まだ、言えてない。
ええっと、と詰まって彼は、所在なさげに頭を掻いた。
わたしは言葉の続きを読み取ろうと、彼の顔へ目を凝らす。けれどさっぱり見当はつかなかった。
「ええっと。実は」
散歩がてら歩くここは、近所で一番大きい公園だ。外から見れば森のようで、茂る木々は今、季節の変わり目を告げると黄色く色づき、はらはら散って足元をすっかり秋の色へ変えている。
踏みしめ歩く彼はまだ「実は」の続きを口にしてない。
そんな彼と出会ったのは、ちょうど一年前だ。わたしがまだ専門学校へ通っていて、駅前のファーストフード店でアルバイトをしていた時だった。朝、決って同じ時間に訪れる彼は、必ず同じメニューを注文していて、そのワンパターンが「彼」を覚えた理由になる。
にもかかわらずいつも少し吟味してから注文する彼は、店に通い詰めていることを悟られたくなかったのだと思う。そしてアルバイトの店員が、日に何十人と接するお客の顔や注文を覚えているはずがないと、タカをくくっていたようだった。でなければ毎回、ああもわざとらしい芝居を打ったりするなんて、私なら恥ずかしくてできやしない。けれど案外、店員はお客の顔や注文を覚えていて、だからあの日、わたしは先回りすると、迷う彼の注文をみごと言い当ててやったのだった。
その時の、彼のバツの悪そうな顔は今でも忘れられない。けれど、それがよかったのだと思う。それから彼は無駄な芝居を打たなくなったし、そしてわたしたちはその分、阿吽の呼吸で仲良くなった。
そうそう、あまりに毎回、同じメニューを注文するものだから、一度、軽い気持ちで新商品を勧めたことがある。あの時、妙に機嫌を悪くした彼は意外すぎて、そんなに酷いことをしたかしらと首をひねったこともあった。
やがて彼とわたしが店の外で会うようになったのは、わたしがついに卒業を迎え、アルバイトを辞めることになった半年前からだ。でも言い出したのがどっちだったのかよく覚えていない。ただその日もいつものように顔を合わせて、今日が最後なら仕事が終わる頃にまた来るよ、と彼が提案してくれたことだけはよく覚えている。約束通り落ち合って、お店でそのままフライドポテトとコーラを平らげた。今思えば本当に滑稽なお疲れ様会だと思う。けれどおかげで初めてお客と店員を離れ、これからどうするの? と聞かれ、何のお仕事をしているんですか? なんて尋ねることが出来ていた。名前もフルネームで知ったのは、その時が初めてになる。
朝、時間通りに食事をとる彼なのだから、そもそもその生活は不真面目だとかだらしがない、なんてことはないと思えている。きっと会社勤めに違いない。予想はしたけれど、わたしが福祉関係へ進みますと教えたところで、彼はすごいな、応援するよ、と言ったきり。最後までわたしの質問に答えてくれることはなかった。
確かにそれからわたしは慣れない仕事にくじけそうになると彼を頼ったし、半年ほどが過ぎてどうにか仕事に慣れ始めた頃には、いつしか時間を作ってさえ彼と会うようになっていた。
落ち葉がはらり、と彼の肩をかすめ落ちてゆく。
誘われたように、そこで彼の足は止まっていた。
「実は」の続きはもしかすると、あの時、聞けなかった勤め先の話なのかもしれない、とわたしは考える。それとも今さら「つきあってください」とでも言うつもりなのか。いやもしかすると文言の前に「結婚を前提に」なんてつけようとするからこうも歯切れが悪いのかも、と予感し、急に緊張を覚えてみる。
そんな彼の目がわたしをとらえていた。
口はやがてこう動く。
「実は、ぼく、死神が仕事なんだ。君をさらいに、店へ通ってた」
またはらり、赤く焼けた葉が彼の背で舞い落ちていた。
「けど君は、死んでしまうには、なんだかもったいない。なんだか、って曖昧だけど、それが一番、正しい答えだから問わないでほしい。この仕事をやっていると、そういう良し悪しの見分けが自然とできるようになってくるんだ。だからのらりくらり先伸ばしてきた。上には見極めている途中だ、ってうそぶいてね」
悪戯気と彼は眉を跳ね上げる。
「何を、言ってるの?」
「それも、もうバレた。すぐにも帰れと指示されてる」
そのもっともらしい口ぶりが、もっともわたしに伝わってこない。ままに瞬いた瞬間だった。風は強く吹き上がり、ざざざ、と木々もこぞってざわめく。吹かれて足元に散っていた落ち葉が舞い上がった。わたしの目の前を赤と黄に染め上げる。
「目が覚めても、驚かないで」
声は聞こえるけれど、落ち葉にのまれて彼の姿はよく見えない。
「待って! そんなの嘘でしょ」
まだ手しかつなげていないのに。
「どんな君でも、君のままで生きていて欲しい。でないとぼくは丸損だ」
落ち葉の隙間に彼がようやくのぞく。その体は冗談のように地面から浮き上がってゆく。まさにここから飛び去らんとこ、シャツをこれでもかとはためかせていた。
「そんな、急にさよならなんて!」
はしたないけど、言わずにおれない。
「その前に、一度くらいキスしてよ」
「それこそできないよ」
言う彼が浮かべたのは困ったような笑みだ。
「そんなことをしたら本当に、君は死んでしまうから」
彼が飛んだのではないと思う。
とたんわたしの足元は抜けていた。
声は出ず、それきり果てへ落ちてゆく。
闇は深い。
さようならも、言えていない。
機械の音。
目が覚めた、と感じ取っていた。
その視界へ、やおらお母さんの顔は突き出されてくる。瞬間、私の名前を何度も呼ぶと、しがみつくなり泣きだした。繰り返す「よかった。よかった」は、あんまりにも大袈裟で「もう、やだ」とわたしは思わずお母さんへ手を伸ばす。
手を、伸ばした。
押しのけようと右の手を、伸ばしたはずだった。
その手が、いや、わたしの体の半分が動かなくなってしまったことは、次の朝、とても丁寧にお医者さんから聞かされた。
わたしは就職なんてしていない。アルバイトを辞めたあの日、迂闊な運転手の車にはねられ、この病院へ運び込まれただけだった。それから半年間、眠ったままでこの病院にずっといる。
理解はできた。
だってそもそも死神なんているはずがない。
全ては夢だ。
けれど口はうまく動かず、ご飯すら食べづらくて、歩けないうえ椅子へも満足に座ることができず、今の方が夢みたいだった。何をするにも人の手が必要で、何もかもがうまくいかず、辛くて頭がおかしくなりそうになる。そんな今の方がずっと死神に憑りつかれていて、いっそ死のうと睨み付けた天井へ毎晩、誓った。
けれどできなかったのは、不自由な体のせいではない。
どんな君でも、君のままで生きて欲しい。
でないとぼくは、丸損だ
彼の顔は浮かぶと声が蘇る。応援するよ、と言われて頼ったあの日々が、閉じたまぶたを覆って目の前で踊り続けた。夢の中の、それは起きてやしないことだらけだけど、忘れられないなら強烈に、強烈に、白々しい芝居を続ける彼に会いたくなって仕方なくなる。
死神なんでしょ。とっとと迎えに来なさいよ。
罵っていた。
丸損なのはこっちよ、ばか。
なじる。
もしあの時、一緒に連れて行ってくれたなら、目覚めることなく死ねたのか。
考え続け、まさか夢の中で出会った人物が、本当に命を奪うなんてありえないと落胆した。けれど会いたくて、だから会えるはずもなくて、涙の味さえ分からなくなるほど泣き続ける。
いや彼は間違いなく本物の死神だ。
そう思い始めたのは、そんな涙も底を尽きようとした頃だった。だからこそ生死の淵をさまよっていた夢の中でしか会えなかったんだと確信する。なら必ずまた会えるじゃないか。気づけたのは、今、生きているからだろう。
そう、生きている限りだった。
生きている限り必ずいつか、人は死ぬ。
そのときもう一度、彼に会えるかもしれなかった。
いやたとえ違う誰かが迎えに来ても、ちゃんと彼が来るまで死んではやらないんだと思う。そしてそのとき今度こそ、し損じたりしないと心に誓った。今度こそ、こちらからその襟首を掴んでキスしてやるんだと開いた両目で天井を睨む。
それからさようならを言えばいい。
その日までを、何が何でもわたしは生きる。
もう一度、彼に会うためその日まで、何が何でも必ず生きる。
落ち葉の季節がまた廻ろうとしている。
励むリハビリのせいでだいぶと力の戻った右手はきっと、掴んだ襟首を離しはしないだろう。
わたしは強くなった。
きっともっと、強くなる。
そしてさようならはまだ、言えてない。