Situation
今、俺は自宅のマンションの前にいる。ひとり暮らしを始めてまだ引っ越しはしていない。この部屋は結構狭く、人気の出ている俳優の家とは到底思えないだろう。
それにしても懐かしい気分だ。今の今まで俺は映画の撮影でアメリカに行っていた。結構過酷な撮影で、疲れている上に撮影は一日十二時間弱が毎日、それが二か月続いたので疲労はピッチに達している。唯一撮影後に二日の観光が認められたが俺は観光というものがあまり好きでなく、先輩たちに強制的に連れて行かれる形になったので一層疲れ、飛行機内で起きていた時間は十分ほどだった。
その映画で俺は初めて主演を華やかに演じた。それが決まった時は今までにないような喜びがあり、それはまるで世界を征服してしまったかのような。
部屋に着いた。何故か動悸がする。
ボストンバッグから鍵を取り出してドアノブに刺し、回した。これすらも懐かしい。向こうの鍵はカードだったのでこの金属の感触も日本を発って以来だった。ドアを開けると、そこに広がっていた空間はどこか暗く感じた。玄関の電気を点けると、やはりなんとなく暗かった。そして鼻に微かに何かが刺さった。「……埃臭いな」
とは言っても避けることが出来ないので仕方なく息を止めてボストンバッグを置き、窓を開けた。日本の十月の夜風はうっとりするほど気持ちがいい。これで換気すれば随分ましになるだろう。
ボストンバッグから私服と携帯を取り出した。俺はほとんど携帯の電源を切っていたが、常に身には着けていた。映画は洋画ではなく邦画で、外国人キャストは二人しかいなかったので何故いちいち海外に行くのかと海を渡るまでは思っていたけど、行ったらすぐ分かった。これは日本では出来ないな、と。日本ではこれの良さが半分も生かされないな、と。
スマホは共演する俳優たちとメールアドレスなどを交換するのに使った。他にこいつは電力しか使っていない。
この部屋は埃まみれでも落ち着く。俺にはやっぱりこれくらいが合うな。向こうのは広すぎたし綺麗すぎたから緊張が取れるのに時間がかかった。周りもほとんどは先輩に属する上に、共演者やスタッフ以外みんな英語を話すし、更にプライベートでも落ち着けないのだから俺は鬱になりかけた。
一応帰国したと俺の師に報告すべきだと思い、久しぶりにメールを打った。彼の声を聞いてみたいとも思ったがきっと忙しいだろうなと思い、電話ではなくメールにしたのだ。
なんとなくメールは打ちづらく、また、何を書けばいいのか分からずに文章がうまくまとまらなかったので三行程度の短い報告なのに打つのに三分もかかってしまった。こうして日本語を書くこと自体久しぶりなせいもあるのかもしれない。
返事が返ってくるかもしれないけど疲れたからシャワーでも浴びるか。
俺はボストンバッグの中で窮屈に苦しんでいた服と着ている服をまとめて窮屈な洗濯機に入れた。
旅の後のシャワーは気持ちよかった。比喩とかそんな表現はいらない。とりあえず気持ちよかった。
部屋の空気は大分綺麗になってはいたがやはりまだ埃臭さが残る。ソファに座り、絶妙な曲線を描いた輪郭のテレビのチャンネルを握った。こんなものさえ懐かしく感じてしまうようになるとは数年前までは思いもしなかっただろう。
向こうではテレビを付けたことはあったがそれは最初だけで、後半一か月半くらいは一切のマスメディアを切り離した生活を送っていたので日本はともかくアメリカのニュースでさえもまともに知らなかった。
スマートフォンにメールは返信されてなかった。やはりまだ仕事なのだろうか。
テレビを点けると、NHKのニュースが映し出された。最後何見てたんだっけ、と考えつつ長い間海外に行ってたから日本が今どうなっているのかを知るには都合がいいなと思い、そのまま見ることにしたが、よく見るとそれは関東の地元ニュースだった。日本を知ることはできそうにないが、まあいい。何よりテレビに日本語があるのが新鮮だし。向こうでは当然全部英語だったのだから。
まず目に入ったのは東京で轢き逃げがあったというものだった。三十代男性がひとり、轢き逃げされたのだとか。遺体の近くに花が置いてあったらしい。東京ではここ数か月、現場に花が置かれている轢き逃げが相次いでいるのだ。
これはアメリカに旅立つ前から起こっていた。まだ捕まってないのか、と思わず溜息が漏れる。
現場に置かれる花の種類は捜査機密になっているのか、報道されてはいなかった。おそらく模倣犯を防ぐためだろう。
轢き逃げといえば、弁護士をしている親友と数か月前に会った時に話したことを思い出した。二人でテレビを見ていたらこの事件のニュースが流れていたんだ。
「轢き逃げの検挙率が百じゃないのは事実だけど轢き逃げの罪は馬鹿みたいに重いよね。まあ轢かれた方が信号無視でもしたのなら話は別だけど」
轢かれた方が信号無視だったなら逃げなくてもいいと思うけど、と答えた気がする。
次に報道されたのは「認知症の老人を殺害して逮捕される者が今日も出た」というものだった。「今日も」ということはしばらく続いているのだろうか。これについては初耳だからここ二か月以内のものだろう
その後、「確認されているだけで殺害された認知症の老人の数は6046人、逮捕者は
2034人となってしまいました」とアナウンスされると顎が外れたように口がポッカリ開いた。
大流行じゃないか。
どうやら二か月と少し前に警察や様々なメディアに「国のために認知症の歳寄りを殺しまくります」という犯行声明文が送られ、実際に数人殺されたらしい。どうやら「国のために」というのは少子高齢化の影響で年金受給者一人を支える労働者の割合が著しく減って労働者が苦しくなっているので、その割合を増やすためには単純に年金や社会保障を受けている高齢者を殺せばいいというものらしい。でもどうせなら頭のねじが飛んじゃって周りに迷惑をかけている認知症患者をターゲットにしちゃおう、ということで認知症患者が狙われているのだとか。
それについて「犯人の考えは許されない」という反対的な報道が過熱したが、逆に犯人の考えを支持する人も増えてしまい、大流行したらしい。実際にアクションを起こした人のほとんどは社会に不満を持つ若者やリストラに遭った中年だとか。主犯はまだ捕まっていないそうだ。
しかもタチの悪いことに「認知症じゃなくても医療保険を受けているけどほぼ回復不可能な重病患者も同じことだ」とか考えて病院を襲う人(看護師も数十人捕まっている)や精神障害者施設を襲う人も増えているだとか。中にはそのような障害を持つ人の家族が犯行を行うことも。そのような例も含めれば殺害された人はもっといるだろうし、逮捕者だってたくさんいるはずだ。
ひどい事件だ、と胸中を曇らせているうちに次の事件に移った。
東京で落書きがあったというものだった。いくら地元ニュースとはいえ、そんなものまでニュースにするのかとさえ感じたが、その理由はすぐに分かった。五日連続でスプレーグラフィティがあったのだ。それだけじゃない。普通のスプレーグラフィティと言えば若者がカッコつけたマークが塗られているというものがほとんどなイメージだけどこれは若者らしくない上に決してかっこよくもないものだった。
そのニュースで灰色の殺風景な団地がカメラに映されていた。今日落書きが発見された場所らしい。
事件でもない限りテレビカメラに移されることなんて絶対にないだろうというくらいの面白みのない風景の中、この犯人は奇妙なことを書いていた。「描いている」ではなく「書いている」だ。
『10/15ニ オレハ アノジケンノシンソウヲ バクロスル ノコリ2日』
十月十五日に 俺は あの事件の真相を 暴露する 残り二日。
今日は十月十三日だからその「事件の真相」とやらを明後日暴露するということだろう。
あの事件とは何なのか。真相とは何なのか。何故それを知っているのか。そもそもこれはただのいたずらではないのか。色々なことがネットだけでなくこうした固いニュース番組でも話題になっているらしい。
でも俺にはどうしてもただのいたずらには見えなかった。その字はスプレーなのにも関わらず筆圧が強く、どことなく禍々しい。テレビ画面越しなのにもかかわらず吸い込まれそうなほどに引き付けられる字体なのだ。俺は無意識にソファの角をぎゅっと握っていた。
だからこそNHKですらこの落書きを「ただの器物破損」ではなく「十月十五日に何が明らかになるのか」という視点で報道しているのかもしれない。
ただ、報道された時間は一分もなかったのでおそらく大物芸能人が引退するほどの大きな話題ではないらしい。「一部の人間が極端に注目している」ってところだろうか。アイドルの総選挙みたいに。
次にやっと全国のニュースが始まった。
野党の党首が脱税で逮捕されたというものだった。
ほお、あのバーコードが脱税か。
さしてその党首は「一にお金、二にお金。三、四もお金で、五もお金」というような典型的な政治家面をしていたので特に意外ではなかった。むしろあの悪人面でよく党首になれたもんだと揶揄され、「どうせ裏金だけであの地位に上り詰めたんだろう」とか「あの髪型はバーコードをモチーフにしてるんじゃない。神社の賽銭箱をモチーフにしてるんだ」という根も葉もない噂が立てられるくらいだったが、意外に的を射ていたのかもしれない。
その脱税と同時に話題になっていたのは与党の党首、つまり首相の酒井峰秋が一週間前に発言した内容だった。
野党の賽銭箱党首が日課のように「あの総理はどうして町を普通に歩くのか。危険だからやめなさいといつも言ってるんだがね」とマスコミの前で発言し、それをマスコミが総理に伝えると「大丈夫ですよ。あの人みたいに脱税でもしなければ」と笑顔で答えたとか。
当然野党の党首は「うちを虚言でおとしめようなんて最低の野郎だ。早く辞任すればいい」とキレ気味に否定したが、本当に脱税が発覚したのだ。
愉快な事件だ、と俺は思わず笑ってしまった。この首相は五十歳くらいで比較的若いし、本当に面白い。
父親も政治家だったから最初は「民意を反映することはできないだろう」と国民から距離を置かれていたが、首相になるとしっかり国民の生活に目を向け、修正できるところは半ば強引にでも修正し、しっかり民意を反映させていた。「年金を上げろ」とか「北欧を見習って社会保障しっかりしろ」とか予算的あるいは国民性的にどうしても無理な民意に関しては、どこがどう無理なのかをしっかりカメラの前で説明し、インターネットの動画サイトにも投稿したりした。時には生中継で国民の意見を聞いたり、時にはフリップを使って丁寧に説明したりして国民の支持を着実に掴んでいった。ある意味では際物な総理大臣だ。国民との距離を近づけすぎることを危惧する意見もあるが、「その役割は首相じゃない。野党だ」とざっくり切ったこともあった。
彼の支持率を大きく上げたことの極めつけは他の国に屈しない態度と実績だ。
「他人を嫌うことを国家がらみで推奨しているのは韓国と中国と北朝鮮だけだ。結局あの辺は似たり寄ったりだな」とか「韓国という国も、中国という国も、北朝鮮という国も、いい国だ。政府を仕切ってるのが小学生だってこと以外は」などと堂々罵ったり、竹島領有権問題については、独島(竹島)に関する記念日があるくらい独島好きな韓国に対して「早く領土問題を終わらせよう。お互いの国民のストレス値が上がって病人が増えるだけだ。だからお互い健康な社会をつくるために私は早くこの問題をすぐに片づけたい。そこでひとつ提案しよう。日本人はそんなに竹島が好きじゃない。そんなに欲しいなら竹島のひとつやふたつ、くれてやる」と譲歩した上で「その代わり独島の周りの海をくれ。日本は独島の周りの資源が欲しいんだ。この方法だったらお互い欲しい物が手に入って利害が一致するじゃないか。それとも両者とも一歩も譲らずに、人を殺した数で競うか?」と挑発的に発言し、実際には海全部を貰えたわけではないが問題を片づけた。
他にも何か政策をする時は国会で話し合ってすぐ始めるというだけでなく、「国民の皆様、今まで慣れ親しんだルールを私の一存で変えてしまい、迷惑をおかけしてしまうことを心からお詫びさせていただきます」とカメラの前で頭を下げ、「もしこの政策が失敗して皆さまに更なる迷惑をおかけしてしまった際には私は全財産をばらまき、切腹させていただきます」と今までの偉そうな政治家が一切見せなかったような誠意を見せたりもした。
そのようなことが多々あって、彼を「坂本龍馬以来のヒーローだ」と支持する人は多く、神とまで崇める「信者」と呼ばれる人たちまで現れている。役者の立場から見ても彼の立ち振る舞いや演説は息を飲むほど素晴らしいものだ。
そういえば師に「孝明は演説が似合いそうだな。その内そんな役が回るかもしれないから酒井首相を見習っておけよ」と言われたことがある。なので俺は何度か彼の演説で使う言葉や仕草などを研究したことがある。
「音楽記号のフォルテの強さを軸に、抑揚を付けながら一言一言はっきり話す。瞬きは極力少なくする。目は大きく開きすぎない。でも力強い眼力は必要だ。そして胸を張れ」といった具合に。
もちろん彼のそういった態度の大きさに危惧する者や「近いうちに酒井は独裁を生み出す」と主張する人もいるが、あまり多いとは言えない。信者の中には「あの人なら独裁でも構わない。いや、独裁すべきだ」と主張する人さえいるのだとか。
プライベートもしっかりしてそうだし特に悪い点はなさそういが、あえて弱点を挙げるとしたら結婚していないことだろうか。ルックスも適度にいいし、中身もしっかり伴っているのにどうして結婚していないのだろうか。ネットではゲイ疑惑まで出ている。
ニュース番組が終わってよく分からない芸術番組が始まったのでテレビの電源を切った。
携帯電話はまだ沈黙を守っている。
それにしても何だろう? この違和感は。何か重要なことを忘れているような。