遠すぎる
淡い疑似重力は辛うじて大気を薄く地表に貼り付けておける程度。無防備で月面を楽しめる展望エリアの酸素濃度はゆえにエベレスト山頂並に薄く、チェンバールームを経なければ利用することは難しかった。だからといって閉じこもったのは分厚いガラスやEVAのゴーグル越しにではなく、直接宇宙を眺めたかったからではない。もはや酸素はチェンバールームにしか、続く展望エリアのいまにも霧散しそうな薄いそれしか残されていないからだ。
吸い尽くしてひとり、開いたチェンバールームのドアを潜り抜ける。
手にはパウチ。
中には1本、ジャパンで製造された「ネギマ」がある。
くそったれ。
タレ? おお、たしかにタレだ。
パウチのラベルを確かめていた。
そうもくだらないダジャレが出るほど目の前には、こんな時でも小さく潤んだ地球が美しさも極みとつつましやかに浮かんでいる。だが住まう人間は愚かを極め、AI稼働の電力欲しさに月に発電所をこしらえた。従事する人間も必要だということで、こうも大規模な居住施設を展開してみせている。だが稼働し続けるAIの目的がスパイたちも真っ青な謀略、戦略の数々だったなら、まるごとおじゃんだ。コトは臨界を迎え、半年前ついに破綻した。
ふざけるな。
戦争ってのはせいぜい半年くらいはやるもんだ。
ものの一分で終結した核戦争のせいで、こちとら瞬きと共に全てが終了。補給船という命を繋ぐもとでを失った。
それから半年、見続けたのはこちらも戦争さながらの閉所が過酷な惨劇だ。そして生き残った最後の俺は、つまり最も残酷な者となる。
展望エリアはエプロンステージさながら「静かな海」へ向かって張り出しており、その先端まで浮きがちな足取りで進んでゆく。置かれたベンチはおおむねカップル向けだったが、いまや相手など、人間などいはしない。なるようにしかなく、今さら酸素の消費を懸念してゆっくりベンチへ腰かけていった。
本来なら「ネギマ」と共にアルコールの一つも持ち出したかったところだ。だがもうどこにも残っておらず、片手落ちながら手持無沙汰。仕方なくパウチの封を切ることにする。そうっと中から串で貫かれた「ネギマ」を抜き出した。その香ばしげな焦げがついた鳥のモモ肉と、柔らかに焼きあがったネギは、濃い色のタレをまとっている。冷めていても放たれる香は濃厚だ。味を教えてくれた日本人はもうおらず、ここもあとどれだけもつのか分かったものではなかった。それでもうまそうだ。思えば反射的にツバが口の中に溢れてくる。あまりに即物的な己が滑稽で、その滑稽が急に胸を詰まらせた。泣いてしまう前に、だ。食わなければこれ以上、正気でいられそうにないと思う。
ゆっくりと、しかしながら確実に「ネギマ」を口へ持ち上げていった。
先端の鳥モモへ歯を立てたなら串からひと思いにしごき取る。
瞬間「ネギマ」は宙を舞った。
「……ぅそ、だろ」
勢いがよすぎたのだ。口の中に鳥モモを残して「ネギマ」は、貫く串は弾けたがごとく縦回転、宙へ飛び出してゆく。
追いかけ急ぎ手を伸ばしていた。
右、左。
空を掴む結末にかわりはない。
「うそだろ」
流れゆく「ネギマ」は「静かな海」を、越えてその向こう、静かに浮かぶ地球を目指しみるみる展望エリアを離れてゆく。
最後のメシと味わうつもりだったのだ。
いや、「ネギマ」。
やおらこみあげてくるのは怒りか。
俺も連れて行ってくれよ。
投げたところで「ネギマ」が答えるはずもない。その回転は物理の理をただなぞる。
はは、ともれた笑いは最後の正気だった。
そう、もう戻れるような場所でないなら地球も「ネギマ」も遠すぎた。
重なる二つをただ眺める。
滲もうと、眺め続ける。
ギャラリーと本の店「犬と街灯」ワークショップ「読む前に書け」にて
お題「遠すぎる」参加作品改稿バージョン




