Graffiti
少し遅れました。すみません。
「酒井を殺す。それが俺の使命だ」
「殺す?」
酒井首相は柔道や空手などの体術をたしなんでいると聞いたことがある。護身術ができなければ普通に道歩いたりしないでしょうね、とテレビで評論家が喋っていた。
つまりこの男が包丁を持って襲ったところで勝ち目はないだろう。むしろ酒井の支持率が上がるだけだ。
『殺す』というのはそういうことではないのだろう。「社会的に殺してやる」と言っているわけだし。つまり、
「告発?」
「ああ。そうだ」
「でも、そんなことしても誰も信じないんじゃないのか?」
「信じざるを得ない状況を作るんだよ」
「信じざるを得ない状況?」
「さっき言っただろ。証拠だってある、って」
ああ、と俺は思い出して頷いた。会ってすぐにそんなこと言ってたな。警察に持って行っても駄目だ、と。
彼の話を聞いた感じではおそらくその証拠を目撃した警察官も壊され、隠ぺいされるから警察に持って行っても駄目、ということだろう。
その旨を彼に伝えると彼は頷いた。「そうだ。だから俺は信じざるを得ない状況を作っているんだ」
ごそごそ、と彼は興奮気味にパンツのポケットから黒い縦長の機械を取りだした。「証拠はこれだ」
それが何なのかは一目では分からなかったが、見たことはあった。一年くらい前にやった刑事ドラマの現場だ。「……ボイスレコーダーですか?」
「そうだ。二か月前、俺があいつと会った時の会話が入っている」
「え?」
彼はボイスレコーダーを右手の掌でぎゅっと握った。「東京に戻ってきた時、嫌な予感がしてたから念のために持ってたんだよ。肌身離さずにな」
さっきまでおびえた様子を見せていた彼だったが、今の彼は勝ち誇ったように興奮した表情だった。「そうしたら案の定あいつに会った。だから俺はこいつのスイッチを入れ、やつの車に乗り込んだってわけさ」
車? と疑問を感じたが、一国の首相が一般人と秘密裏に喋るならそこが一番だとすぐに気付くことができた。
「ここには確かにあいつの憎い声が入っていた。勝ったと思ったよ。でも、問題はこいつをどうするか、だ」
「警察に持って行くわけにもいかないでしょうね」
「そうだ。俺はしばらくそれを考えていた。あいつが認知症の老人を次々と殺戮している間にな。その件についてもここに、」彼は左手でボイスレコーダーを指差した。「入っている。決定的な証拠だよ。でも肝心の告発方法が思い浮かばない。ただ単にネットに流しても誰も信じはしない。あそこにある情報はほぼ嘘だからだ。信憑性に欠ける。ただ単にマスコミに流しても「声が似ている人を使っただけだ」と無視されるだろう。声紋鑑定でもすれば一発だろうが誰もそこまではしない。自分の国の首相がそんな本性を持っていたなんて信じたくもないだろうしな」
男はそこで呼吸を置いた。その隙間を埋めるように鳴こうとする鳥はいなかった。
「だから俺はこの国の国民をごく一部でもいい、興味を引き付ける必要があるんだ。そして信じざるを得ない状況を作る。その方法を思いついたのが一週間前だ」
「それが落書き、ですか?」
「そうだ」
俺は隣の置いてある紙袋を覗き込んだ。中にはひとつ、スプレー缶が入っているだけ。
そのスプレー缶の持ち主である男は俺が紙袋を覗き込んだことに気付いていない様子だった。「連続して告発文のようなメッセージが町中に現れたら気になるだろ。本音を言えばあんな狭い路地じゃなくて広い道路に書きたかったんだが、途中で捕まってしまったら終わりだからな。まあ、俺の思い通りあのメッセージはそれなりに話題になっている」
改めてあの字体が頭の中に浮かんだ。想像の中でさえあの文章から引き込まれるような力強いエネルギーを感じることができる。ヒーローの仮面を被った悪魔の仮面を剥がすには十分なエネルギーだと俺は思った。もちろんその悪魔を生で見たわけではないので「絶対」と胸を張っては言えないのだが。
「あのメッセージで皆の興味を寄せ、明日の朝「認知症殺人を始めたのは酒井首相だ」と最後のメッセージを書き、思いつくマスコミ全てにファックスで同じ内容の文章を送りつける。詳しくは動画サイトを見ろ、とURLを添付して。インターネットの動画サイトという動画サイトにもこのボイスレコーダーの音を流す。そして最後に俺は落書き犯として自首する」
「自首するんですか?」
「ああ、それが最後の一手だ。それがないと俺の本気度を取り上げてはくれない。声紋鑑定だってしてくれないだろう。それに、警察からもこの録音を発表させたら更に信憑性が上がるだろう。信憑性のないネットに信憑性を運ぶんだ……!」
「……なるほど」そうか、この男は捕まるのか。
一匹のスズメが道路の真ん中で死んでいるような小さな寂しさが胸いっぱいに広がった。
「あいつにいくら権力があると言っても、マスコミ全てと確かな信憑性を含んだネット情報をブロックすることはできない。情報を知った者を殺すなりいたぶるなりしようと思ってもその人数が多すぎてさすがのあいつにも全てに対処することはできないだろう……!」
彼は息が切れそうなくらい早口で自分の興奮を表現した。「そして俺は安全が保障される留置所や刑務所に入るんだ……!」
「あっ」なるほど。
道路に倒れていたスズメが生き返って飛んで行くような安心感を覚えた。
「完璧な作戦だろ。この一週間いくら考えても非のうちどころなんて俺には見つけられなかった……! あえて言えば手段が犯罪だということだが、合法な手段での告発なんて全部握り潰されるんだから仕方ない!」
落書きと盗聴。確かに犯罪だ。裁判所では証拠にならない。でも真実を知らしめる証拠にはなる。
「落書き、つまり建造物損壊罪は最高五年の罪だ。俺は七か所に書くんだからいくらなんでも軽い罪で終わるわけはない。しかも俺は盗聴までしている。俺が刑務所から出た頃にはあいつの権力は全て剥奪されているはずだ! ハハハ、考えるだけでぞくぞくするよ……! あの怪物を俺が殺すんだ……!」
彼の表情と喋り方には鬼気迫るものがあった。あのメッセージだけでなくこの男自身にも俺は圧倒されていた。
しかし、それが本当に実現されればビッグニュースなんて言葉では表せないくらいのビッグニュースになるだろう。その世界で何が起こるかは分からないが、きっと今まで誰も見たことがない景色が見えるのだろう。しかもそのニュースの麓に俺がいると思うとこっちまでゾクゾクしてきた。
思わず俺は師の言葉を口にしていた。「世の中うまくいかないがうまく行き過ぎないこともない。お前の思うようには行かないかもしれない。でも結果的にそれがお前の思うように転じるかもしれない」
「なんだ、それ」
「俺の師の言葉です」
「そうか。いい言葉だな」男は空を見上げる。オゾンの青色よりももっと先の宇宙の果てまで見ているんじゃないかというくらい真っすぐ空を見つめている。「俺の人生も紆余曲折色々あったが、そのおかげで結果的にあの怪物を潰すことができるんだ。捨てたもんじゃない」
一通り空を眺めると彼は立ち上がり、俺の前に立った。そして右手に持った黒いボイスレコーダーを真っすぐ俺に差し出してきた。
「これはお前にやる」
「え? でも……」一度そのボイスレコーダーを目に入れてから彼の瑞々しい黒目に視線を戻した。「これ、大事な証拠ですよね……?」
「大丈夫だ。これはバックアップ。俺はボイスレコーダーを二つ持っていて、あいつに会った時に二つとも作動させたんだ」
「……」それほどの覚悟を改めて思い知らされ、言葉が出なかった。
「こう見えて俺は石橋を叩いて渡るタイプなんだ。受け取れ。そして聞いてくれ。真実を」
「……」俺はゆっくりと彼の手の上に伸ばす。
「大丈夫だ。もうひとつは俺の股間に入っている」彼は自分の股間を指差し、ニカッと笑う。
「あ、そうですか」俺はそのボイスレコーダーを手に取った。彼の体に触れていたからだろうか、ほんのり温かい。
「実のところ、聞いてほしくないんだけどな」
「え?」
「俺のカッコ悪い声までたくさん入ってるから」そう言って彼はまた笑う。「でも、聞いてくれよ。理由は分からないが、お前ならば信じられる気がする。五十年生きてきた勘、かもな」
俺はボイスレコーダーをしばらく手の中で転がせ、ジーンズの右ポケットに入れた。「分かりました。聞きますよ。真実を、この耳で」
俺がそう言うと、彼は少年のように鼻の下を人差指の側面でこすった。「ありがとな」
「ところで、」俺も立ち上がった。俺の方が彼より身長が高いので少し見下すような形になる。「最後のメッセージはどこに書くんですか?」
ああ、と彼は頷き、小さく丸まった体をピシッと伸ばした。「それは言えないな。明日までのお楽しみだ」
ハハハ、と彼が笑うと俺もつられて笑っていた。確かに答えを先に聞いてしまっては面白くない。ドラマでもそのはずだ。結末は知らない方が面白い。
いや、でも結末を知らずに一本映画を見るグループと結末を知ってから一本映画を見るグループに分けてどちらの方がその映画に料金を多く払うかという実験をしてみると、後者の結末を知ってからの方がなんだかんだ払う金額が多かったという結果が出たのを何かの実験番組で見たことがある。……まあ、なんでもいいか。
俺は彼の覚悟を前にして、決めた。
「明日、あなたの思い描くことが起きたのを見計らって俺も警察に自首しないといけないですね」
俺の台詞を聞くと彼は「ん?」と顔をしかめた。「なんでだ?」
「犯罪者を目の前にして見逃がすのも犯罪ですからね。しかも盗聴の証拠まで貰っていますし。言ってみれば同罪ですよ、共犯」
「それは違うな。お前は犯罪者じゃない。ただの通りかかりだ。犯罪者とすれ違っただけだ。犯罪者とすれ違っただけで犯罪者になるのなら世の中の建物のほとんどは刑務所にしなければならなくなる」
「僕はそれなりに正義心の強い人ですから、自首はしますよ」
「いや、駄目だ」
「いや、」
「それでも!」彼は力強く俺の肩を掴んだ。そして深く呼吸をして、言った。「それでも自分を犯罪者だと言いたいんなら半分の『半』を使って『半罪者』と名乗れ。そしてこの流れの結末を見届けてからこっちに来い。いいな?」
「……」
彼の「いいな?」という言葉が、俺が俳優になることを後押しした父さんの言葉に重なった。
――これからのテレビを面白くするのはお前だ。最後まで頑張れよ。いいな?
そういえば父さんも彼くらいの歳だ。よく見れば彼の独特の雰囲気だってよく似ている。
こんな感覚は初めてだった。父さんと誰かを重ね合わせるなんて。
俺は「はい!」と近所迷惑なくらいのでかい声で答えた。散歩をしている女性がビクッと体を震わせて耳を両手で塞いだのが横目で見えた。男は驚いた表情など一切見せずにゆっくり紙袋を手に取った。そのまま彼は恥ずかしそうに頭を掻き、小さな声で呟いた。
「俺の正義を、見届けてくれ。心の友よ」
その言葉に涙を流したのは俺ではなく彼自身だった。
個人的に好きな表現技法を取り入れたのですが、どれくらいの人が気付いたのでしょうか。一話目から一気に読んだ人でない限り気付いていないかな。
あえて詳しくは語らないでおきましょうかね。