されていなかったのではないですか?」
「そう言われれば……いや、その言い方。貴様やはり何か知っておるじゃろう」
「いえ、ただの推測です。あの方をよく存じ上げているわたくしからすると、ブルゾア様が本気でレオ様の意思を無視して婚姻を結ぼうとされるようには思えないのですよ」
そうですね……今自分で言っていて気付きましたが、もしかしたら今回のバブリー公爵家からの依頼も、本当はブルゾア様の意向ではないのかもしれません。むしろ……
「むっ」
「どうした?」
不意に走った直感に、わたくしはすぐさま聴覚を飛ばします。
『おい、まだ開かないのか?』
『うっせぇなぁ、黙って見張ってろよ』
『まあそう急かすな。ちょっと入って薬をいくつかすり替えるだけだ。焦る必要なんてねぇ』
そして、診療所付近で交わされる不穏な会話を捉えるや、素早く立ち上がってヴジハ様に一礼しました。
「お話の最中で申し訳ありませんが、少し失礼します」
「何かあったのか?」
「いえ、そう言えば地下室にちょうど頃合いのワインがあったことを思い出しまして。せっかくなのでお持ちしようかと」
「そうか、それは一大事じゃな。多少遅くなっても構わんぞ」
「恐れ入ります」
一礼して部屋を出ますと、手近な使用人に少し出ることを伝え、廊下の窓から外へと飛び出します。
そのまま最速で診療所に向かいますと、ちょうど6人の男が裏口から診療所の中へと侵入しようとしているところでした。
「失礼、本日の診察は終了しましたよ?」
そう声を掛けつつ歩み寄れば、見張りに立っていた男2人が一瞬の硬直の後、素早くこちらに向かってきました。
(ふむ……この迷いのなさ。そして息するように自然な連携。この者達は、素人ではありませんね)
滑るようにして近付いて来る2人の男とその手に握られたナイフを眺めながら、わたくしは高速で思考します。
(さて、どうしましょうか……全員仕留めるのは容易いですが、こんなところで人殺しをして、レオ様の聖域を汚すわけにも参りません)
男達のナイフは、左右からそれぞれ首元と腹部を狙っております。
互いが互いを邪魔しない絶妙な位置取り。先頭の男の襲撃をなんとか凌いだとしても、僅かな時間差で襲い掛かってくる2人目のナイフで致命傷を負わされるでしょう。
(それに、この後ヴジハ様にワインをお持ちしなければならないのに、血の臭いをさせていてはせっかくのワインの香りを損なってしまいます。そうですね、やはりここは……)
先頭の男が突き出してきたナイフを持つ手にそっと右手を添え、素早く手首を外すと同時にナイフを奪取。奪い取ったナイフで2人目の男のナイフを弾き飛ばすと、勢いのままナイフを放り捨てつつ、返す腕で裏拳を。薙ぎ払うようにして2人の顎を連続で打ち抜き、脳を揺らして無力化させます。この間約1秒。
(血を流さず、手早く無力化するとしましょう)
崩れ落ちる2人の間をすたすたと通り抜けつつ、わたくしは方針を固めました。
すると、残る4人の男達が警戒心も露に裏口から離れると、素早く間隔を開けて並び、戦闘態勢に入ります。
「ジジイ……てめぇ、なにもんだ?」
左から2番目の男が、唸るようにしてそう言います。
(ふむ、彼がリーダーなのでしょうか? 人相に見覚えはありませんが……とはいえ、問われれば名乗るのが礼儀というものでしょう)
胸に右手を当て、その場で一礼。
その途端、前方から4本のナイフが飛んできましたので、即座に右手を上げて指の間で受け止めます。
「わたくし、国家公認薬師筆頭であられるレオ様にお仕えする執事、オースチンと申します」
頭を上げつつ、右手の指で挟み止めたナイフを捨てると、ついでに襲い掛かって来た男の鳩尾に一撃を入れて黙らせます。
「招かれざるお客様の対応も執事の務め。あなた方はわたくしがお相手させて頂きます」
そう告げてスッと目を開きますと、先程声を上げた男が大きく目を見開きました。
「その赤い目……てめぇ、まさか《暗躍仕事人》第一席、“鮮血の瞳”か!?」
「ほう、わたくしをご存知でしたか。しかし、少し訂正をさせて頂きますと、“元”第一席ですよ」
わたくしの瞳は、生まれつき真っ赤な色をしております。
わたくしは“白奇児”と呼ばれる、病的なまでに白い肌と白金色の髪、そして真っ赤な瞳を持った人間だったのです。
“白奇児”はその希少性と、見ようによっては神秘的にも見える外見ゆえ、人身売買目的で多くの犯罪者に狙われます。わたくしもその例に漏れず、幼少期に人攫いに遭い、見世物小屋で売り物にされておりました。
その犯罪者共を殲滅し、わたくしを解放してくださったのが、王家に仕える影の部隊、《暗躍仕事人》でした。
その後、長時間陽の光を浴びることが出来ず、普通の仕事が出来ないわたくしは、彼らへの恩返しも兼ねて《暗躍仕事人》に加わりました。
“鮮血の瞳”とは、その際にわたくしに与えられたコードネームです。
「なるほどな。かの伝説の暗殺者様に会えるとは光栄だぜ」
そう言いつつも、男の口元には獰猛な笑みが浮かんでいます。
そして、勝利を確信したかのような表情で大声を上げました。
「お前ら! そいつの左側を狙え! そいつは左腕を動かせない!!」
正面から2人の男が突っ込んでくると同時に、頭上から新たな影が飛び降りて来ます。
(おやおや。この男、そのことを知っていたのですか)
たしかに、わたくしは左腕に重度の障害を負っていました。
病気ではありません。見世物小屋で売られていた時に、“白奇児”の血肉が不老長寿の薬になると信じる者達によって、左腕の肉を削がれたのです。その時に神経を傷付けられたらしく、肘から先をまともに動かせなくなってしまいました。ですが……
「愚か者」
正面から襲い掛かって来た男2人を右手であしらいつつ、頭上から襲い掛かって来た男の腕を左手で掴み、そのまま背中から地面に叩き付けます。
「このわたくしの主を、一体どなたと心得るか」
倒れた男の鳩尾を踵で踏みつけつつ、右の拳打で右側の男の喉を潰し、左の張り手で左側の男の鼓膜を破ります。
声を上げることも出来ずに失神した男達を跨ぐと、最後に残った男へと迫ります。
「稀代の天才薬師であらせられる、レオ様であるぞ」
余裕の笑みを一瞬にして奪われた男は、こちらに煙玉を投げつつ、一目散に逃走を開始しました。しかし、遅いです。
「偉大なる我が主が、従者が抱える障害を放置しておくと思うか」
一気に加速し、煙玉が地面にぶつかって破裂する前に空中ですくい上げると、逃げる男の首の後ろに手刀を打ち込みます。
途端、男の体がビクンッと跳ね、足元がおぼつかなくなり、数歩歩いたところで前のめりに倒れました。
「ふむ」
全員の沈黙を確認すると、煙玉をポケットにしまってから手袋を外し、新しいものと取り替えます。
そして、曲がり角の向こうへと声を掛けました。
「後は任せますよ、“不殺”」
すると、角の向こうからゆっくりと、後輩である《暗躍仕事人》第七席が姿を現しました。
そして地面に転がる男達を眺めつつ、苦笑気味に声を上げました。
「相変わらず……いえ、以前にも増して見事な手際ですね。引退する必要などなかったのでは?」
「いえいえ、そんなことはありませんよ。わたくしももう歳ですからね」
「ご冗談を。左腕を動かせるようになり、日中も動けるようになっている時点で、以前よりもずっと手札が増えているではないですか」
レオ様が治してくださったのは、わたくしの左腕だけではありません。
“白奇児”が神秘的な力などないただの先天性の病気であることを医学的に証明し、治療薬を作り出したのは、他ならぬレオ様です。今では、“白奇児”は生まれるとすぐに王都に呼び寄せられ、早期に治療が行われるようになりました。
そしてわたくしも、レオ様のおかげで肌の色が病的な白さからすごい色白で通用する色になり、日中に陽の光に当たっても平気になりました。
「だとしても、今はもうあなた達の時代です。というわけで、この者達の尋問は任せますよ? わたくしはヴジハ様にワインをお持ちしなければ」
「お任せください。確実に黒幕を吐かせてみせます。それにしても……まだ瞳の色は赤色のままなのですね。治療はしないのですか?」
「……」
たしかに、治療を続ければこの瞳の色も普通の色になり、日中に眩しい思いをしなくて済むのかもしれません。
そう、わたくしが普段ニコニコと笑っているのは、執事として笑みを絶やさないようにしているのもありますが、単純に目を細めていないと眩しくて何も見えないからなのです。
最後まで治療を続ければ、もうそのことで悩む必要もなくなるでしょう。ですが……
背後の男達に目を遣り、ふっと笑みを零します。
「……この赤い目は、まだならず者達の間で抑止力となるようですからね。この目だけは、そのままにしておこうと思います」
「レオ様のために、ですか」
「ええ、その通りです」
そして、後輩に向かって堂々と宣言しました。
「わたくしの目が赤い内は、レオ様に一切手出しはさせませんよ」
わたくしはオースチン。元は王家に仕える暗殺者であり、今はレオ様にお仕えする専属執事です。