第二話 連続的遭遇による未来への契機
秋空は既に暗闇に染まっている。時刻は午後八時前。この時間だと、橙色のぼんやりとした光を放つガスランプが照らす薄暗い店内で、奴隷達は眠りについているはずであった。しかし、そんな普段の様子とは異なる、今のこの空間にラナは困惑していた。彼女に何より動揺を与える契機となったのは、閉店寸前に入店してきた一人の青年の言葉であった。
――綺麗な銀髪。
この一言に、ラナは戸惑いを隠せずにいた。奴隷としての生活を強いられるようになってから、罵倒しか受けてこなかった自分の身体に、綺麗という言葉をかけられたことは初めてだった。もちろん予想外、天変地異ともいえるだろう、それらの感情がラナの心を占める。そして冷静になると恥ずかしさを覚える。奴隷であっても年頃の少女である。年上であろう青年に褒められれば、少しは照れてしまうというものだ。さらに割りと端正な顔立ちをしているこの青年からならなおさらであろう。
この言葉に驚いたのは何もラナだけではない。牢屋の向かいに見える商品棚の近くにいた、オレンジ色の髪をした少年の耳にもこの声は聞こえていた。店の奥で喋っている男性と店主には聞こえていないだろう。少年は振り向いて目を見開いた。さきほど、青年が牢屋に向かって歩き、この少年の横を通り過ぎたとき、少年は、大事なものを奪われてしまう、と直感的に感じた。
青年は、突拍子な出来事続きで固まってしまっているラナと同じ目線になるようにしゃがみこんだ。そしてラナに向かって話しかける。その顔はにこやかであったが、少年はその後姿から敵意や悪意しか感じられなかった。一方ラナは、その姿に今まで体験したことのないような安心感を覚えた。
「なぁなぁ、名前教えてよ」
青年のさきほどの発言の意図は分からないが、こちらとのコミュニケーションを計ろうとしていることだけは理解できた。ラナは小さな声で話す。
「ラ、ラナ……ラナ・ストリウス……」
その言葉を聞き、青年はうんうんとうなずく。
「ラナかぁ、いい名前だな。俺はユウトっていうんだ。よろしくな」
「え……あ、はい……」
何がよろしくなのだろうか。もしやこの青年は自分を買おうとしているのではないか。そう思ったラナだったが、自分は数分前に青年の後ろでこちらを見ている少年に予約されてしまっていた。なぜか口惜しい気分になった。そんなことを考えていると、青年はすっと立ち上がり口を開いた。
「さて、じゃあお互いの自己紹介がすんだところで、本題に行くか」
ラナは不思議そうにユウトと名乗った青年の顔を見つめる。
「まぁまぁ、悪いようにはしないからさ、安心してろって。あ、悪いんだけどそこに寝てる三人を起こして……そうだな、藁を集めて体に巻きつけて、そこの隅っこで四人で丸まっててくれ。気づかれないよう、静かにな」
ラナはユウトの言うとおりに行動した。まずはリィシャを起こした。眠気眼のリィシャはラナの言うことに多少の疑問を抱いたが、ラナの至極真面目な顔つきから冗談ではないことを悟り、指示通りこそこそと藁を集め始める。その間にラナは幼い二人を起こし、四人で牢屋の鉄柵側の左隅へと身を寄せた。
ユウトは彼女らが行動を起こしている間、店内を練り歩いていた。そして商品棚に陳列されている手錠や首輪などを手にとって眺めたりしていた。
「うはぁ……悪趣味だなぁ……」
顔をしかめて愚痴をこぼす。そのとき、オレンジ色の髪の少年がユウトの前に立ちはだかった。少年の目には不安と敵意が宿っていた。ユウトは商品を棚に戻すと、少年の目をじっと見つめる。緊張と硬直をしたその顔と小刻みに震える手に、怯えが見て取れる。ユウトは見た目から恐らく十八歳程度だと思われるが、少年はラナ達と同じ十四、五歳である。もちろん身長も百七十後半はあろうかというユウトに対して二十センチも低い。必然的にユウトが見下ろす形となり、彼の少年に放つ威圧感がますます高まる。何か言いたげな少年のその口を見てユウトは口元をにやっと吊り上げて言った。
「何か言いたそうだな」
その一言に少年は言い知れない重圧を感じる。切れ長な目から覗く黒い瞳が少年の目を捉える。絶対的な力の差を感じた。しかし、少年とて目的がある。ここでどこの誰かも分からない男に妨害されてはたまったものではない。意を決して口を開いた。
「あ、あの銀髪の女の子は俺が予約してるんだ。もう買えないよ」
少年はつまりながらも言葉を放った。当初はもっときつく言うはずであったが、これが精一杯であろうか。その様子を見てユウトは不敵な笑みをやめ、驚いたような顔を見せる。
「予約? 少年よ、君何歳?」
「じ、十五だけど……」
「十五歳が奴隷買おうとしてんのかよ! 世も末だねーこりゃ」
ユウトは頭に手を当て困ったような顔を見せる。
「ち、違う! 勘違いすんなよ! 奴隷として買うんじゃないんだ! と、友達として……」
少年はそこまで言いかけて口をつぐんだ。その言葉を店主と男性が聞いていたからであった。二人はカウンターからこちらへ向き、意地が悪そうに笑っていた。
「がっはっは! おいおいボウズ! 奴隷を友達にするって……そんな目的かよ! 金持ちの考えることはわからんねぇー! 友達いねえのかよ! がっはっは!」
「まったくだ! それともあれか? 夜のお友達にでもすんのかぁ? まぁ思春期なら誰しもが一度は考えるよな! わっはっは!」
その言葉を聞いた少年は、みるみるうちに顔を赤くし、激昂した。
「ふざけんな! そんなつもりで買うんじゃない! 俺はこの子を助けたいだけだ!」
「助けたい? 何言ってんだボウズ! お前噺家の才能あるんじゃねえの!? がっはっはっは!」
確かに少年の言っていることは今のこの時代と世界を考えるとずいぶんと突飛な発言である。それでも少年の立ち振る舞いやその姿、瞳には嘘偽りの心は映っていなかった。ユウトはそれを感じ取ると、ラナのほうを向いた。すでに四人で藁に包まり、牢屋の隅で丸くなっている。ラナの顔は曇っていた。何が起ころうとしているのかわからない不安と先ほどの店主の発言によるものであろう。ユウトはそれを確認すると、再び少年と大人二人の口論のほうへと向き直った。口論といっても、一方的に怒りをあらわにする少年と、そんな少年をからかいそれを笑う大人達との大人気ない小競り合いであった。
そこでユウトはこの三人を止めようと間に割り込もうとした。しかし、そのときだった。少年がズボンのポケットから一枚の紙を取り出した。その紙の中央には魔方陣が描かれていた。紙を空中へと放り投げると、描かれた魔方陣が淡く光り、その光は魔方陣の中央に集まったかと思うと、少年の両手へと飛散した。紙は魔方陣が輝きを失うと同時に空中であとかたもなく消滅した。
少年は自らの光る両手を店主と男性へと突き出す。そして、呪文を詠唱した。
「いい加減にしろ! 『光陰の矢』!」
少年の手から二本の光の矢が放たれる。その矢は店主と男性に向かって一直線に突き進む。大人二人は焦ってカウンターの下に身を潜める。光の矢はカウンター裏の壁に激突し、木造でレトロな壁にヒビを入れる。店主は呆気にとられていたが、いち早く我に返ると、現在の状況を飲み込む。
「な、なにしやがんだこのクソガキ! 店の壁壊しやがって! ただじゃおかねえぞ!」
「ひっ!」
自分のしたことの重大さに気づき顔を蒼白にさせる少年はその場で固まってしまう。予想外の展開に動揺を隠せない男性は、カウンターの下で腰を抜かしている。店主はカウンターを乗り越え、少年へと掴みかかろうとする。店主の腕が固まった少年の胸倉を乱暴に掴む。そのまま罵声を浴びせ続ける店主を前に、少年は涙でぐしゃぐしゃになった顔を隠すように下を向く。しかし、少年の胸倉を掴むその手は、少年がふと気づくと、視界から消えていた。そして耳に入ってきたのは店主の罵声ではなく、呻き声にも似た悲鳴だった。少年が泣きじゃくる顔で見上げると、そこには後ろで手を掴まれた店主がいた。その手を掴んでいる者はユウトだった。あいも変わらずにやにやと不敵な笑みを浮かべている。一言でいえば不気味である。
「いでででででっ! 何すんだてめぇ!」
店主は痛みと怒りで顔を真っ赤にしている。
「おっさん、仮にも接客商売なんだからさぁー、こんなガキに手を出すってどうよ。まぁそりゃあこのガキも悪いことしたけどさ、そーんな怒らなくたっていいじゃんよ、な?」
「ぐっ! わかった! わかったから離せ!」
店主がそう喚くと、ユウトはぱっと手を離す。あまりにも急な動作で店主は前のめりになる。店主は体勢を立て直すと両腕を互いに擦りながら、悔しそうに唇を噛む。
「もういい! 今日は店じまいだ! お前ら帰れ!」
店主が狂ったように叫ぶ。その声をよそに、ユウトは再び牢屋へと歩んでいく。牢屋の中では先ほどの騒動によって完全に目を覚ました幼い女児達を、ラナとリィシャが一人ずつ抱きかかえている。
よしよし、とユウトは満足そうにうなずき、牢屋の前で身を翻し疲労困憊である者達に向かって演説じみた口調で話しかける。
「さて! では店内も、大人気なく激昂する恰幅のいい糖尿病へ一方通行であろうジェントルマンと、みっともなく腰を抜かした今にも漏らしそうな光り輝く頭部をお持ちのダンディズム溢れるおじ様! 自ら啖呵を切っていったにも関わらず無様に泣き叫ぶ小僧! そして藁にみすぼらしく包まるそこそこ可愛げや愛嬌のある奴隷どもによって温まってまいりましたので! 一つ俺の話も聞いてもらおうかな!」
店内にいる全員が呆気にとられ、静寂が木造のこの空間を包む。店内が静かになったことで外の様子に今になって気づいた。店の外には先刻の騒ぎによる野次馬達がちらほらといるようだ。店主は慌てて店の窓や戸を閉める。何が起こっているのか心配する声も相次いだが、店主はなんでもない、と群集をあしらった。
完全に隔離された密閉の店内で、誰よりも何も理解が追いついていないのはラナ達であろう。急に指示を出され、その指示を出した当の本人である青年は突然の罵倒をしだした。
「いやはや、でもな少年。お前が暴れてくれたおかげでまったく怪しまれずに準備ができたよ。奴隷達を見てみろよ。藁に包まって丸くなってるだろ? あんなの見ちゃったらこれから何かが起こるかもしれないって誰だって思うじゃん? だからありがとうな。でも非常に心苦しいことに、残念だけど無様な少年の望みは潰えちゃうんだなー、ごめんな。これからここの奴隷達は俺が全員奪っちゃうんだ」
ユウトはパチッとウインクを決め、まるで悪戯が成功した時の子供のような、そんなお茶目な顔を見せた。そのことが店内にいる者達に、逆に不気味な不安感を煽った。
ユウトのこの発言にいち早く反応したのは店主であった。
「何言ってんだてめぇ……こちとら唯でさえ腹が立ってんだ。衛兵も呼ばずに帰してやろうとしてんのに何が奪うだこのやろう。これ以上わけのわかんねえことしてると本当に衛兵呼ぶぞ? ってか何で奴隷どもはそんなことしてんだ。何を吹き込んだ?」
店主はユウトに詰め寄り、少年にしたときと同じように胸倉を掴もうとする。しかし、それは叶わず、店主の腕はユウトの右手によって掴み返される。その握られた腕はミシミシと音をたてている。店主は苦痛の表情を浮かべる。
「いっでぇええええ! は、離せ! おい!」
「おっさん、学習能力の欠如が甚だしいぜ? さっきおっさんが情けない呻き声をださなきゃならないようになったのは誰の反感を買ったからだったっけ?」
「わ、悪かった! 気が動転しててよ! は、離してくれ! な?」
「それでいいんだ……っよ」
「え?」
ユウトは右手をそのまま上へと持ち上げる。それに呼応して、店主の体も持ち上がる。おおよそ、常人の力ではない。店主の顔が恐怖で引きつる。そしてユウトはそのまま、カウンターで座り込んでいる男性へ振り向く。
「おい、笑い声のクソうるせえそこのおっさん。この太いだけの惨めなおっさんを投げられたらさ、あー、受け止められる自信とかある?」
男性はユウトの問いにすぐさま首を横に大きく何度も振る。ユウトはそれを見て、呆れ顔でため息を一つつく。店主はユウトの手の上でジタバタと暴れている。
「でかいのは笑い声だけか? お? 偉そうにふんぞり返る傲慢さがあんならちょっとは根性見せろや」
まるで街のチンピラのような口調に少年が背筋を凍らせる。自分が言われたわけでもないのに一体何だこの威圧感は。少年にはユウトの意思を読み取ることができなかった。いや、この時点では誰も出来ていないだろう。ころころと変わる喜怒哀楽の表情に、統一されない口調。目的も理由も分からない。水の中で突如現れては弾けて消える泡のように気まぐれに、そしてそれら気泡の出現から消滅までのたった数秒と同じ速さで、彼の持つ雰囲気は変化する。少年には、無常に逆らわないその態度が、ユウトの性格そのものをあらわしているように思えた。
そのときだった。座り込んでいたはずの男性は、立ち上がるとカウンター横の賞品棚に置いてあった革製の鞭を震える手で取り、疲れからではないが笑う膝を懸命に動かし、それを振り回してユウトへと突撃していった。可笑しな表現ではあるが、素人目にも素人だと分かるその滑稽な演舞に、ユウトはまったく慌てる事もなく、まるで予期していたかのように、右手を振り下ろす。走ってきていた男性は急に足を止めることができずに、放り投げられた店主の大きな図体と激突する。鈍い音が鳴り響いたあと、二人して床に転び、店主が男性に乗りかかる形となっていた。男性は鼻血をたらし、店主は今の衝撃で打撲でもしたのか、脛辺りをおさえていた。ユウトはというと口を押さえて笑いをこらえているように見える。目元が満面の笑みを髣髴とさせるそれである。
「ぶふっ、おっさん達は大道芸人の才能あんじゃねえの? あっはっはっは、はーあ。くっだらねーなー。ひひっ」
そう言うとユウトは再び牢屋に体を向ける。そして、腰につけていた小さなポシェットから一枚の紙を取り出す。それは少年の持っていた魔方陣の描かれていた紙と酷似していた。唯一異なる点は、魔方陣の中に描かれている紋様や文字であろう。ユウトはそれを木製の格子に貼り付けるようにして添えて、左手でそれを押さえると、少年同様、呪文のようなものを詠唱した。
「『撫子――』」
その言葉と同時に紙に描かれた魔方陣が少年のときとは違い、どす黒く、何人たりとも寄せ付けない、暗黒にも似た黒い光――光と呼べるかどうかも分からないがここでは光と形容するしか仕方がない――を放つ。そのコンマ数秒後、紙は霧散し、ユウトの左手を漆黒の光が包み、その光はそのまま格子を突きぬけ牢屋へ侵入する。直線に進んだその光はやがて反対側にある鉄製の格子をも突き抜ける。店内の誰もが息を呑む。圧倒的な悪意が篭るその光に吐き気すら覚えた。その悪意の波の後に訪れたのは、凶暴な野生動物に獲物として捉えられたような恐怖であった。
黒く染まった空間が晴れていく。そこにはぽっかりと穴があいていた。例えなどではない。本当にそこにぽっかりと、両面の格子に大きな穴があいていた。木製の格子は朽ち落ち、鉄製の格子は錆び付いたようにぼろぼろになり床に転がっていた。
「よっしゃ、そんじゃあ行くか。ほらお嬢ちゃん達立てるか? そっちから外にでような」
そう言ってユウトは牢屋の中へと入り、ラナ達を囲む藁を剥がし、服についた汚れを払いながらその場に立たせる。その後、ポシェットから先が入り組んでいる針金のような金属片を取り出すと、それを巧みに使い、一瞬で全員の足枷を外す。重さが無くなった足に感銘を覚えながらもラナは、ユウトのその一挙一動に不信感を募らせると同時に一つの確信を得た。
――この人が、奴隷狩りだ
そのことに気づき、反応が早かったのはリィシャである。リィシャは両手で口を押さえ涙を流していた。頬が紅潮し、喜びに全身を震わせている。幼い子供達はまだ事態が飲み込めず固まってしまっている。店主はというと、すでに戦意喪失を喫している男性の上からのそのそと降りて片膝をついた状態でユウトを睨みつけている。脂汗を額に滲ませ、重い口を開く。
「お前……奴隷狩りだな?」
ユウトはあいも変わらずに、少女達の服の汚れを払い、次いで、自らの服も念入りに埃を落としていく。この青年にはまったく掴みどころがない。乱暴な言葉遣いかと思えば、今みたいに綺麗好きであるかのような仕草も見せる。この青年と同じ空間にいるとどうにも調子が狂う。それはも決していい意味ではない。他人のリズムを乱し、全て自分が一番とでもいうかのような傍若無人な雰囲気を纏った、いわば自己中心的な調子の狂わせかたである。
「えぇ、えぇ、その通りでございますよご主人。いかにも、巷で噂の奴隷狩りでございますよ。実はもっと早くに伺わせて頂くはずだったんすけど……この国って州と州の境界越えるだけでもめんどくさい手続きがあるところが多いじゃん? そのせいでねー。あー、やだやだ。ま、そんなことはどうでもいいんだ。無駄話は嫌いなんでね。あんたらが商売あがったりになるのは分かってる。分かってるよ? でも、同情とかしてらんねえんだ。悪いとはまったく思ってないけどこいつらもらってくぜ?」
ほら見たことか。人を喰ったような付け焼き刃の敬語。それが一瞬で化けの皮が剥がれて元のチンピラのような口調に戻る。無駄話をしているのはどちらであろうか。誰もがわずかながら苛立ちを覚える、この青年の人となり。よくこれだけ舌が回るものだ。
「お、おい! いいか! お前のやってることは犯罪なんだぞ! 奴隷どもを奪うということは法律を破るってことなんだ! 奴隷を助けるなど自己満足だ! ……この州の衛兵は他のとことはわけが違うぞ。警報を鳴らせば三分程度で飛んでくる。俺がカウンターにある警報機を鳴らせばお前は監行きだぞ? ほら、今なら見逃してやる。奴隷達を置いて、牢屋の修理代払って消え失せろ!」
店主は立ち上がるとカウンターまで走った。そして柱に取り付けてある鐘のような形の警報機に触れる。ユウトはそれを呆れ顔というのか残念そうな顔というのか、そのような表情で見つめる。
確かに奴隷狩りは、奴隷達の主観によっては、ニヒリズムを宿していた心の鎖を解く、英雄、救世主なのかもしれない。ただ、客観的に見てみると彼の行っていることは、奴隷制度が法律で制定されているこの国で、通貨を使用せず強奪するところから、立派な犯罪になる。この奴隷制度については国内でも反対派は存在するがそんなものは少数だ。今や経済の重要な労働力となっている。
ただ、ユウトが残念そうな表情を見せたのは言わずもがな、自分の行いを咎められたからではない。どこまでも相手を馬鹿にする彼の胸中で彼は、大の大人が慌てふためく様子を滑稽と捉えているためである。ゆえにみっともなく思った。
ユウトはそんなことを考えながら店主に背を向け、穴の開いた鉄製の格子から外へ出そうとラナ達の背中を押す。
「お、おい! 聞いてないのか! 本当に衛兵を呼ぶぞ!」
「うっせえんだよデブ! 呼ばないでくださいって言えばこのまま逃がしてくれんのかよ! ってか人の指示がないと動けねえのかてめえ!」
「ぐっ……くそっ!」
なぜ今このタイミングで癇癪を起こすのかまったく理解に苦しむところではあるが、虚勢を張りつつも怯えている店主をさらに動揺の波へと誘うには、大声を出すだけで充分であった。結果としては小さな二人の子供も怯えさせてしまうことになってしまったが、そこは目を瞑るべきであろうか。
それにしてもなぜ、店主は衛兵の要請を渋るのか。そこには理由があった。さきほど店主が言ったとおり、この州の衛兵はどこであろうと三分前後で現場へとたどり着くことができる。
その理由は、転移魔法によるものである。転移魔法とは魔法の中でも高度な技術を要するものであり、使用できる者は魔法を使うことのできる者のわずか千分の一程度しか存在しないという。ちなみに魔法を使う事のできる者は魔法使いと呼ばれるが、それらは全人口の数パーセント未満とも言われている。つまりこれを使える者はいわばエリートである。そのエリートがこの州の保安隊には世界で最も多く配属されている。具体的な使用方法は案外簡単なものである。まず使用者があらかじめ、ある位置に魔方陣を設置しておく。そして、その後別の場所で同じ魔方陣を展開させそこに乗るだけである。方法だけは簡単であるがゆえ、魔法を極めた者になれば、好きな時に任意の場所へと自由自在に移動できるようになる。ただ、魔法を使用する際の力の源である、魔力の絶対量が多くないとこれはできない。さらにまったく同じ魔方陣を作るというのはきわめて難しい。そのため使用者の数はごくわずかなのである。
これらから分かるように、転移魔法を使用するには多くの人件費などのコストがかかる。そしてこの州では税金でそれらを賄うことが厳しいため、衛兵を呼ぶたびに少々の金を徴収される。これが店主の渋る理由であった。もちろん衛兵ではなく普通の警察のようなものも存在するが彼らは衛兵や魔法使いに比べると戦闘能力が乏しい。七年もの間、どの国の保安隊にも捕まらず逃げとおしている奴隷狩りを討伐するには衛兵でないと心もとない。
「よし、みんな気をつけてなー。あ、そこ段差あるぞ? ほら、手出して」
まるで紳士のような振る舞いを見せるユウトに手を引かれ、奴隷達は全員外の世界へと足を踏み入れた。リィシャは相変わらず泣きじゃくっている。幼い二人はようやく事態を理解し、目を輝かせ辺りを見回している。目に映るすべてのものが新鮮で、美しく感じられた。最後に牢屋から出たのはラナであった。ユウトに体を支えられながら右足を地につける。そこで初めて彼女は実感と安心を得た。
――もう人は死なない
外の空気を肺いっぱいに吸いつつ夜空を見上げる。眼前に広がるのは汚い天井ではない。一切の穢れがない満天の星空である。リィシャのように涙はでなかった。
「待てコソ泥! 今衛兵を呼んだ! お前はここで終わりだ!」
店の玄関から飛び出してきた店主は悔しそうな表情を浮かべながら叫ぶ。そのすぐあとに落ち着きを取り戻した男性もつられて出てくる。少年は未だ事態についていけず格子の隙間から外の様子を眺めているだけであった。
「もう一度だけ言うぞ! 奴隷ども修理代を置いて消えろ!」
この男、相当な守銭奴らしい。この期に及んで自己の利益を優先させている。ユウトの表情はやはり呆れ顔というか引き気味である。ユウトは少女達をかばうように前に出る。店主との距離は四メートル程度か。硬く握り締めたこぶしがよく見える。ポシェットから先ほどと同じ、魔方陣の描かれた紙を取り出す。左手で魔方陣の描かれている面を見せるようにして、目の前にいる店主に突き出す。魔方陣が黒く光る。そこで店主と店の入り口に隠れるようにしてこちらを覗き込んでいる男性は瞬時に悟る。
――飲み込まれる
思考がそう判断したときにはもう遅かった。ユウトが詠唱を開始する。紙が大気中へと霧散する。ユウトの突き出したままの左手が黒い光に飲み込まれる。
「『撫子――』」
気体とも液体とも、ましてや個体とも違う、ただ黒い何か。触れてみようと思えば触れられるだろうと思えるほどには形を感じさせる黒い何か。それらがユウトの左手から飛び出す。それらから生は感じない。
逃げ出す暇もなくそれに飲み込まれた店主と男性は断末魔をあげる。徐々に小さくなる声に応じるように黒い何かは消えていく。黒い影も形も無くなったころ、店主と男性は地面に突っ伏していた。二人の体からは生気を感じられない。ユウトは二人のもとへと近づくと、うつ伏せで倒れている店主の頭を片足で踏みつけ、小さな声で囁くように呟いた。
「俺ほんとは優しいんだぜ?」
店主の頭に乗せた片足を何度も何度も捻る。ラナ達には聞こえていないだろう。数回やって気が済んだのか。足を下ろすと、くるっと踵を返し、ラナ達へと振り向く。一歩一歩歩み寄ってくるその姿に、助けてもらったときの感動を覚えることはなかった。すっかり怯えてしまっている。それもそのはず。彼の行動の逐一がまるで悪役のようだからだ。奴隷狩りによって奪われた奴隷達のその後は定かではないと言われているのを思い出した。自分達が勝手に救世主だと思っていただけで、実際は買われた時と同様に死ぬまで服従させられるのではないか。四人の奴隷達の心を不信感のみが占める。しかし、その感情もユウトの一言によって再び揺らぐこととなった。
「俺達はお前達を助けに来た」
ラナ達の目が見開く。言葉の中に込められている力強い意志と底が見えない優しさを感じた。今までの行動のすべては、この一言のための前置きであるかのように彼女達の心に強く響いた。
「行こうか」
ユウトが両手を左右に大きく伸ばす。リィシャと幼い二人の少女がユウトの胸に飛び込む。涙が止まらない。この生活を抜け出せる。そう確信した。少女達の身体も心も、思う以上に脆く儚かった。ただ一人ラナを除いては。優しく微笑むユウトに抱きしめられる三人を安堵の表情で見つめる裏で、ラナの不信感は完全には解かれていなかった。彼女は強すぎた。生きる知恵を本能的に知りすぎていた。
こちらを見たユウトと目が合う。優しい表情にラナも惹かれそうになった。この和に入ろうかと思ったそのときだった。
「いたぞー! こっちだー!」
ユウトの背後から数人の衛兵が来た。鎧を身につけ両手で剣を握っている。
「あぶないっ!」
ラナが悲鳴にも近い大声で危険を告げる。ユウトが振り向いたときにはすでに衛兵はユウトの頭を狙って剣を振りかぶっていた。
「だめっ!」
ラナの悲痛な声が旋律となって町を走り抜ける。
その瞬間。衛兵の影から上空へと何かが飛び出す。ラナの目線がそれを追う。それは真っ暗な夜空の真ん中に浮かぶ月と重なった。一瞬の出来事であったがラナの目は確実に捉えた。
――綺麗
月明かりに灰色の長い髪が照らされる。
一閃。
急降下してきたその女性が衛兵の振り下ろそうとした剣を両断する。衛兵は使い物にならなくなったその剣を振り下ろしたところで初めて異変に気づく。何事だ、そう思ったそのときには衛兵の意識は途切れていた。女性の手が衛兵の延髄を打ち払っていた。衛兵はその場に倒れこむ。
そこでやっとラナは女性の顔を見る。冷淡に見えるその顔は、非の打ち所がないほど整い美しかった。白いローブを羽織っており、灰色の長い髪が美しく映える。その髪が風に吹かれ、まるで滝のように波打つ。その動きに目を奪われ、その動きこそがラナの中での本物の滝となった。その女性はユウトと言葉を交わす。
「お怪我はございませんか」
「あー、うん。大丈夫。ありがとな」
「いえいえ」
丁寧な言葉遣い。ユウトとは真逆の、すべてを包み込むような包容力。そして女性はユウトの横を抜け、ラナの元へと寄って来る。歩く姿すらあまりに美しいその光景に、ラナは一歩後ろに下がりたじろぐ。女性はラナの前でしゃがみ込むと見上げるような形でラナに向けて微笑む。ラナの髪に手を伸ばし優しく擦る。そして一言。
「綺麗な銀髪をお持ちなのですね」
何かが起こるとき、その出来事は連続性を持つことがたまにある。その連続性が有益なものであるかどうかは本人の価値観次第であるが、銀髪の少女にとって今日はその出来事の始まりの日となった。
矛盾点、不可解な個所、誤字脱字等、ご指摘がございましたら、お手数ですが一報いただけますようよろしくお願いします。