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Relation

 

「で、『アノジケンノシンソウ』ってなんですか」

 既に耳が痛かった。朝っぱらからこのよく喋る男はきつい。

「興味あるのか?」

「あるから訊いているんです」

「そうかそうか」男は手を叩いて喜び始めた。「うまいこと俺の掌の上に転がされてるんだな、お前は。それはよかったよかった」

「……『アノジケンノシンソウ』ってなんですか」

「そうだな、お前はなんか信頼できそうだから話してやろうか」


 信頼できそう、と言われて嬉しいが、どこか悔しかった。「お願いします。そもそも本当に何かの事件の真相を知っているんですか」

「知ってるよ。証拠だってある」

「じゃあなんで警察とかに持って行かないんですか。わざわざ落書きなんてする必要ないと思いますが」

「駄目なんだよ」男は声のトーンを落とした。顔もいたって真面目な表情になった。

 その変化に思わず唾を飲んでしまう。


「それじゃあ、駄目なんだ」

「どうしてですか?」

「今の政治、どう思う?」

 また話を逸らされた、と思ったが、彼の眼差しは変わらず真剣なままだった。政治関係の話なのだろうか。「……そうですね、俺が子供の時よりはずっといいと思いますよ。首相がしっかりしてますから」

「誰に訊いても「総理」とか「首相」とかが出てくるな」

「しっかりしてますからね。現に色々な問題を解決していますし」

「もしかしてお前は信者か?」

 信者とは首相を崇拝している人たちのことだ。「違いますよ。俺は普通の人です。政治の見方に関しては」


 俺がそう言うと彼は安心したように「ふう」と温かい息を吐いた。まだ十月だからか、目に見える色はついてなかったが見ただけでその息が温かいものだということは伝わってくる。「それはよかった。信者が相手じゃ面倒だからな」

「面倒?」熱い物を触ったら手を離すのと同じ原理で反射的に眉間にしわが寄った。「『アノジケン』って首相関係ですか? あの人何も事件なんて起こしてないと思いますけど」

 少なくとも最近の政治関係のスキャンダルは「一にお金、二にお金。三、四もお金で、五もお金」でおなじみの野党の賽銭箱党首の脱税くらいしか俺は知らない。それともアメリカに行っていた二か月の間のことだろうか。


「いいか、政治家が起こす事件が政治関係だとは限らないんだよ」

「はい?」

「あいつらだって人間だ」

「ああ、なるほど」政治家だって時には殺人を犯すかもしれないということか。「権力を使って真実を握り潰すというのはよくドラマとかでありますね。一回演じたことありますよ。被害者役ですけど」

 さすが俳優、と彼は頷いた。「俺も一度くらいそんな華やかな世界に行ってみたいよ。俺なんか五十にもなってスプレー缶壁に向けてるんだぞ。暗くて暗くてたまらない道だ。狭い膣を通ってこの世に出て最初に見た顔がブッサイクな看護師だった時から薄々運命に気付いてたけどな、ハッハッハッ」

「とりあえずその看護師さんに謝ってきてください」

「ブスをブスと言って何が悪い」

「悪いですよ」

「偉い子に「偉いねえ」って言ってもいいのに魚に「お前相変わらず目離れてるなあ」って言ってもいいのにどうしてブスに「お前ブスだなあ」と言ったら悪いんだ」

「失礼だからです」

「知らない俳優に「お前誰だ」って言ってもいいだろ」

「警察まで引きずって連行しますよ」

「出たな「司馬脅し」」

「なに気に入ってるんですか」

「警察に連れて行ってみろ。お前には事件の真相教えないからな」

「出たな「司馬脅し」返し」

「それにな、俺がやろうとしてるのは正義の告発だ。正義だよ正義。日本一の正義だ。この世で一番正義の心を持っているのはウルトラマンでも仮面ライダーでもはたまたアンパンマンでもない。この俺だ!」

「次から次へとよくそんなくだらない冗談が出てきますね」

「それだけが俺の取り柄だ。取り柄といえばこの前買ったばかりの包丁の柄が取れちゃてさ、超ウケル」

「付け直してください」


 そういえばまだ「『アノジケンノシンソウ』ってなんですか」の答えを聞いてなかった。なんでひとつ質問を答えるだけでこんなに時間がかかっているのだろうか。「ところでそろそろ――」

「『ところで』は英語で『by the way』だったよな」

 また逸らされた。「ですが何か?」

「『by the way』のどこに『ところで』の要素があるんだろうな。昔からずっと疑問だったんだよ。そんなことより『そろそろ』は英語でなんだっけ?」

「『by now』とかじゃないですか?」

 すると、男はスプレー缶を足元に置いてある紙袋に入れて右手で紙袋を持ちあげた。「じゃあ『ところでそろそろ』は『by the way by now』だな。『by』が二つで『バイバイ』。ということでさようなら!」

「させませんよ」

「そんな固いこと言うなよ。誰かに目撃でもされてみろ。お前を共犯に仕立て上げてやるからな」

「残念ながら俺には昨日の晩まで海外にいたという鉄壁のアリバイがあります」

「まじかよ。その話詳しく聞かせてくれよ。向こうの公園で」

「絶対に話しません」

「なんだよ、それくらいいいじゃねえか。撮影か?」

「撮影です。映画の」

「じゃあそれ見てやるから向こうに行こうぜ」

「……」


 改めて近くから壁に書かれたメッセージを見ると思わず息を飲んでしまった。自分よりも大きなその黒い文字はある種の芸術のようだった。まるでパブロ・ピカソの『ゲルニカ』だ。

 また、師の演技を初めて見た時にも似ている気がする。でもエネルギーのベクトルは真逆かもしれない。師の演技とこのメッセージを足したら綺麗な「0」になりそうだ。






 結局ふたりで近くの公園に向かうことになった。彼はその道中で中学生の時に好きになった女の子が付き合っていたオカマがレスリングでオリンピックに出場したという話をしてくれた。「何が嫌であんな気持ち悪いゲイに対して俺が敗北感を味わわなければならないんだよ」

 こちらこそ何が嫌でこの小汚い猫背の中年と一緒に歩かなければならないのか。まだ時間が早いので車や人通りは少ないが、ひどく屈辱的だった。

 もしかしたらマスコミがどこかで写真でも撮っているかもしれない。「司馬孝明熱愛発覚! 相手は小汚い中年親父! 司馬孝明はゲイなのか?」とかそんな記事でも出るかもしれない。その後何かの記者会見で「司馬さん、ずばりあなたはゲイなんですか!」とマイクを向けられるだろう。そうしたら出演のオファーにも偏りが出てしまうかもしれない。


 ああ、また職業病が出てしまった。

 そもそも俺はどうして犯罪者に敬語を使っているのだろうか。


「まあ、近藤は結局オリンピックで大した成績取れなかったらしいが。ざまあみろ」

 その「近藤」という名前を聞いてピンと来た。「ああ、そういえばいたなあ。ゲイ疑惑があったレスリング選手。今どうしてるんだろ」

「裏社会だよ」

 そんなバカな、ゲイでもオリンピック選手だぞ、と反論したが彼は「別に何でもいいだろ」とその件についてはこれ以上触れたがろうとはしなかった。

 自分から持ち出してきた話のくせに。

 でも彼の暗い表情を見て「これ以上触れるのはやめよう」とは思った。


 俺たちは誰もいない公園もベンチに座った。男が右端で、俺が左端と間隔を開けて。その間には男の紙袋が置かれた。これくらいの間隔がないと気持ちが悪い。

「さあ、何の話だっけ」とぼけているのか老化なのか分からないが男はへへっと笑った。

「……あなたの落書きの『アノジケンノシンソウ』ってやつです」

「俺は酒井と高校からの知り合いなんだ」

 急になんだ、と思ったが酒井という名前には聞き覚えがあった。「酒井? 首相の?」

 確かにこの人も五十歳くらいだけどそんなわけですよね。スプレー缶持ち歩いている小汚い男と信者がいるほどの首相が知り合いなわけ――

「ああ、そうだ。首相の酒井だ」

「え?」


 カラスが一匹鳴いた。木の麓で休んでいる鳩が数匹振り向いて電柱の上のカラスを見上げ、逆方向に首を揺らしながら小走りして逃げていった。


「あいつは高校の同級生だ」強い口調で、言った。

「あ、そうなんですか。誇れますね。同級生にオリンピック選手と首相がいるなんて」

 政治家を父に持つ首相と同級生と言うことはこの人もそれなりに教養があったりお金を持っていたりするのだろうか。

「何が誇れるもんか。ゲイと変人じゃねえか」

「変人? 首相が?」

 酒井首相といえばいつも堂々として毅然なイメージだけど……。

「最近認知症の老人が大量に殺されているだろ?」

「そうですね。ひどいですよね。でも、それが?」

 彼は誰もいないのを確認するように辺りを見回した。

「まさか、首相が犯人だとか言わないですよね」

「ああ、そうだ。あいつだ」

「え?」


 カラスが翼を広げて飛んだ。テクテクと逃げている鳩たちはその音に反応して同じように飛んで行った。カラスは全く別の方向に飛んで行ったのに。


「マスコミに犯行声明を送りつけて認知症の老人を最初に殺したのは、酒井峰秋だ」

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