榊猛の狼狽 第二話
※ 注意! ※
今回は榊のある過去に触れております、直接的な描写は出てきませんが行間からそう読み取れるような書き方をしておりますので、出来れば15歳未満の方には読むのを避けて頂きたく存じます。
最初にR‐15指定をしなかったのはこちらの落ち度ですので、指摘や注意があった場合には粛々と受け止め該当箇所を削る、あるいはこの榊猛編の連載を中止する、という措置を取らせて頂くつもりでいます。楽しみに読んでくださってる方には大変申し訳ないのですが……。
ともあれ作者は楽しく書かせて頂いておりますので、どうかお付き合いいただけると幸いでございます。
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そろそろ次の部長を決めなきゃな、と稲葉がぼそっと言ったのは六月の雨の日だった気がする。二人は傘を差して、学園から最寄りの駅への道を歩いていた。
「部長っつっても、実質どちらかしかいないんだけどさ……お前はどう思う?」
振られた榊は肩を竦めるかのようなポーズを取ってみせる。榊が何か言ったところで、結局それは反映されないことを知っていたからだ。もっともそれは榊がわざと的外れな返答をするせいかもしれなかったが。
こういうとき稲葉の中では既に答えは出ていて、体裁を保つために一応意見を求めてみる。それに対し榊は適当におざなりなことを言う――つまり二人はどっちもどっちで、無意味とも思えるやり取りは二人の間でしか通じないギャグのようなものだった。
「梅はハナからダメ、篠塚もまとめ役には向かない。そしたらもう決まってんじゃん」
榊が言う梅とは二年の梅宮のことで、垢抜けていて不真面目な彼はあまり練習には参加しない。剣道をはじめた理由は「カッコつくと思ったから」だそうだ。一方の篠塚は小太りで心根の優しい男だったが、それは言い換えれば臆病で気が弱いということでもあった。「剣道ってあんまり運動神経とか関係ないって聞いたんで……」と自己紹介の際に言ったときにはすぐに音を上げて退部するのではないかと思われたが、この一年と二ヶ月、どうにか練習にはついてこられていた。
となれば残るは正義感の強い安藤、もしくは世渡りの上手い柏木だ。榊個人は柏木のほうが部長に向いているのでは、と思ったが、稲葉はどう考えているのだろう。
「だから二人のどっちがいいと思うか訊いてるんだって。多分柏木に任せておけばなんの問題もないんだろうけど……」
「そう思うならそうしろよ、それとも一年にやらせてみるか? 強さだけなら楓ちゃんが一番だろ」
榊がわざとその名前を口にすると、稲葉は露骨に不愉快そうな表情をしてみせた。榊は当然気づいている――稲葉が楓を苦手だということ、そして自分自身もあの少女を特別な目で見ていることに。
「一年だからどうこうじゃないけど、それじゃ二年の面子が立たない。それに――」
稲葉は何かを言いかけてやめた。多分それは“稲葉は知っているけど、榊は知らないこと”だ。別段腹は立たなかったが、少しだけ疎外感に似た胸の痛みを感じた。
「……とにかくもう少し考えてみるよ。部長なんて肩書きだけのもんで、でもやることはやんなきゃいけないしプレッシャーになることもあるんだよな。まあ俺は楽しくやらせてもらってたけどさ……」
稲葉は言い訳をするように呟きながら、先を歩く。もうすぐ駅のホームに着く。稲葉がこの話題を打ち切りたいと思っているのは明白だった。
「あの子が好きなのか?」
そう口にすることは簡単だった。だがそれを訊いてどうしようと言うのだろう。どんなに稲葉が楓に岡惚れしていても、その想いを認めることはないだろう。……あるいはその逆は。榊は立ち止まる。
楓には女らしさの欠片もない、むしろエキセントリックで前髪パッツンで口も目つきも悪くて……。――いないな、と榊は思った。あんなに個性があって、でもそれを主張することなく気がつけばそこにいるような存在。ああいう人間を、榊は他に知らない。おそらく稲葉もそうなのだ、そしてその存在感に自覚の有無は問わず惹かれてしまう。
参ったなあ……。榊は少し下を向き、傘で顔を隠す。傘にあたる雨音がなんだか妙にうるさかった。
茜から着信があったことに気がついたのは、家に着いてからだった。大原茜――榊の彼女である。いつの間にかそういうことになっていた。真相は「めんどくさいから放っておいた」、それだけのことだ。
一年のとき同じクラスになってよくちょっかいを出されるようになって、二年に上がった際クラス替えがあったのを機にあまり話さなくなった。すると茜は意を決したらしく告白してきた。「好きだから、形だけでもいいから彼女にしてください」と榊の目を見ずに言った茜は、それなりに可愛かった。
だがそれだけだ――榊は茜を嫌いではなかったが、じゃあ好きかと訊かれたらそれは否定する。曖昧な返事でその場を濁して、茜の言う通り「形だけの」関係になったのは、彼女がいるということにしておけば他の誰かに言い寄られたときに面倒な言い訳をしなくて済むから。ある意味茜はスケープゴートだったのだ。都合のいい、隠れ蓑。何度かデートもしたし周囲の友人はお似合いだなどと冷やかしたけれど、榊を包むのは徒労感だけだった。
榊にはトラウマがある。無論異性に興味がないわけではない、健全な男子高校生なのだから。でもそれは世間が少年にそうあることを求めているから、というだけのことなのかもしれない。友人は皆年相応に助平だが、そういう話題に及んだり、否応なしに女性の裸や性的な一面を見せつけられたりすると、何かが迫り上がってくるのだ。原因ははっきりと覚えているが、出来ることなら封印してしまいたい記憶だった。
人一倍睡眠をとる榊が熟睡していると、突然毛布の隙間から誰かの手が伸びてきた。動くことも声をあげることも出来なかった。恐怖とは違う、しかし胃の腑を鷲掴みにされるような不快感。事実掴まれた挙句こねくり回されていたので、気持ち悪いことこの上なかった。ただただ震えながら、それが終わるのを待っていた。
その後は寝つくことが出来ず、うつらうつらしている時に携帯電話のアラームが鳴ったときには烈しい怒りを感じた。自分でも訳が分からないほどの破壊衝動に襲われ、携帯を壁に投げつけてしまった。自室を出てリビングに行くと、義母のいつもと変わらない後ろ姿があった。
「おはよう、猛くん」
そう言った女の何食わぬ顔を見て、何かが脳内ではじけた。誰かに対して殺意に近い感情を覚えたのははじめてのことだった――榊が十五になったばかりの出来事である。
それからだ、榊が妙に達観した子どもになったのは。達観といえば聞こえはいいが、くたびれて何かを諦めてしまったかのような目の色をしていた。榊は頭がいいので既に枯れてしまったかのような自意識は表に出さず、希望に燃える若者を演じているつもりだったけど。
ひとと話すのも億劫な気分だったので、茜からの電話は無視することにした。後で気が向けばメールぐらいはするかもしれない。
――結構、かなり嫌なやつだよな、俺。
榊は大好きなベッドへ潜り込んだ。寝るのが一番楽しい、その次は――なんだろう。友達と遊ぶこと? 彼女と過ごす時間では絶対ない。眠りに落ちる間際、無性に竹刀が振りたくなった。