安藤和彦の葛藤 第三話
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OKだってさ、と稲葉は短く言った。
「おーけー、ということは」
「あいつ、昔から女の子の集団が苦手らしいんだ。で、周りがやっぱりお前と同じようなことを考えてるヤツばっかりで、ちょっとうんざりしてるって。じゃあ俺たちと一緒に行かないかって訊いたらそっちのが気楽そうだって」
「ちょ、それダメっぽいフラグじゃないですか。第一言い出したのは俺じゃなくて柏木だし!」
「あいつにとっちゃ男なんかみんな一緒だよ。へたな男より男らしいしな」
確かに……。安藤はがっくりと肩を落とした。そんな楓だからこそ、気がついたら目で追うようになっていたのだけれど。
「でも少なくとも、あいつはお前を嫌っちゃいないと思うぜ。好意を持たれてるって知ったら喜ぶ、かもしれない」
「……そうですね。ありがとうございます」
安易な気休めの言葉ではない、的確な気遣い。そういうことがさりげなくできる稲葉を安藤は尊敬していた。誰にとっても、ここ一番で最も頼れる存在。……楓と釣り合うのは先輩みたいなひとかもしれないな……。安藤は稲葉の背中を見送りながら、ぼんやりとそんなことを考えた。
「……いいのかよ?」
腕組みをしながら眉間に皺を寄せている稲葉は、どこからどう見ても気難しい男そのものだった。そんな状態の彼にものを言える人物はそう多くない。
「何が」
稲葉は抑揚を欠いた声音で、それでも一応返事だけはする。
「お前も結構分かりやすいのな。『俺は今不機嫌だから話し掛けるな』って顔に書いてあるぜ」
茶化す榊に、稲葉はますます憮然とする。
「そんならほっといてくれよ……前にも言ったろ、俺は大会のこと以外考えたくないんだ」
「なのに他のことで頭がいっぱいだ、と」
榊の言葉は稲葉を不安にさせた。度々あるのだ、榊はすべてを見透かしているのではないかと思うことが。事実榊は知っている――稲葉があえて誰にも明かさずにいる“あること”を。
「恥ずかしいのか知らんけど、もっと素直にならないと後悔する、と思う」
……やはりこれ以上シラを切り続けるのは不可能らしい。稲葉は観念したが、榊が多かれ少なかれ勘違いをしているなら、それはこの際はっきりさせておかなければならない。
「お前の言いたいことも分かるけど、付き合いが長いっていうだけで恋愛感情には発展しないから。安藤も言ってたろ、あいつとどうこうなりたいとか、そんなこと考えてないって」
稲葉がずっと「あいつ」としか呼ばない相手。前髪をバッサリ落としたショートヘアがよく似合う彼女。――稲葉と楓は俗に言う幼馴染だった。
「たまたま家が近くて、たまたま親同士の仲が良くて、たまたま同じ町内会の剣道サークルで……。でもほんとにそれだけなんだ、そんな理由で俺は縛り付けられたくない」
「楓ちゃんがこの高校に入学してきたときに考えなかったのか? もしかしたら自分を追ってきたのかもしれないって」
稲葉は高校に入ると同時にサークルのほうは辞めている。学校の部活に専念したほうが効率がいいと思ったからだ。だから春に、見学らしい見学もせず提出された入部届を見て稲葉は唖然とした――それと同時に書き殴られたその名前が、妙に懐かしいものに感じられた。
「ただの偶然だろ……子供の頃からあいつは何を考えてるのかよく分からなかった。今でも全然分からねえよ」
「お前に告白されるのを待ってたりして」
「じゃあそう言えばいいじゃねえか、告白は男からとかいう決まりでもあるわけ? 解せない。とにかく俺には関係ないから!」
稲葉は鼻息を荒くして練習を再開した。彼の意外な一面を見た榊は笑いを堪えるのに必死だった。
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楓とは十年来の付き合いになるが、仲がいいとは言い難い。知り合ったのもよく遊ぶようになったのも、本当に親の都合のようなもので。それでも稲葉は楓を妹のように思っていたし、楓も稲葉のことを嫌ってはいない――そう思っていた。
ある日稲葉は所属していた剣道サークルの練習に、楓を連れて行った。特に何かを思ってのことではない。だが楓は稲葉が竹刀を振る様子を、大きな目をさらに見開いてじっと見つめていた。照れた稲葉は気づかないふりをした。が……。
「わたしもやる」
楓はよく通る声でそう言った。特に断る理由もなかったし、何より楓は言い出したら聞かない性格なので、稲葉は黙って竹刀を渡す。
しばらく楓は手の中のそれを凝視していたが、すっ……と踏み込んで竹刀を真正面に振り下ろした。スローモーション。稲葉の目にはその動きが、コマ送りのようにゆっくりと見えて。この瞬間稲葉は確信した――楓が剣道をやるために生まれてきたかどうかは分からない、でも、楓は強くなる。もしかしたらあっという間に俺を追い越すかもしれない。この時稲葉は九歳で、楓は七歳になる直前だった。
間もなく楓は正式にサークルの一員になり、もともと運動神経がよかったこともあって飲み込みと上達の速さを見せつけた。以来稲葉と楓は何度も一戦交えてきたが、天性の才能を持つ楓でさえ稲葉に勝つには至らなかった。
剣道は、気迫が物を言うスポーツだ。経験・練習量・試合に臨む心構え……その他諸々を考慮しても、最後は“勝つ”と思った者だけが勝つ。楓はどんな時でも誰が相手でも、全身全霊で、“勝つ”つもりでぶつかってきたはずだ。それでも稲葉にかなわないという試合結果は、純粋に楓よりも稲葉のほうが強い、という事実を示していた。あるいは楓は気負い過ぎていたのかもしれない、稲葉にだけは負けたくないという意志が、楓の動きを無意識に鈍らせていたのかもしれない――本当のところは誰にも分からないが。
そうしたことが何年も続いた。しかしある日、唐突に終わりは訪れた。楓が勝ったのである。ストレートで二本先取。なんの前触れもなかったし稲葉の調子は悪くなかった。油断をしていたつもりもない――それでも負けた。稲葉が、楓に。
稲葉はしばらく呆然としていたし、それは楓も同様だった。だがその後、稲葉は偶然耳にしてしまった。誰もいなくなった更衣室に響く、楓の泣き声を。
いよいよ訳が分からなくなった。負けた俺が悔し泣きするならともかく、勝ったはずのお前が何故? お前は俺に勝って嬉しくないのか? おれは――。
……それからなんとなく、稲葉は楓を避けるようになり、楓も稲葉に寄ってくることはなくなった。気まずいまま稲葉はサークルを離れ、中学を卒業して完全に楓との接点はなくなった。しかし二年が経って、楓は自分のいる若園学園高等部に入学してきた。これは偶然か、それとも。
稲葉は考えることを放棄していた。いくら考えたところで答えが出ないことが分かっていたから。……本人に直接訊ければどれほど楽だろうか。だけど楓が何を言っても、それが本音であるという保証はどこにもない。あいつは本当に謎だ。正直言って稲葉は疲労さえ覚えていた。
今回の花火の件にしても、楓が集団行動を好まないのは知っていたから「来週の花火、一緒に来るか?」と投げやりに訊いただけだ。そしたら楓は「はあ」と言いながら頷いた。会話にすらなっていない。
「俺と榊と柏木と安藤な。詳しくは他のやつらに訊いてくれ」
他の者がこの場にいたら、ぞんざいな稲葉の態度を見て驚いただろう。でも稲葉にとってそんなことはどうでもよくて、なるべく早く楓から離れたい気持ちでいっぱいだった。別に嫌っているわけでもないのに。
――嫌っていない? 本当に? じゃあ好きなのか? それも違う。
そうだ、付き合いづらいだけだ、楓が変わり者だから。あんな変なヤツを好きになる安藤も変なんだ。変わり者同士精々仲良くやってくれ。
稲葉はもやもやした感情にそうケリをつけて、これ以上は考えるまいと勝手に決めた。