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N.river よみきり短編集  作者: N.river
8/10

 開かなくなってから長い。

 あいだにもぶくぶくと肥え太った箱はもう、部屋に収まらなくなりつつあった。

 仕方がないので食事は箱の上で食べている。おかげで美味いもマズいもありはしない。一応、衛生面に考慮してテーブルクロスをかけてはいるが、その下で今でも微かにうごめく箱は成長を続けており、どうにもこうにも落ち着かないなら味など二の次となっていた。

 かつては気前よく開いてこちらに応じてくれていた箱が、いったいいつからこんな具合になってしまったのか。コツコツとノックしては開いた中へ腕を突っ込み、外国の包みが艶やかなキャンディをひとつ、最新のラジコンカーをひとつ、読み解くために半年を要した難解極まる専門書をひとつ、いくら眺めていても飽きない絵画をひとつ、取り出していたというのにある日、ノックしたところで箱はうんともすんとも言わなくなってしまっていた。その頃の箱はまだヒザに乗るくらいの大きさで、慌ててバスケットへ放り込むと医者まで車を飛ばしたことを覚えている。もちろんペット専門の病院で、渋る獣医を金でうなずかせたが箱をみせたところで何の解決にも至らず終わった。


 箱が開かなくなってから長い。

 それは中から何らか取り出すときのあの踊る気持ちを失ったことにつながり、なによりそうもエキサイティングだった箱との関係を失ったことを意味する。

 いつかまた開くのではなかろうか。待って傍らに置き続けたが、これほどの大きさにまでなってしまったのだ。もうそろそろ限界が近づいていた。

 まったくもって一方的な想像に過ぎないが、ここまで大きく肥えたのは開かなくなったせいだと思っている。中から定期的に取り出していた時はサイズなど変わることがなかったのだから、間違いないだろう。

 そんな箱の中の様子が気になるのであれば付け加えて説明すると漆黒である。窓際へ持ち出しこの目で底を見てやろうとのぞいたこともあったが、中を日の光が照らすことはなく、見えるものがあるとすれば漆黒の空間にときおり深海の魚が命の在りかを示すようなあのほのかで神秘的な光が浮かび上がってくるだけだった。それは箱の中で幾つも気まぐれに白く灯ると、波打ち、ただ静かに消えている。


 箱の上へ朝食のスコーンが乗った皿を置く。

 昨日までと違いどうにも座りが悪いのは、また箱が肥えたせいだろう。

 そろそろ待つのはやめた方がいいのでは、と予感が囁く。

 爆発するかも。

 それとも突如と暴れて家ごとこちらの人生を破壊してしまうかもしれないぞ。

 予感は手を変え品を変え、忙しくほのめかし、とにかくそろそろおしまいにしておかないと取り返しのつかないことになる、突き付けた。

 そんな囁きへ耳を傾けながらスコーンもまた味わう。

 そうかもしれない。

 意見の一致はスコーン、最後のひとかけを口へ放り込んだ時だ。

 指先に残る粉を皿へ払い落とし、あらため箱がここへやってきた時のことを振り返る。なんてことはない。幼かった頃の頭の中にはむしろ開きっぱなしで箱はあり、空を見ては、知らない場所へ出掛けては、それを箱と意識することないまま次々、中から好き放題と様々なものを取り出していた。やがてそれがのぞきこんでも何ら底のない果てなき箱だと知れたのは、取り出したものを記録し始めた頃と重なり、忙しないそれら作業が箱を扱い辛くしていったなら、ついに箱の中から取り出されたものといえば……。

 と、その時だ。

 あなたが食べたのはスコーンだったのでしょうか。

 尋ねる声は皿から聞こえてくる。

 はっ、と我に返り目をやったのは言うまでもなく皿の上で、食べたはずのスコーンはそこに二つ乗っかっていた。

 給仕などいやしない。

 それ以前に、スコーンが話しかけたりしない。

 だのに確かめられて真意に気づく。

 違う。

 口走っていた。

 違う。

 そう、違うのだ。

 夢の中でこれは夢だ、と叫ぶにそれは等しく、眠っていたわけでもないのだから目覚める道理もないというのに、そのとき視界は開けて世界は色を変える。閃いた、というならまさにその通りで、証拠にここぞとばかり箱もミシミシ、動き始めていた。部屋の屋根だ。ゆるゆる持ち上がってゆくと、久々の外の風を部屋の中へ招き入れる。

 光景を驚くままにただ仰ぎ見た。

 片側を丁番で固定した頭上で開き切り、満天の星空を広げる。だから風にはしっとりとした夜の湿気が混じっており、触れた指先も、胸も、どきりと跳ね上がった。

 取り出したりなんか、していなかった。

 どきどきが、止まない。

 今も昔も徹頭徹尾、箱は頭の中にしかなく、むしろかつてのように取り出したいならそろそろ待つのはやめた方がいいのでは、とついさっきの囁きも蘇ってくる。

 今すぐここから抜け出せ。

 もう警告ではなく鼓舞して誘う、吹き込む湿りはウインクだ。

 応えてそのとおり、とこちらだって決意してやる。

 瞬間、スコーンが皿の上でぱぁん、と弾けた。

 焦げた砂糖とバターの香りは飛び散って、だから指揮者さながらひとさし指をただ立てる。合わせてピタリ、動きを止めたのは四方へ弾け飛んでいたはずのスコーンで、それきり見る間に宙で冷え固まると、両翼を大きく広げたクリーム色の鳩へ姿を変えていった。ままに翼を打ち下ろせば風は起こり、抱いた翼はぐんぐん大きくなってゆく。数度も繰り返せばすっかり部屋は狭くなり、抜け出し空へと舞い上がっていった。

 その足を逃す術はない。

 決断は勇気そのもの。

 掴んでもろとも舞い上がった。

 開いた屋根が、広がる空が、ぐんぐん近づいてくる。見下ろせば部屋の真ん中で、肥えた箱と、箱だと思っていた意気地なしの私は私と目を合わせる。そんな私が私へ小さく手を振っていた。

 見送る姿が名残り惜しい。

 振り切り、羽毛を掴んで鳩の背まで這い上がる。

 箱から抜け出したここも箱だろうと、鳩が切る風の果てをただ見つめた。

 なら次の勇気は?

 鳩からスコーンの匂いがしている。


 何度だろうと、それは目を覚ませばいいだけのことさ。

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