榊猛の狼狽 第四話
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いつもより一時間早い五時半に目が覚めた。もっと寝起きはボーっとしてるかと思ったのだが、頭はスッキリと冴えていた。そう考えると榊はいつも寝過ぎなのかもしれない、大体日付が変わる前には夢の中だし、徹夜なんてもっての外だった。寝過ぎると馬鹿になる、なんて憎まれ口を祖父に叩かれたことがあるが、寝なければ余計馬鹿になると思うのは榊だけだろうか。
さて――今日はジョギングだ。ベッドから出て大きく伸びをした。元々運動は嫌いじゃない。まして後輩と談笑しながらならあっという間だろう。しかし若干の懸念はあったのだ……天候のことである。
榊はカーテンを開け、外の様子を窺う。昨夜から降り出した雨はまだ止んでいなかった。大雨とも小雨とも言い難い、だけど確実に傘を必要とする雨だ。
「んー……」
誰ともなしにつぶやく。考える。さすがにこの天気では朝練は中止だろう、誰が決めることなのかは知らないが。かと言って二度寝してしまえば多分、確実に起きられない。
せっかく早起きしたのだからと、トイレついでにリビングに向かう。まだ誰もいないその部屋は、やけに物静かで開放的で、でも少しうすら寒かった。
よし、もったいないから今日はこのまま朝飯を食べて学校に行こう。茜には一緒に登校出来ないと伝えてあるし、しばらくの間この時間帯に起きることに決めたのだから。
面倒なので置いてあった菓子パンを丸かじりして、それを牛乳で流し込む。よくよく考えたらこれから走るのに気持ち悪くなりそうな食事内容だったが、榊は甘党なのでその点はあまり考えなかった。
着替えを済ませ家を出ようとすると、ようやく起き出した義母が声を掛けてきた。
「あら、猛くん……。もう出るの?」
「はあ、この時間なら電車も混んでないと思うんで……」
榊と義母の会話はいつもどこかぎこちない。榊は未だに彼女のことをなんと呼べばいいか分からず、敬語ともそうでもないともとれる話し方をしていた。
「そう、声を掛けてくれれば目玉焼きぐらい焼いたのに」
「…………。ありがとう、行ってきます」
榊はあれ以来、義母の顔をまともに見たことがない。おそらくそのことには義母も気がついている。これでいいのだ、この距離感で。彼女がしたことは許されるべきことではない、彼女は苦しむべきだ。自分の行いを恥じて悔やむべきなのだ。
電車に揺られる、音楽も聴かず本も読まず。学校に着いたら武道館へ行き、瞑想をしよう。俺はもっといろんなことに追い立てられて、様々なことを思い悩んだほうがいい。進路のこと、今後のこと、それから……それから……?
武道館に着いた。傘を差しても制服が少し湿る程度には、雨が降っている。……何をやってるんだろうな、俺は。傘を畳みながら思う。そもそも今から体を鍛えてどうしようというのだろう、多分高校を卒業したら剣道とはおさらばだ。何も考えずに「じゃあ俺も明日から参加する」などと言ってしまったことを、榊は少しだけ後悔していた。自分も大概気分屋だ、さっきまで、いやこんな天気でなければ走る気まんまんだっただろう。
……原因は分かっている。気づきかけている、が認めたくない。それはたくさんのひとを裏切ることに繋がるような気がするから。俺はそこそこ幸せでそこそこ満たされている。想うなら別の誰かのほうがいい、そのほうが被害は少なくて済む筈だ。
「…………かえで?」
霧立ち込める雨の中、誰かの人影が見えた。何故それが楓だと分かったのかは分からない。直感だ、同時に確信でもあった。
ジャージの上にウインドブレーカーを羽織って、それでも視界は悪いだろうに白い息を吐きながら走っている。……なんで。そこまでする必要はないだろう、自暴自棄にでもなっているのだろうか。
「おい、かえ――」
彼女の名前を呼びながら、その後ろ姿を追い駆ける。――よくよく考えたら俺は楓のことを何も知らない。何を考え、日々どんなことを思いながら生きているのか。だから少しでも知りたかったのだろうか、距離を縮めたかった――?
「……楓ちゃん! 待てよ、止まれ!!」
自分でもびっくりするほどの大声を出してしまった。だがそれぐらいしなければ彼女には届かない気がした。事実楓はそこではじめて振り返り、榊の顔を見たのだから。
「榊せんぱい……?」
楓の頬には濡れた髪の毛が張り付いていて、例の三白眼を丸くしている。
――反則だろう、それは。
榊は思わず硬直してしまったが、そんなことを考えてる場合じゃない、楓のウインドブレーカーの袖を掴み、屋根のあるところへと引っ張っていった。
「おまえなんでこんな雨の日に走ってんだよ……えっと、その……ハゲるぞ」
女の子に対してハゲるぞ、とは何事だろう、と言ってしまってから思った。楓は目を伏せて黙っている。楓は実は榊が思うより繊細で、片や榊は無神経なのかもしれない。彼女が今どんな気持ちでいるのかも分からないのだから。
「……とにかくな、冷えるからな、風邪とかひいたら元も子もないからな……」
ああ、すげー馬鹿っぽい話し方だ。もっと整理してしゃべれないものだろうか。間を持たすために懸命に何かを言おうとすればするほど、間抜けになっていく。大体なんで一年の女子にこんなに気を遣わなければならないのだ、普通は逆だろうが……。
「……ぷっ」
そんなことを考えながらしどろもどろになっていると、楓が突然吹き出した。
「な、なんだよ……何かおかしかった?」
「いえ、すみません、なんだかバカバカしくなって……あ、先輩のことじゃなくて、自分のことが、ね……」
「……やっぱり何か悩んでるのか?」
「え? 別に何も。ところで先輩」
楓はようやくこちらを見た。さっきまでの憂いを帯びた表情ではなく、どこか吹っ切れたような笑顔だった。
「女よりも男のほうがハゲやすいんですよ。先輩みたいに色素が薄いひとは特に」
「ばっ……ふざけんな、俺がハゲるわけ――」
言いかけて榊は、四十で既に頭頂部が薄い父親の頭を思い出す。じっちゃんにかけては最早つるっぱげだ。その血を引いてる榊ももしかしたら……。
言葉に詰まった榊を見て、楓は白い歯を見せていたずらっぽく笑ってみせた。……この危ういバランスはどこから来るのだろう、少年のようで、それでいて男のそれとは違って、コドモのように無邪気で。
失くしちゃいけない、彼女は“彼女であること”を失ってはならないし、誰にも奪えない。
「ほら、榊先輩」
楓は空を見上げつぶやく。いつの間にか雨が上がって、雲の切れ間から陽射しが差し込んでいた。
「雨がやんで空が晴れたら、笑わなきゃいけないんですよ」
「…………ん。そだな……」
楓が何を言いたいのかはよく分からなかったけど、一緒に笑うことにした。嬉しいときには笑うのが一番だ、好きな子と二人で過ごせる時間ならば尚更。
なぞなぞが解けるまでには時間がかかるが、解けるのは一瞬だ。答えはすぐそこにあったが、榊はあえて知るまいとしていた。でももういいのだ、これ以上ごまかす必要はない。
心に絡まっていた鎖が、少しだけほどけたような気がした。