榊猛の狼狽 第一話
2012年03月 初稿
BGM by
トーキョー・イミテーション/椿屋四重奏
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榊猛は美男子だった。
細く尖った顎に涼しげな目元。小学校と中学ではサッカー部に所属していた。そのため身長も筋肉量もそれなりにあったが、どちらかと言えば細身なのでいかつくは見えない。
運動神経はもちろんいいが、頭もかなり回る。学年はともかくクラスで一番か二番の成績を常にキープ していた。
“本気”で“必死”になればもっと上を狙うことは可能だった。しかしプレッシャーというものをあまり感じたことがない榊にとって、例えば試験前に範囲を丸暗記したり、どこぞの上位大学に受かるために今から先生に気に入られる努力をしたり――というのは思惑の範疇外だった。
なんでもほどほどでいいのだ、普段から普通に勉強をして、最低限やることさえやっていれば、なんの問題もない。例えば受験戦争、なんて言葉があるが、行きたい学校へ行くために優劣を競う必要もなければ他人を蹴落とす必要もないと思う。何より順位をつけたりつけられたりするのは好きじゃない。一番が一番偉くて、最下位は屑だとでも言いたいのだろうか。別に怒るほどのことでもないし、榊は年齢のわりに冷めていたから何も言わずに日々を消費していたけれど。
部活だってそう、高校に入ったら何か今までやったことのないものに挑戦したいと思っていて、その矢先に目についたのが剣道だった。
勝敗に関してもさほど執着のない榊だったが、剣道は楽しかった。やるからには強くなりたい、仕合うからには勝ちたい。剣道は一対一の真剣勝負であるから尚更。試合など早ければほんの一瞬で決着が着くのに、その一瞬のために筋トレをして走り込みで基礎体力をつけて。しかし実際に要求されるのは、持久力でも忍耐力でもなく瞬発力や反射神経、それから思い切りの良さといったところだろうか。榊は速攻で勝負を決めるタイプではなく、相手の出方を窺いながらじわじわと間合いを詰めていって、得意の“引き”で一本取る。
だがと言うべきかだからと言うべきか、短期決着型の選手は苦手だった。――例えば新入りの女子部員、楓とか。鍔迫り合いもさせず、こちらの技量などお構いなしに踏み込んでくるやつは厄介なことこの上ない。事実楓とは何度か打ち合っているけれど、上段の構えから一気にこちらの懐に飛び込んできて、強烈な打ちを繰り出すその様は圧巻だった。
悔しくない、と言えば嘘になる。女だからとか背が低いからとか、そんな理由で榊は楓を見下したりはしていない。単純に、経験と技術が足りないだけだ……多分。
――でも、結局最後まで勝てなかったな。
ラッキーパンチがヒットして、運よく一本もぎ取れても、楓は絶対動じることはなかった。いや、取られることでますます集中力が研ぎ澄まされる、らしかった。自分は誰にも負けてはならないと言い聞かせ、次はないと相手を威嚇する。気圧される。
公式試合ともなると格上の相手とぶつかることもあるのでやや難があるが、少なくとも楓が負けるのを、榊は見たことがない。
榊は楓のその強さ――剣道の腕もそうだが精神的な意味合いでの――が羨ましかった。他人を敬うことはあっても、羨望の眼差しで誰かを見たことははじめてかもしれなかった。
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入学式の翌々日、だっただろうか。既に桜は散ってしまっていて、淡い若葉がちらほら顔を覗かせていた。うららかな春の陽気とは裏腹に、榊は少しだけ憂鬱だった。最上級生になったという事実と各々の自覚のせいか、周囲の空気がやたらにピリピリしているのだ。
何をそんなに焦ってるんだか……。突然「本気出す」と言って参考書を熱心に読み始めた級友を横目で見ながら、榊は思う。ましてただパラパラページをめくって、理解したつもりになっているうちは公式の一つも頭に入ってはいないだろう。でもそれはもしかしたら、そこそこ勉強が出来てそこそこいい大学に入れるであろう“優等生”のちょっとした驕りと僻み、なのかもしれなかった。夢中になれるもの、打ち込めるものがあっていいな、といった類の。
榊はふらふらと武道館へ向かう。部活に対してもそこまで情熱を注いでいたわけではないが、なんとなく、ここは自分の居場所だという意識があった。居心地のいい場所というべきか――サッカー部の頃ほど練習はきつくなかったし、何よりクラスこそ違うが二年間休まず練習を共にしてきた稲葉や、後輩をからかって過ごす時間が楽しいのだ。馬鹿にしているつもりはないが、リアクションが大げさなやつほどおちょくり甲斐がある。一つ下の安藤なんかがそうだ、多分誰からも好かれるマスコット的なキャラクターだろう。
そんなことを思いながら武道館の引き戸に手を掛ける。そのときは物音一つしなかったので、誰かが中にいるなど考えもしなかった。だから目を奪われた――それだけのことだ。
武道館のちょうど中心あたりに、制服姿の少女が一人。なんだかそれが妙に絵になっていた……物珍しい光景だったから余計に。
少女は背を向けていたが、間を置いてゆっくりとこちらを振り返った。睨んでいるわけではないが鋭い目つきだった。矢のように、相手を射竦めるかのような。
榊が言葉を発せずにいると、少女はずかずかと向かってきた。目の前でぴたっと立ち止まり、そして一言。
「……でかっ」
――拍子抜けした。初対面の相手に『でかっ』はないだろう、頭一つ分の身長差があるとはいえ。なんだこいつ、俺はどんな反応をすればいいんだ。「ちいさっ」と言うのはいくらなんでも失礼だろうし。榊が狼狽えているとまたも少女が口を開いた。
「ああすみません、本当にでっかかったから……」
「…………」
言葉が出てこない。期せずして“未知の存在”と遭遇してしまった。俺ってこんなに機転のきかない間抜けだったっけ……?
未知の存在は訝しげに榊を見た後、軽く会釈をして去っていった。その様子を見送ることはしなかった。さっき目にした彼女の後ろ姿と、つりあがった大きな目元が脳裏にリフレインしていた。
彼女のフルネームを知ったのはその次の日のことである。
武道館に入ると同時に稲葉が「……新入りだとさ」と顎をしゃくった。その態度には彼らしかぬ横柄さが滲み出ていたが、昨日の謎の少女がそこにいるのを確認して、少なからず納得してしまった自分がいた。その傍らには楓を質問攻めにしたいらしい柏木がいる。
榊の姿を認めた少女は自分から自己紹介をした。
「若月楓です。よろしくお願いします」
「あ、ああ……俺は榊猛。一応副ぶ」
努めて冷静を装おうとして、かつ副部長の威厳を示そうとしてしかしその言葉は楓に遮られてしまった。
「さかきたける? ヤマトタケルみたいな名前ですね」
……言われたことはある。自覚もあって、だから名乗るのはあまり好きじゃなかった。だけど昨日の今日でなぜこんなにコケにされなければならないのか、彼女には悪意はないようだからなおさら性質が悪い。
ぶーっと吹き出した柏木を睨みつけてやった。榊は長身で顔立ちも整っているので、凄むとそれなりに迫力がある。ところが視線をずらすと、稲葉まで肩を震わせて笑いを堪えているではないか。憂鬱を通り越して榊は不快になった。