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 男は紙袋を持って立っている。すなわち別れの時だ。


 不思議な時間だった。巷で噂の落書き犯と出会い、その落書き犯と話してみたら目的が首相を地獄に落とすことで、その首相にも大きな裏があった。そして俺は彼の信じられないような話を信じ、彼を父さんと重ね合わせていた。しかも俺は首相の裏側がありのままに入っているというボイスレコーダーを渡されたのだ。

 そして何より、日本を感じようと歩いていたら今まで感じたことのないものを感じてしまったのだから。


「そういえば名前聞いてませんでしたね」

 ああそうだな、と彼は独り言のように呟き、ニッと笑って言った。

「もう俺に名前はない。そうだな、『メッセンジャー』とでも名乗ろうか」

 名前はない、というのはどういうことなのだろうか。でもその内分かるような気がしたので改めて訊くようなことはしなかった。「そうですか。メッセンジャーさん」

 それに、『メッセンジャー』という呼び方は彼によく合っている。彼の行動はまさにメッセンジャーそのものだ。

「俺には明日の告発の準備があるからもう帰るよ」彼の顔はとても清々しいものだった。まるで心に蓄積した鬱憤を全て吐き出すことができたみたいに。

「じゃあ俺も引き続き散歩します。久しぶりの日本をもっと感じたいので」

 そういえば海外から昨日帰ってきたところだったんだな、と言いながら彼は俺の肩を叩いた。「その映画絶対に見てやるよ。約束だ」

 彼は右手を俺の前に差し出した。

「はい!」

 その手を右手で掴み、二人でぎゅっと力を入れた。

「でも映画公開の頃にはあなた刑務所じゃないんですか」

「あっ。……ブルーレイで見るよ」

 これ、噂の落書きじゃない? どこからかそんな声が秋の澄んだ空気を潜水するかのようにまっすぐ聞こえてきた。

「じゃあな」

「はい。また、塀の向こうで」

 男は背筋を伸ばし、実物よりも大きな背中を俺に見せながら去っていった。「バイバイ」






 俺は彼と別れてからしばらく散歩を続けていたけど、どこかむずむずして気が気でなかった。多分ボイスレコーダーのせいだろう。

 早くこれを聞きたい。真実を知りたい。俺の心は麻薬中毒のようにそれを欲しているに違いない。

 こうして散歩していて気付いたのは日本っぽいものって意外に少ないということだ。せいぜい日本語の看板か左側を走る車くらいのもの。俺を満足させてくれるものは幾ら歩いてもどこにも見当たらない。黄色いカーペットのようなイチョウ並木ですら、いまいちしっくり来なかった。

 やはりポケットに入っているこのボイスレコーダーを聞かないと浮足立ったまま落ち着かないのだろう。帰ろう。

 散歩中はゆっくり歩いていたのに帰路は不思議と速足になっていた。






 ボイスレコーダーのある方とは逆のポケットから鍵を取り出し、家のドアを開ける。

 靴を脱ぎ、フローリングの床のひんやりした冷たさを感じながら音を立ててリビングへと吸い寄せられるように歩いた。

 新しく買ったテレビゲームを持ってテレビの前に走るように、というのではなくどこか漠然とした不安があった。本当にこれを聞いていいのか、と。どちらかと言うと麻薬の副作用を知りながらも抑えきれずにまた吸ってしまうように、の方が適切な比喩だろう。

 テーブルにボイスレコーダーを置き、木製の椅子に座る。そして背筋を伸ばし、しばらくそれを眺める。


――本当にこれを聞いていいのか? 聞いてしまったらきっと何かが変わってしまうだろう。もちろん後戻りなんてできないぞ――。


 ボイスレコーダーから出る禍々しい紫色のオーラのようなものがそう訴えかけてくるようだった。

 でもどっちみち明日になったらあの男が全てを明らかにするんだから、と俺はボイスレコーダーに手を伸ばす。

 しかし、それを触る前に腕が止まった。

 テレビやラジオ、インターネットなどのメディアから出る音源を聞くのとその音源を直接聞くのとでは随分違うはずだ。例えば生のライブと、ライブ映像。例えば舞台とドラマ。編集されたされてないの差だけではない巨大な何かがその間にあることはこの人生をもってよく学んでいる。

 もちろんこの中に入っている音を生で聞くのと、このボイスレコーダーで聞くのとでも大きな差があるのだろうが、なんだろう。このボイスレコーダーから感じる禍々しいオーラは。まるで耳の穴から毛細血管の先まで全てを冒してやると言わんばかりの雰囲気は。

「……」

 でも、メッセンジャーはこれを聞いてくれと言っていた。


――そして聞いてくれ。真実を。


 彼の意思なら、父さんに似た男の意思なら、これを聞かないわけにはいかない。

 俺は途中で止まった手をさらに伸ばし、スイッチを押した。

 カチッ。

 ガヤガヤとしたノイズのような雑踏が鳴り、すぐに聞き覚えのある声が聞こえた。

「酒井……」

 メッセンジャーの声だ。おそらく声をかけられたと同時にスイッチを押したのだろう。

「あれ? 久しぶりだね、キミ」

 酒井首相の声だ。でも、テレビで演説する彼とは話し方が全く違うので、入っている声が酒井首相のものだと知らなければおそらく誰も気付かないだろう。

「……お前が呼んだんだろ」

「ハハハ、まあそうだね。分かってたんだ?」

「分からないわけがない。おかげで随分不機嫌だよ。三十年以上振りなのによく俺が分かったな。やっぱり監視してたのか」

「それもあるかもしれないね。監視なんてしてなかったとしてもキミは相変わらずクズみたいな顔してるからすぐ分かっただろうけどね。ちょっと話さない? 暇でしょ?」

「生憎だが俺は忙しいんだ。会社に行かなければならない。お前に行かされている会社だ」

「あれ? 忘れた? 僕のこと。僕が暇だと言ったら君は暇なんだよ。それに、君をこれから一生暇にすることだって僕ならできちゃうかもしれないよ?」


 俺が心臓を殴られたような衝撃を感じると同時にメッセンジャーの声が消えた。何も知らない雑踏だけが聞こえる。


「……」

「もう一回訊くよ? 暇だよね」

「……ああ、暇だ」

「うん。だと思ったよ。入って」


 ガタゴトを打撃音が鳴り、その後「ドン」と扉を閉めるような音が聞こえて雑踏が消えた。


「これ、自家用車なんだ。しかもエコカーだよ。庶民の気持ちを分かるにはこういうことも必要だと思わない?」


 そう言えばメッセンジャーは「車に乗り込んだ」と言っていた。ということは今ふたりがいるのは車の中というわけか。

 一国の首相が普通に町中で話していて普通に雑踏が聞こえるだけだとはおかしいなと思っていたが、彼は車の中にいてドアや窓を開けてメッセンジャーに話しかけたのだろう。


「偶然お前がこの車に乗っているのを見かけた庶民は「やっぱりこの人は庶民的な感覚が分かる人なんだ」って喜ぶだろうな」

「だろうね。それが狙いなんだよ。泥みたいな飯食ってる下級民族の支持を集めるのはそれだけ大変ってことさ。本当によく思うんだ。権力のあるお父さんの子供として生まれてきてよかった、って。キミみたいな穢れた雑種犬みたいな家に生まれてきてたら生後三か月でマンションの屋上から飛び降りてるよ」

「俺の家だってそこそこ金持ちだけどな。お前と同じ高校に通えるくらいには」

「僕から見れば君の家庭なんてフンコロガシだよ。そこら辺に歩いてる下級民族はダニだね。ダニの気持ちを分からないといけない仕事っていうのは我慢の連続で結構つらいけど、いくらダニであっても国民の支持を集めるっていうのは悪くないよ」

「ダニの支持を集めたいなら布団を洗わないことだな」

「ハハハ、面白いこと言うね。そういえば日本人って清潔なイメージだけど先進国の中では一番布団が汚いらしいね。シーツを取りかえる頻度が少ないんだとか。布団は頻繁に掃除しないと数千のダニや卵が住処にしちゃうんだって」

「何千の命と添い寝できるとは日本人は幸せなもんだな」

「さっきから思ってたんだけどキミ、久しぶりに会ってみたらちょっと生意気になってるね」

「あの時の俺とは違うんだ」

「なるほど。まあ、何でもいいよ。フンコロガシにだって色んな性格があるだろうし。でもね、フンコロガシは何年経ってもフンコロガシなんだよ。進化もしなければ退化もしない。三十年やそこらではね。まあ言ってしまえば僕も変わってないんだけど」

「さっきから嫌になるほどそう感じてるよ。お前は変わってない」

「ひとつの国を口ひとつで動かせるほどの地位に付いたのに、昔のまま優等生でいるなんて僕、凄くない?」

「ああ、凄いさ。でも総理大臣になることはみんな予想してたからそこは凄くないな。まさか信者なんてできるとは思わなかったけど」

「ふふ、全くその通りだよ。ありがとう。でも最近面白いことないんだよね。何か面白いことないかなあ、って思ってたら、偶然そんな丁度いいところに君がいたんだ」

「何が偶然だよ」

「まあなんでもいいじゃないか。ちょっと遊ぼうよ」


 『遊ぼう』というのは当然ゲームやスポーツの類ではないのだろう。


「……なんだよ」メッセンジャーの声がうんと暗くなった。

「そうだね、まず遊ぶ前に色々話そうよ」

「お国のヒーロー様とお話しできるなんて光栄です」

「それ嫌み? まあなんでもいいけど。確かに僕は日本のヒーローだからね。赤信号を堂々歩いていても向こうから止まってくれるほどのヒーローさ」

「お前じゃなくても止まるだろうがな」

「ハハハ、その通りだね。ごめんごめん。キミの前だとつい楽しくなっちゃって。確かに僕がヒーローじゃなくても止まってくれるよね。でも、その後が違う。その車の運転手は決まって怒るだろうね。「赤信号だぞ!」って。ここからがダニとヒーローの違いさ。ダニだと思って説教しようと思ったら相手がヒーローだったらゾッとするはずさ。なんてったって僕はこの国のヒーローなんだから」

「お前の評判は下がるだろうがな」

「何言ってるの? 僕はその運転手を脅すんだよ。「もし口外でもしてみろ。お前の周囲の人間が一日ひとりずつ死んでいくことになるぞ」ってね。証拠にその人に恋人がいるならその夜に体格のいい男を数人雇って、その運転手の目の前で布団が真っ赤に染まるまで恋人をレイプしてやってもいいかもしれない」


 一国の首相が『レイプ』という言葉を使ったのに俺は驚いた。確かにこれは盗聴だからプライベートな会話なのだろうけど……。


「運転手が女だったらどうするんだよ。恋人は男だぞ」

「同じだよ。性器を二度と使えなくなるくらいボロボロにいじくってやればいい。僕の知り合いには昔レスリングでオリンピックに出たゲイだっている。今は裏社会で身を潜めているけどね。彼らにそれくらいやってもらったらいらないことを二度と口にすることはできないだろうね」

「偶然かもしれないが、俺の知り合いにもレスリングでオリンピックに出たゲイがいる」

「同一人物かもしれないね」

「そうか、あいつ最近見ないと思ったら裏社会に行ったのか。墜ちたもんだな。ざまあみろ」


 そういえば、「そういえばいたなあ。ゲイ疑惑があったレスリング選手。今どうしてるんだろ」という俺の質問に彼は「裏社会だよ」と答えていたが、このことだったのか。


「個人的にも恨みがあるのかな? まあ、なんでもいいけど。ちなみにあのゲイを裏社会に放り込んだのは僕だよ。感謝して」


 ここで、少し沈黙があってからメッセンジャーの声が聞こえた。


「……それでも口外するかもしれない。復讐とか言って」

「それはレイプの話?」

「ああ、そうだ。この情報社会では広がるのは早いぞ」

「ハハハ、僕を誰だと思ってるの? 国民のヒーローだよ? 誰がそんなこと信じると思う? ネットは広がるのも早いけど信憑性は驚くほど薄いんだから。証拠なんてないんだし」

「目撃者くらい、いるだろ」

「相変わらず君はクズだね。目撃者なんていない所を狙うに決まっているじゃないか。なんなら目撃者なんて実際にいなくてもいることにできるよ」

「何?」

「僕を誰だと思ってるの? キミを出会った頃より強い権力を持ってる国民の頂点に立つヒーローだよ?」

「……便利な地位だな。まるでチートだ」

「まあ、僕が動くまでもないかもしれないけどね」

「どうして」

「僕の友達には警察庁の長官だって警視庁の警視総監だっているんだから。見ていないものを見ていると証言してくれそうな信者だってたくさんいる」

「随分顔が広いもんだな。広すぎて地球が丸くなくなるんじゃないかと心配になるよ」

「ハハハ、その冗談面白いね。今度使わせて貰うよ。話戻すけどまだこの計画は一回もやったことがないんだよね。車が一台だけ走っている状況ってなかなかないじゃない。僕の散歩コースは人気が少ないんだけどまだ出会ってないんだ。そうだね、どうしよう。いつもより早く起きて町中歩こうかな」


――俺が車運転してる時にあいつが横断歩道歩いていたら絶対轢いてやる。轢き飛ばした後に車で踏んづけて、その後に警察が来るまで延々と殴ってやる。


 あの悔しそうな言葉はこの事から来ているのだろう。

 中編『1.5625%を100%に変える男 ~知っておいて損はしない詐欺の手口~』の短期集中連載が始まりました。もしよかったらそちらもどうぞ。

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