Atonement
「二学期に入って最初に俺が頼まれたのはパンツ一丁でスクランブル交差点を歩いて渡ることだった。さもなければ父親が中学生に何度も買春したという噂を流すってさ。あいつのことだから証拠だって捏造するだろう。俺は三年間あいつに従うしかなかった……!」
男はうつむき、悔しそうに話した。「俺が車運転してる時にあいつが横断歩道歩いていたら絶対轢いてやる。轢き飛ばした後に車で踏んづけて、その後に警察が来るまで延々と殴ってやる」
「……」
きっとこの言葉も彼が首相に言われたりさせられたりした何かなのだろう。
それにしてもこの男が首相の行っていた、いわゆるエリート校に通っていたとは。全くそうは見えない。まるで信じられないけど、生まれて初めて見た顔がブサイクな看護師だったというのを覚えている点を考えると、一気に信憑性が増す。『天才には生まれた時の記憶がある』とよく言われるし。
「あの酒井首相がそんな人間だったとは……」
俺がそう呟くと、彼は驚いたように俺を見た。「お前、信じるてくれるのか……?」
「え? まあ信じたくはないですけど、嘘をついてるようには見えなかったので……信じざるを得ないというか、まあ、信じます」
すると、男が飛び跳ねるように抱きついてきた。
「心の友よ!」
頬を頬が当たり、じゃりじゃりする。痛い。苦しい。気持ち悪い。しかも重い。ドラマで女優を持ちあげたことはあるが男は初めてだった。
「俺のリサイタルに招待してやる!」
「離れてください! 周囲の視線が痛いので離れて!」
犬の散歩をしている三十代らしき女性が口を半開きにしてこちらを見ていた。よく見ると犬も口を半開きにして目を細めていた。
「犬は飼い主に似ると言いますけど、よく似てますね!」何を思ったのか俺は彼女に声をかけていた。
すると、この男もその女性と犬に目を向けた。「ホントだ! よく似てるぜ! まるでザビエルと俺の上司のハゲ親父だ! ハハハ!」
抱き合っている男たちにそんなことを言われて不快に思わないわけがない。今にも吐きそうな顔をして一人と一匹は小走りで去っていった。歩調を合わせて。
もしあの人に俺が司馬孝明だとばれていたらどうしよう、と脳裏によぎった。そうなったらもちろん、「司馬孝明、ゲイ疑惑!」という記事が出るのだろう。
それはまずい。「早く離れてください」
「そんなことよりもお前、信じてくれるのか?」彼は俺の上に馬乗りになっている。
「……はい」
分かったから離れてください、と言う前にもう一度抱きしめてきた。
「ありがとう! ありがとう! お前が初めてだよ! そもそも酒井の昔話したのも初めてだけどな! ハハハ! 意外に行けるじゃねえか!」
「分かった分かった、分かったから離れてくれませんか」
「おお、離れる離れる。悪かったな」と言ってベンチの上から彼は降りてくれた。
クラスメイトに八人オカマがいたって言ってたけどあんた九人目じゃないのか。
でも、それ以上に気になることがあった。
酒井首相が中学生の時にターゲットにされていたという人物は中学卒業と同時に逃げたと言っていたが、「高校を卒業してからはどうしたんですか?」
「逃げた」また彼は暗い表情に戻った。「遠くに行ったよ。大学は。就職だってそっちでした」
その間にまた誰かがターゲットにされたのだろうか。それを訊く勇気はなかった。
「向こうでずっと頑張ってたんだよ。あいつのことなんか忘れて。もしかしたらあいつに監視されていたかもしれないから余計なことは喋らずに、あいつの存在そのものを忘れようとして。普通の人間として働いてたんだ」
『働いてたんだ』。
過去形だった。それはそうだ。今、この男は遠くではなく政治の中心、東京にいるんだから。
「あいつが政治家になったのも総理大臣に上り詰めたのもいろんな問題を解決させたのも全部俺は無視していた。他に犠牲者がいたとしても気にしないことにした。俺はもう関係ないんだ、ってな。俺は俺の人生を手に入れたんだからあいつなんか関係ない。でも、二か月前だ。東京に異動命令が出た」
「……」
「表向きは昇進だったが、嫌な予感がしたよ。いや、昇進だからこそ嫌な予感がしたのかもしれない。まさかあいつが関与してるんじゃないだろうな、って。あいつの力を持ってすれば俺を異動させることくらい小指一本できるだろう。それに、」男は明るい過去でも懐かしむかのように猫背のまま空を見上げた。「あいつが活躍する姿を見てあいつも改心したんじゃないか、と心のどこかでは思ってたんだ。あいつの残忍な本性を三年間見続けた俺でさえそんな微かな希望を抱くぐらいあいつは立派になったんだ。信者ができても不思議じゃない。でも、異動して一週間くらいした時だ」
彼が作った間に、俺は思わず息を飲んでしまった。
「あいつに会った」
その瞬間、全ての音がなくなった気がした。その辺を歩く人たちの足音も、鳥の羽ばたく音も、車が颯爽と走る騒音も、全てが。まるで突然現れた怪物に目を引き付けられるみたいに。
「酒井は、変わっていなかった……!」
その言葉でまた世界が何事もなかったように動き始めた。「俺の微かな希望も空しく、何も変わってなかった。いつもメディアに見せる姿は演技で、裏では……!」
男の声は今にも泣きそうな声だった。五十の男のそんな姿は今まで現実でも演技の世界でも出会ったことがなく、どうしたらいいのか俺には分からなかった。
「裏では、何人もの人間を壊していたんだ……」彼の腕は震えていた。まるで自分のせいで「人間が壊れる」という現象が起こっているかのように。
いや、その表現はあいにく間違っていないかもしれない。ターゲットになっていた彼が酒井の前から消えることさえなければ何人かは壊れずに済んだかもしれない、と彼は思って、だからこそこんなにも罪悪感で悔んでいるのかもしれない。
ベストな慰めの言葉なんて当然見つからなかった。でも、何か声をかけるしか選択肢はなかった。
「あなたが罪悪感を感じることはないですよ。悪いのは酒井首相です」
咄嗟に出た言葉がそれだった。悪くはない、と思ったが彼は悲喜こもごも複雑そうな表情だった。「……確かにそうだな、ありがとよ。でもな、認知症の件は俺のせいなんだ」
「え?」
男はひとつ息を吐いた。そして話し続ける。「俺がいなければあんな事件は起きなかった。六千人もの命が失われることはなかった。いや、認知症以外の障害の人だって被害者なんだから一万人以上だ。被害者が殺されて心を痛めた人はその数倍だ。俺さえいなければ……」
また時間がなくなったような不思議な衝撃があった。風に飛ばされて宙を舞っている枯れ葉も絵のように止まって見える。
どうして「俺さえいなければ」なのだろうか。
酒井首相に「殺されたくなければ僕が大量の命を奪うのを見ていてね」とでも脅されたのだろうか。
何にしろ、俺にはこれ以上深いことを訊く勇気はなかった。
「俺が落書きしてるのは、ある意味の罪滅ぼしだ」
「罪滅ぼし?」
「ああ」
彼は震える体を必死に押さえつけて気丈を保とうとしているようだった。「俺が全てを終わらせる。酒井を殺してやる。肉体的に殺す前に、社会的に殺してやる」