教会の雑音、聖女を辞す
薔薇庭園に囲われ、甘美な香りが人を誘う。
アルザス宮殿。かつては有力貴族の邸宅であったが、臨時政府の重要施設として今は使われていた。しかしそれももう間もなくその役目を終えようとしている。
百日天下。後にそう呼ばれる、反乱軍による臨時政府。首班は『浄火の聖女』こと、エレーゼ・エヴァン。
一司祭でありながら、教会による腐敗政治に終止符を打つべく立ち上がり、人心を瞬く間に掌握、勢力を全国に拡大したまでは良かったが、その後教会勢力により戦力を分断され局地戦で各個撃破されたのだった。相次ぐ敗走の報は士気を失墜させ、仕舞いには裏切りまで出る始末。
ついに、本拠アルザス宮殿まで追い詰められたのだった。
彼女は陣頭に立っていた。反撃しながら後退を繰り返したが、もう退く場所などない。修道服が煤ですっかり黒く汚れてしまっていた。
四方を包囲され、砲撃の雨嵐。
完全に袋の鼠。万事休すといった具合である。従者が一人減り二人減り、そして彼女は独りになった。
時折、爆音と共に粉塵が巻き起こり、紅の視界を覆う。まさに奮迅の働きというか、なんというか。外では激しい戦闘模様が繰り広げられているのだろう。想像に難くない。
「どかどかどっかーん、なんちゃって」
火の手が上がり、迫り来る。熱風が抜けると、彼女自慢の銀髪から焦げた匂いがした。
悲鳴が響き、まさに阿鼻叫喚といった具合なのだが、彼女は真紅の瞳に逆らうかのような、場違いな冷えきった表情を崩そうとしなかった。
まさに何が起ころうと、どこ吹く風である。――熱風だけに。
彼女は崩れかかった土の壁の向こうを想っていた。
まだ見ぬ彼や彼女は必死の形相で、彼女に武器を向ける。その手に持つものはそれぞれ。小銃だったり、サーベルだったり、あるいはただの農具だったりする。
彼女に恐れはなかった。
来る。向い入れる。ただそれだけのことだ。
彼女は微笑む。まるでモナリザのように。聖女チックに。ただどこか悪魔的でもあった。
硬い銅で出来た壁をどうやったのか、蹴破って――彼や彼女はようやく現れた。これでは主役がどちらかわからない。なかなか決まっているではないか。
「悪役も板についてきたわね」と自重気味につぶやくと、彼女はまたいつものように、招かれざるお客人とは全く関係のないことを考えた。真紅の瞳は蝋燭の炎を見つめ、穏やかに揺れていた。
「来たわね」
「ついに追い詰めたぞ――騙りの魔女」
「あぁ、そうね。私は追い詰められたのよね。忘れてしまっていたわ。貴方がまるで徒労とばかりに。ごめんなさい。こんなところまでわざわざご苦労様。……ああ心配しないで?私はきちんと与えられたお役目を全うするつもりよ、安心していいわ」
どこか気の抜けた返事をし、彼女は軽く会釈をするのだった。その緩慢な動きは垂れた象鼻を彷彿とさせた。
「……諦めたのかよ、魔女」
心底、「何を言っているのかわからない」といったように小首を傾げる彼女だった。
「ねえ、あなた知らないのかしら?」
「は?」
彼女は武骨な土作りの部屋から明らかに浮いた、煌びやかな調度にたおやかな掌をそっと置いた。椅子からゆっくりと腰を上げるが、目線は虚空を見つめている。
何か武器を取るでもない。警戒心がまるでない。
「私はもうとっくに諦めているのよ、そんなこともわからないのかしら?」
「何を言ってんだ?お前死ぬんだぞ、怖くねえのかよ?」
「そう、私は魔女――あなたの言うように。それならば、存在は罪。罪人が生きていて良いのかしら?」
「いいわけないだろ」
彼女は「正解!」と手を叩いた。最大限の侮蔑を込めながら、口だけで賞賛する。
「そうね、正解よ。それなら、どうなのかしら?私には怖がる必要なんかないように思えるのよ。だって今が、いえ私の人生全てが恩情なのだもの」
「有り難迷惑な話だけどね」、彼女は最後に付け加えた。
元は善人なのか、二人の男の片割れは少し困った顔をした。憐れみを含んで、瞳はわずかに潤んでいた。
彼らは人間なのだから。彼女を「殺すに忍びない」と思う。仕方のないことだ。
彼女が自らを聖女と騙ったことが教会の指示であったと男達はよくわかっている。それが教会の汚いやり口だからだ。祭り上げ、使い捨てる。教会の求心のための尊い犠牲なのだ。
身勝手な。あまりに身勝手な。
彼女自身は「やらされていただけ」と言い逃れもできるだろうに、それでも自らの生を罪と言い切る彼女はただ男の瞳を真っ直ぐに見つめていた。
「かわいそうじゃないか?まだ十五くらいじゃ……多分俺の娘くらいだぞ」
「……でも殺るしかねえだろ。こいつをとっ捕まえれば大司祭もお喜びになる。褒賞も出る。というかこいつを逃がしたら俺らの明日はねえぞ」
「大司祭が絡んでいたのね」と今となっては至極どうでもいい情報を咀嚼しながら、彼女はあっけらかんと「私、死ぬのかしらね?」と問う。なんでもないことのように。
なんともなしにその少女は言ったのだ。
「……ああ死ぬよ、ここでは殺さないけどな」
男の片割れの言葉は歯切れが悪かった。
「そう、優しいのね――でも」
少女は嗤った。怜悧に。
その時、彼女は魔女になった。
「私は優しくないわよ」
「なっ!?」
「ぎぃいやぁああああああああああああああああああああああ」
「てってめえ何を――ぐぅっがあああああああああああああああ」
断末魔の叫びと共に、男らは果てた。焦げた肉の塊が横たわり、更に悲鳴が上がる。
男らは気付くべきだったのだ。碧眼の瞳が真紅であることに。
迂闊だった。圧倒的有利な状況から忘れていたのだ。彼女の能力が武器を必要としないことを。
「さーて」
「フフッ」と嗤い、少女は喉の前に左腕を突き出し、それを空で掻き切る。
「早く捕まえなさいな」
「貴方がたの大嫌いな魔女さんは、ここにいるわよ」
簡単に死んでやるもんか、断頭台はまだ遠い。
魔女は指を鳴らし、燃やして燃やして燃やし尽くした。
燃やし尽くしたのだった。もうたくさんだと言わんばかりに。
最期の一瞬まで。
「お疲れ様、私」
彼女には明日が視えないのだった。
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ドゴール広場は平日昼間だというのに、いやに人で溢れかえっていた。居並ぶショップはシャッターを締めたきりだ。
時計台の大鐘が十時を告げる。
時間だ。
大衆は用意された断頭台を見る。
「【魔女】エレーゼ・エヴァン。国家反逆罪及び扇動の罪により第一級戦犯とし、斬首の刑に処する」
「……」
「最期に懺悔を赦そう。何か申せ」
司祭アーネット・ウッドウェルは晴れやかだった。
「滑稽ね」
「……今、なんと?」
「魔女を探し、魔女に縋り、魔女を殺す。私は聖女なんかじゃなかったわ、最初からね」
「当たり前だ、異端者めが!」
「私は聖女に成り代わった、教会の雑音よ」
彼女は消え入りそうな声で言った。眼を瞑り、裁きを待つ。
そのためか。
少し眩しいと思っただけで。
自分が眩い光に包まれ、消えたのを認めることができなかった。
――できなかった。
人々は言う。「奇跡だ」と。
エレーゼ・エヴァンはそれっきり二度と現れることはなかった。
「この世界では」の話だが。
それから彼女の記憶はぷつりと途切れたのだった。
「寒い……」
「どうしたんだ、エル?」
「寒いのよ。貴方にはわからないのでしょうね、甚助君。雪国の生まれですものね」
「わからないな。というか、その修道服が薄着だから良くないんじゃないか?着替えたらどうだ?」
「いやよ、ポリシーですもの。私の国はこのくらいで快適だったのだけれど、いやね」
「譲れない?」
「いいわ、最悪敵から奪うから」
「服を、か?」
「ええ、いけない?」
「その発想はなかったわ」
「そう?」
「それじゃ山賊か何かみたいじゃないか」
「そうかしら?」
「小首を傾げるなよ、というか本当にシスターだったのかこの子?」
「そうよ」
「そういうことにしておくよ」
「何か釈然としないわね」