Slaughter
もう随分日が昇って明るくなっていた。随分見かける人の数も増えてきたように思える。中には男がふたり妙な距離感でベンチに座っているのに一瞥くれる通行人もいればそもそも気付いている様子のない者だっている。まさか噂の落書き犯と海外撮影を終えたばかりの俳優だとは誰も思ってはいないだろう。
「認知症の高齢者殺人の火付け役が酒井首相? とてもそんなふうには見えませんけど」
男の口調は神妙で、何の根拠もないことを吹きかけるような口調ではなかったが俺にはどうも信じられなかった。
酒井首相は実に男らしく堂々とした人間で、日本人男性が尊敬する日本人男性ランキングで人気メジャーリーガーについで二位に輝く人物だ。日本の未来と国民の今を見通す真っすぐな目はハヤブサをも落とすとまで噂されるほどの。
「それがあいつの狙いなんだよ」
「狙いって?」
例の犯人は「国のために」と声明しているので、犯人が国を操る政治家だとしても特別不思議ではないがその犯人が酒井首相だと考えるのはどうしても納得はできない。
「殺人鬼の正体が自分だなんて見えないように振舞うのがあいつの狙いだよ」
「どういう意味ですか? まるで政治家が殺人鬼になったんじゃなくて殺人鬼が政治家になったみたいな言い方……ですけど」
「その通りだ」
「え?」
俺の反応を聞き、少し間を置いて男は言った。「昔からあいつの趣味は残忍な行為、犯罪だよ」
「……」
「あいつは堂々と犯罪をするために首相になり、ヒーローになったんだ」
「そんなバカな」笑い飛ばさざるを得なかった。こんなバカな話を聞いて信じる者などこの日本にはひとりもいないだろう。
「それだよ!」
「え?」
男は立ち上がって俺の前に立った。
「それがあいつの狙いなんだよ! 誰かが「酒井首相に殺されかけた」と訴えても今のお前みたいに「そんなバカな」と笑われて誰にも相手にされない社会を作るのがあいつの狙いなんだよ! あいつはただの一回も国のことなんて本気で考えたことはない! 自分が好き放題犯罪できる社会を作るために国のことを考えている演技をしているだけなんだ!」
彼の主張は力強かった。その言葉に足を止める人もいたが、「頭のおかしなやつが意味の分からないことをほざいている」くらいにしか認識せずに皆そそくさと立ち去っていった。
「……分かった、落ち着け」
そんな中で彼の本気度がたった五十パーセントだけでも伝わっているのはおそらく彼の声が聞こえている人の中では俺だけだった。
彼はどうにもならない感情を空気にぶつけ、それでもどうにもならないのかケツを投げ下ろすようにベンチに座った。
「あいつの父親が政治家なのは知ってるだろ」
「何かの大臣だったとか」
俺は政治についてあまり詳しくないのでなんの大臣だったかは知らない。
「だからあの男、酒井峰秋は何をしても親父の権力を使って握り潰すことができた。俺があいつと出会ったのは高校の時だが、その時には既に残忍な犯罪行為を繰り返していた。小学生の時から一日一人ずつ精神を壊し続けていたと言われても、俺は驚かない……!」
彼は悔しさをすり潰すように歯を食いしばり、皮膚を裂くように脚の上で拳を握った。
その並々ならぬ様子に俺は言葉を詰まらせるしかできなかった。
「俺は、何度もあいつの被害に遭ってるんだ……!」
* * * * * *
俺があいつに出会ったのは高校一年生の時だ。入学式の時からあいつは他の誰よりも印象に残っていた。彼の周りは少し明るく輝いて見えたし、ルックスだってよかった。そして何より不思議な力強い大物オーラがあったのだ。
その上、彼はクラス委員長に自ら名乗り出た。この時はまさかそれがクラスメイトを見下す悦びのためだったなどとは思いもしなかった。
彼は何においても優れていた。この高校はかなり偏差値が高いいわゆるエリート校だったが、彼は必ずテストでは百点かそれに限りなく近い点数を取り、いつも学年トップの成績を誇っていた。背も決して低くはなく、姿勢だってよかったし、運動神経だってよかった。サッカー部に入り、一年生ながらレギュラーを取ったりもした。クラスで一番最初に彼女ができたのも彼だったかもしれない。
とにかく俺みたいな凡人とはまるで別格だということは猿が見ても明らかだった。
特に関わり合うこともないだろう、と同じクラスながら俺は思っていた。現に最初に彼と関わることになったのは七月の後半、終業式の日だった。
「キミ、なんかいいよね」
終業式が終わり、学校近くではなく俺の家からの最寄り駅の中のコンビニで雑誌を立ち読みしていた時だった。
彼と使う駅が同じであることは知っていたが、こうして話をしたのは初めてだったので俺は緊張してしまった。「いいって……?」
緊張したのは彼の放つ強大なオーラのせいもあっただろう。まるで尊敬するJリーガーに友達と間違われて肩を叩かれたかのように心臓がバクバク高鳴った記憶もある。
「雰囲気だよ。そうだね、キミにした。一学期中ずっと誰をターゲットにするか考えてたんだけど、やっぱりキミがいいよ。断トツだ」
緊張して筋肉が硬くなりながらも俺は彼の変化に違和感を覚えていた。「そんな喋り方だっけ……、酒井」
彼の普段の喋り方はその顔と立場に似合っているもっと力強くて男っぽいものだったはずだ。
「確かに普段はこんな喋り方じゃないね。キミには素を出しているって捉えてもらっていいよ」
それは普段素を出さずに演技しているということなのか、と口が動くことはなかった。何か漠然とした恐怖を感じたのだ。いつもの彼とオーラも少し違う。いつもは白く輝いているのにこの時は黒く輝いていた。
「ちょっと、向こうで話そうよ。時間ある?」
時間は十分にあったが、俺は雑誌をもっと立ち読みしておきたかった。でも、彼の言葉には今までどんな大人と喋っても感じたことのなかった有無を言わせない重みがあった。
断ったら殺される――、そんなことが生存本能によぎったのだ。
「ああ……、分かった……」
駅のプラットホームに向かうことになった。この駅は利用客が少なく、特にこの時間は極端に閑散としている。俺が電車を降りた時もホームには一人か二人しか利用客がいなかった。
どうしてこんな人に聞かれたくない話をするのに適した場所に来なければならないのか、分からないようで分かっていた。
――一学期中ずっと誰をターゲットにするか考えてたんだけど、やっぱりキミがいいよ。断トツだ。
つまり俺は何かのターゲットにされたのだと。その正体が何なのかはさっぱり見当もつかないが。
逃げた方がいい気がする。今俺は酒井の後ろを歩いていてあいつからは死角だから走ればなんとかなるかもしれない……。
防衛本能が俺を内側から叩く。でも生存本能が「バカなことをするな」と防衛本能を殴り飛ばす。
「逃げよう、なんて考えない方がいいよ」
ドン、と強い衝撃を全身に、内からも外からも受け、心臓と足が止まった。
「……!」
クックックッ、と愉快そうな笑い声が耳の中で輪唱する。
夜の靄が晴れるように漠然とした恐怖が少しずつはっきりした恐怖に変わっていく。七月の蒸し暑さも忘れて体のあちこちが寒さに震えるようだった。
……こいつは本当に、あの酒井なのか?
酒井といえば俺のクラスの委員長だ。父親が政治家だからか、しっかりした性格でいつもクラスをまとめており、クラスメイトはもちろん、教師たちからも厚い信頼が寄せられている。女子にモテながら男子に憧れられる。酒井峰秋とはそんな存在だったはずだ。
でも今目の前にいるのはそんなリーダーシップの代名詞みたいな酒井峰秋ではなかった。
ひとりの、危険な犯罪者のような……。
「知ってるかもしれないけど、僕のお父さんは政治家なんだ」まるで電話でもしているかのように彼は俺の方なんか見ずに歩きながら言葉を発し、それから少し声を低くして言った。
「権力者だよ」
その一言に残っていた靄が一瞬で全て浄化された。そこにいたのは得体の知れない化け物だったのだ。
「……!」
そんな俺の反応を背中で感じたのか、酒井はいっそう愉快そうに笑った。