安藤和彦の葛藤 第四話
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花火大会当日――ここ何日か、四人の青年はなんとなく落ち着かない心地で過ごしていた。何がどう転ぶのか誰にも分からなかったからだ。柏木と榊に関して言えば、この状況を楽しんでいたようだが。
何しろ大会を二日後に控えているため当然のように練習はあったのだが、今日は顧問と稲葉の計らいで早めに切り上げられた。各自一旦帰宅し、シャワーや着替えを済ませ会場である土手に向かう。
高校生の男子の服装など似たり寄ったりで、特に夏場はTシャツにジーンズが基本である。楓もノースリーブのタンクトップに七分丈のカーゴパンツといういでたちで、相変わらず色気も気品もなかったが、まあそれが彼女の魅力なのだろう。
土手に通じる大通りには交通規制がかかっており、両側にはここぞとばかりに屋台が立ち並んでいた。買い食いもこういったイベントの醍醐味と言えよう。焼きそばやら枝豆やら佐世保発祥の馬鹿でかいハンバーガーやら次々と手荷物が増えていく。さすがの楓も今日は楽しげで、真っ先にチョコバナナに齧りついていた。……これから起こる惨事も知らずに。
当然ながら土手の上はひとでごった返しており、座るのに適した場所は既になかった。
「しょーがないなあ。もっと向こうのほうに行くか……」
榊がそう言って先頭に立ち、四人はなんとなくそれに続く。
そうこうしているうちに最初の一発が上がり、周囲は歓声に包まれる。
五人は空を見上げながら、ひとのまばらなほうへと歩いていく。……が。最初に異変に気づいたのは稲葉だった。
「楓が……いない」
いつの間にはぐれたものやら……みんな花火に夢中で気がつかなかった。楓は小柄なので人の波に呑まれてしまったのだろう。
「探さないと……」
「俺、とりあえず携帯にかけてみます」
柏木は携帯を取り出し素早い動作で電話をかけたが、留守電に繋がっただけだった。
「バラバラになるのはまずいから俺が行く。お前たちはとりあえずこのへんにいてくれ」
言うが早いか稲葉は来た道を戻り始めた。安藤は誰にも聞こえない声でぼそりと呟く。
「俺、やっぱりあのひとには敵わないかもしれない……」
稲葉が楓を見つけるのに、さほど時間はかからなかった。そう遠くない場所にうずくまっていたからだ。
「おい、どうした? 気分でも悪くなったか?」
稲葉はしゃがみ込み楓の顔を覗き込む。こんなに近い距離で楓の顔を見るのははじめてかもしれなかった。
「あ、センパイ……。実はその、転んじゃって…………」
楓はヒールでこそないものの、踵のかなり高いウエッジソールを履いていた。携帯電話でかざして見ると、踝のあたりが真っ赤に腫れている。
「病院……はもう空いてないかな。とりあえず立てるか?」
差し出された稲葉の手を取り、楓はなんとか立ち上がるが、その顔つきは泣きたいのを必死に堪えている子供のようだった。
「家まで送ってやる。ちょっと待ってろ」
「え……そんな、大丈夫です! あの、親に迎えに来てもらいますから!」
「お前の親、共働きだろうが。どっちにしろこのまま一人にはできねえよ」
稲葉は榊に電話をかけ、事情を説明する。
「そういうわけだけど俺が責任持って送り届けるから。……あ、安藤に謝っといて。約束守れなくてごめんって」
通話を終えた稲葉はおぶされ、と背中で示す。楓は相変わらず泣きそうな顔で、本当に渋々といった様子で稲葉の背に体重を預けた。
――そんなに俺におぶわれるのが嫌なのか? んな露骨に嫌な顔しなくても……!
稲葉は悲しくなると同時に少し腹が立ってきた。こっちはいつだってやきもきしながら彼女に接していて、でもそれを悟られないように冷静を装って……。
「あの……先輩」
楓がおずおず口を開く。過去には下の名前で呼び捨てにしていたくせに、いつの間にか「先輩」と呼ばれ敬語を使われるようになった。
「すみません、せっかくの花火なのに迷惑かけちゃって……」
珍しく楓はしおらしかった。足を挫いたこともあり弱気になっているのだろうか。
「別に、花火なんか毎年見られるし。考えてみりゃわざわざ土手なんかに来なくても、俺のマンションの屋上から見えたんだよな。まあ迫力が違うだろうけど」
「そう言えば、さっき言ってた安藤先輩との約束ってなんだったんですか」
不意打ちだった。「お前と安藤を二人っきりにしてやる約束だったんだよ」なんてどんなに無神経な人間でも言えるわけがない。
「あー……つまんねーことだよ。あれだ、最後の花火と同時に、好きな子の名前を叫ぶ約束になってたんだ」
墓穴を掘ったかもしれない――そう思った時には遅かったが、まさか安藤が自分の名前を叫ぶなど、この鈍感オトコオンナは考えもしないだろう。
「へええ、それ聞きたかったなあ。っていうか二人とも好きなひといたんですね」
この口ぶりである。でも……と稲葉は考える。仮に今の話が真実だったとしたら、自分は誰の名前を叫ぶだろう。俺、好きな子なんていたっけ……?
しばらく二人は黙っていたが、再び楓が口を開く。
「もうすぐ最後の花火ですね」
「そっか……もうそんな時間か」
「先輩、叫ばないの?」
楓は喉をくつくつと鳴らしながら尋ねる。
「バカか、こんなひと気のない場所で」
この時の二人は先輩後輩の間柄ではなく、軽口を言い合える幼馴染に戻っていた。そう言えば昔はこうやってふざけて楓をおぶったり、自転車の後ろに乗せてあの土手に遊びに行ったりもしたっけな……。ほんの一瞬でもあの頃に戻れたことを、稲葉はありがたく思った。楓にしてみればとんだ災難でしかなかっただろうが。
「ちょっと降ろしてもらっていいですか……喉渇いちゃって」
稲葉は言われた通り、自販機の前で楓を降ろす。楓はファンタグレープとアクエリアスのボタンを押した。
「はいこれ。先輩炭酸ダメでしたよね?」
「飲めるようになったぜ。……ほんの少しだけだけど」
軽いやり取りだったが、月日の流れを確認させるには十分なものだった。二人はプルタブに指をかける。
花火はフィナーレに向けて、惜しげもなくバンバンと打ち上がっている。
訊いてしまおうか、あの日――稲葉が楓に負けた日――泣いていたわけを。それから楓がどんな気持ちで、今日まで過ごしてきたのかも。……でもできなかった。
得るものがあれば失うものがある。稲葉は二人の関係が“切れる”ことより“変わる”ことを恐れていた。何よりそれは踏み込んではいけない領域だ。稲葉と楓は、どんなに同じ時間を共に過ごしても、すべてを分かち合うことは出来ないだろう。
それでもいつか、稲葉が誰かと結ばれる日が来るとして、その相手が誰であっても――今日のこの瞬間のことを、忘れることはない。それぐらい楓は特別な存在だった。
最後の花火が派手に上がった。
「……稲葉先輩!」
「……? 今、何か言ったか?」
「――なんでもないです。今日はありがとう」
楓ははにかんだように笑った。滝のように降り注ぐ花火が完全に見えなくなって、その余韻が消えてしまっても、二人はずっと空を見上げていた。