榊猛の狼狽 第三話
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「猛くん、あたしが電話したの気づいた?」
案の定、茜は開口一番そう訊いてきた。たけるくん、と呼ばれると神経がささくれ立つのを感じた。
「……気づいたよ、でもごめん、寝てたから……」
榊はなるべく茜の目を見ないようにしながら答えた。そう……と茜は呟いて、それ以上は問い質そうとしなかった。
茜はいつも駅の自動販売機の横で、榊を待っている。そこへ向かうのが億劫なときがあることに、茜は気づいているだろうか。
……いやないな、こいつは俺の何も知らない。上っ面しか見てないんだから。
榊は朝が弱いが、今日は特に起きるのがつらかった。鈍い頭痛がずっと続いているのは気候のせいだろうか、体調を崩しているのだろうか。どちらにせよ朝の練習がないのはありがたかった。剣道部は積極的に朝練を行っていない。ランニングや筋トレは自主的に、ということになっているが、早朝から好んで運動をする物好きはそうそういないだろう。まして今日はこんなに空が暗いし――と榊は思っていたのだが。
「……あーあ、猛くんの興味がありそうな話題を持ってきたんだけどなー」
しばらく黙って歩いていると、茜が口を開いた。毎朝一緒に登校しているからと言ってそう会話が弾むわけではないのだが――今日のように榊の機嫌が悪い日は特に――積極的に反応する気にはなれなかった。だが一応相槌ぐらいは打たねば……それにしても“お付き合い”というのは、こんなに面倒で気を使わなければならないものなのだろうか。彼氏彼女の関係はもっと楽しいものであるべきはずなのに、榊と茜のそれはどこかぎこちなくて常に相手の出方を窺っているような雰囲気だった。
そして榊が下手に出る。話に乗ってやる、ふりをする。もっとも常にそうなら茜とは付き合っていなかっただろう。茜は決して無神経ではなく、細やかな気配りが出来る優しい女の子なのだ。だから多分気づいている、榊が少しこの交際に辟易していることに。もしかしたら茜もそうなのかもしれない、だから二人はお互い様なのだ。そういう意味では確かにお似合いだ。
「何? どんなこと?」
そんなことをつらつら考えつつも、茜の言う“話題”とやらに食いつく。あえて釣り針を呑み込む。それでいい、俺は彼女に何も期待していない。
「あはっ、まあたいしたことじゃないんだけどさ。猛くん、昨日も稲葉くんと一緒に帰ったでしょ。同じ部活だから当たり前なんだけどさ」
「一緒に帰らない理由がないからなあ……」
「うん、まあそれはとにかく、その稲葉くんの話。あたし、早苗から聞いたんだけどね……」
榊はサナエ、という人物の顔を思い出そうとしたが該当する顔は思い浮かばなかった。茜曰くサナエは、また別の子からその話を聞いたのではないだろうか。こうして噂に尾鰭がついて、嘘も本当も分からなくなる。虚実と真実が綯い交ぜになる。
「別にたいした話じゃないんだけど。稲葉くんは緑ヶ咲中の出身だよね」
「ん、そうだっけ」
「そうなんだって。でね、一年の女の子がいるでしょ、新しく剣道部に入ったコ。名前は」
「……楓?」
「そう、そのコもね、緑中だったんだって。だから稲葉くんのことが好きなんだよきっと! で、稲葉くんは三年間彼女がいなかったでしょ? だから二人はもしかしたら隠れて付き合ってるのかも……って早苗が」
興奮気味の茜の声は確かに耳に届いていた――が、榊の目に映っているのは、深緑色のジャージに身を包んで走る楓の姿だった。
楓だけではない、安藤も柏木もいる。……なんだよお前ら、先輩をのけものにして自主トレかよ……。なぜか急に、すごく自分が惨めになった。彼らがこちらに気づかず走り去ってくれるよう、それだけを祈った。
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その日の放課後は武道館に向かわず、安藤がいる二年一組に出向いた。こういうときにとっちめるのは安藤が一番だ。やつは嫌味も裏表もないので、余計なことを勘ぐられる心配をしなくて済む。
途中、帰ろうとしているか、もしくは学校から直接仲間と遊びに出掛けようとしている梅宮に出くわした。
「あ――センパイ」
梅宮の口調はいつもひとを舐めている、誰のことでも小馬鹿にしている。榊はもちろんほとんどの剣道部員が彼を嫌っていた。だが少なくとも、榊はこいつに怯んだりしない。
「……ウメ。やる気がないなら早く辞めろ。他の部員の迷惑になる」
梅宮は舌打ちをどうにか堪えて、榊を睨めつけるに留まったらしい。
「へえへえ、先輩はマジメっすね。でも俺みたいのが練習に出たら余計に空気悪くなるでしょ。だからこっちは遠慮して――」
「そうか、そいつは賢明だ。練習に出なければ誰にも負けることがないからな」
梅宮の顔色が変わった。彼は異常なまでの負けず嫌いなのだ、多分なんらかのコンプレックスを抱えているに違いない。榊は畳み掛ける。
「俺たちが引退した後、お前の武具は残ってないかもしれないぜ。今のうちによく考えておけ」
榊はさっさと歩き出した。梅宮が何かを蹴飛ばす音が聞こえた――知ったことか、自分の足が痛むだけだ。
教室を覗き込む、さて、安藤は――いた。運がいいのか悪いのか、柏木も一緒だ。
「あ、榊先輩」
安藤は自分の席に座っていたが、榊に気づいて腰を浮かせた。
「ういーっす。訊きたいことがあってな、別にたいしたことじゃないんだけど」
「たいしたことじゃないっていうことは、すごく気になってるってことっすね」
柏木が茶々を入れる――しかしそれは当たらずとも遠からず、だ。後で部活で合流するのに、わざわざクラスにまで足を運んできたのだから。
「好きにとれよ……お前ら、今朝走ってなかったか?」
「はあ、学校の周りを二周。つーかまあ……俺たちは楓に付き合っただけなんですけど」
「楓ちゃんに?」
問い返すと柏木が会話に割って入る。
「最近知ったんですけど、楓は前から走ってたらしいんですよ。それこそ中学の頃から。で、先輩の俺たちが何もしないのは恥ずかしいよなってこいつが言い出して。本当は二人きりで走りたかったんだろうけど、こいつシャイだから……ククク――――ってえな、何しやがんだよ!」
どうやら安藤は柏木の脛を思いっきり蹴飛ばしたらしい。掴みかかる柏木を榊はどうどうと宥めて、安藤に再び訊いてみる。
「話は分かったけどなんで俺らには声掛けねえんだよ、それこそ恥ずかしいじゃねえか、最上級生として」
「え……だって先輩たちは受験生だし、先輩今日も彼女と一緒に来たでしょ? 稲葉先輩は誘っても断られそうな感じだし」
見られていたのか……なんだか居た堪れなくなった。なぜだろう、彼女がいることにしておいたほうが楽だから、と考えたのは自分ではなかったか。……楓も気がついたのだろうか。あの興味のなさそうな目で、自分とその隣を歩く女の姿を一瞥したのだろうか。
「あ、でも良かったら一緒に走りましょうよ。楽しいっすよ、楓も結構しゃべってくれるし」
「……そうなの?」
我ながら間抜けな返しだ、と榊は思った。安藤は嬉しそうに顔をほころばせながら続ける。
「いや、練習中に訊けないこととかを訊くと答えてくれるっつーか。授業中かなり寝てるらしくて、赤点ギリギリの点数ばっか取ってるとか。意外でしょ? 補習受けるのはいやだから一夜漬けで勉強するんだけど、全然頭に入ってないとか」
「お前ほんとに楓が好きだなーぶわ何すんだこのやろう!」
今度は足を踏んづけたようだ。安藤は足癖が悪いらしい、あまり怒らせないほうがいいかもしれない。
安藤と柏木の夫婦喧嘩を見ながら榊が考えたことは、明日の朝は何時にアラームをセットしようか、ということだった。