Family
「世の中うまくいかないがうまく行き過ぎないこともない。お前の思うようには行かないかもしれない。でも結果的にそれがお前の思うように転じるかもしれない」
師がいつか言っていた言葉を俺は口に出した。俺はこの言葉をとても気に入っている。
その言葉には晴れた日の透き通った一筋の風がふと宙に舞う青葉をかすめ、ふわっともう一段高く宙に舞い上がらせるような美しさがあった。
結局何が必ずしも正しくて何が必ずしも間違っている、なんてことはひとつもないという真理を突いているように。
「男はロングヘアとショートヘア、結局どっちが好きなの?」というような二択を問う正解が欲しい女性(女性には限らないが)を人生で何度か見たことがあるけど、その問いの正解は「ロングの方が多数派」ではなく「人による」だと師の言葉は爽快に表現しているようにも思えた。
何か重要なことを忘れているような、と思っていたけど、それは意外にもすぐに分かった。あの人以外誰にも連絡をしていなかったのだ。友達にも、先輩にも、両親にも。だから俺は友達と先輩全員にメールを敬語で送った。俺は向こうへ発つ前に全員に「アメリカに撮影で行ってきま~す」とメールで一斉送信したので、今回も「帰国しました P.S 返信しなくてOK」と一斉送信した。皆からメールが返って来て「どうだった?」と会話になるとうっとうしいし、何よりもう寝たいからだ。
その後、俺は実家に電話した。あの二人のことだからもう寝ているだろうけど、とてつもなく声を聞きたいと思ったのだ。
トゥルルルルルルルル。……胸に動悸がする。まるで遠距離恋愛の恋人に会いに行くかのようだ。
トゥルルルルルルルル。……俺はマザコンかファザコンかもな。
トゥルルルルルルルル。……やっぱり寝てるのかな。
トゥルルルルルルルル。……
トゥルルルルルルルル。……また明日しようかな。
と寂しげに電話を耳から離した。何だろうな、この気持ち。向こうに発つときはメールで十分だと心なしに思っていたのに今は声を聞きたくてしょうがない。
トゥル、プチッ、
〈ヒロ、かい?〉
母の温かい声で俺の愛称がこの冷たい機械から聞こえた。電話を反射的に耳に戻し、「そう、俺。迷惑だった?」
〈迷惑なことないさ。帰国してきたの?〉
「帰国したから電話ができるんだよ」帰国しなくてもできるけど、と自然に笑みが零れた。
母の温もりは電話を通してでもよく伝わってきた。何か子供に戻った気分だ。毛布に包まれたみたいに気持ちがいい。日本に戻ってきたという確かな感覚がようやく感じられた。
眠そうな母としばらく向こうでの出来事を話していると、全く眠くなさそうな父が電話に出てきた。〈ヒロか! ……元気か?〉
「お父さんほどじゃないだろうけどね」と一人部屋で俺は笑顔になった。
〈聞いてくれよ! 最近テレビが面白くなったなあと思ったら俺が見てるテレビ全部ヒロが出てたんだ! ハハハ!〉
「面白い冗談だ。ありがとう。そう言ってもらったらやりがいがあるよ」
十分ほど俺は楽園に行った気分になったが、電話を切るといつもの狭い一人部屋に戻っていた。ただ、悲しい気分は一滴も残されていない。むしろ爽快だった。
一斉メールの追伸を「返信しなくてOK」じゃなくて「返信しないでください」にすべきだったなと思ったのはそれから十分くらいしてからだったが、現に返信は来ていないので結果オーライだ。
でもその十分後、一通だけメールが返ってきた。弁護士の友達だ。
『返信しなくてOKってことは返信してもいいんだよね。お疲れ様。期待してるよ。 P.S 丁度今から寝るところだから返信しないでください(笑)』
彼は俺が尊敬する数少ない友達のひとりだ。どうして尊敬するのかというのは、司法試験はかなり難しくて何十回も試験を受けているという人もいる中、彼は大学を出て、初めて試験を受けて通ったからだ。しかも成績上位で。それはかなり稀なケースらしく、弁護士たちの腰をだるま落としのように抜かしたという。
でも俺は驚かなかった。信じていたからだ。
学校の成績がよかったのはもちろん、彼は中学の時から弁護士を目指して六法全書を読んでいたらしいし、「一日三時間予習復習しながら一日一時間法律について勉強」なんて怪物みたいな努力を高校の時から行っていたらしい。
これで落ちるなら他の誰が受かるんだ、と試験前に俺はサナギみたいに緊張していた彼を励ましたりもした。「お前には司法試験くらい自分の足の爪を舐めるより簡単だろ」「お前ならできるさ。なんと言っても、俺の親友なんだから」と父の言葉を引用したりもした。
そして俺は彼から合格の知らせを聞いたときに何故かおめでとうより先に「俺が裁判にかけられたら弁護してくれよ」と言った。なんでこんなことを言ったのか自分でもよく分からないが、彼が「お、おう」と困惑したのはよく覚えている。
今、歯磨き粉のチューブから歯磨き粉を歯ブラシに向かってゆっくり出そうとしている。ちょっとずつ、ちょっとずつ出している。頭はまだ出てこない。俺がこうして慎重な姿勢をして構えているのは向こうのホテルの歯磨き粉のせいだ。そいつは俺がこの家でいつもしているのと同じ力で摘まむと思いっきり出やがった。一メートルくらい飛ぶんじゃないかというくらい勢いよく飛んで俺の寝巻に使っている純白のTシャツを薄ピンクに汚した。同じような色だからよかったといえ、こいつのべとべとを取るにはそれなりに手間がかかったのだ。手間と言っても大したことではないけど、撮影で疲れた俺には大きな手間だった。早く寝たいのにこいつのせいで……。しかも次の日の撮影では幾度と台詞が飛んだ。そんな調子の悪い日はここ最近で初めてだった。高々歯磨き粉のせいにするのもなんだけど、こいつは嫌なジンクスをつくった。
寝る前に服を汚すと翌日よからぬことが起きる。
俺はそれ以来歯磨き粉を慎重に出すようになった。
ようやくニュッとMY歯磨き粉が姿を現した。無駄に長い戦いだった気がする。俺の歯磨き粉は三色のやつだ。向こうのは薄ピンク一色という憂いを感じさせるものだった。だからか、かなり懐かしく感じられる。やっぱりこれだよな、これ。