安藤和彦の葛藤 第一話
2011年12月 初稿
2012年02月 改稿
BGM by
夏祭り/JITTERIN‘JINN
若者のすべて/フジファブリック
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「ねえ先輩、最近安藤の様子が変だと思いません?」
二年の柏木がそう話し掛けてきたのは、午後の練習を終えた後、滴る汗を拭っている最中のことだった。
「変……ってどんなふうに? アイツもともと変じゃん」
三年生で、一応副部長を務める榊は、ぶっきらぼうにそう答えた。それを聞いた柏木はへらへら笑う。この気の抜けた笑顔は、ある意味彼の得意技で処世術だった。
「そりゃごもっともで。まあ部活中はちゃんと部活してるし、クラスでも大体いつも通りなんですけど……時々なんか、こうボケーッと一点を見つめてる、ような」
「ふーん、よく見てるな。……で?」
「でって……。先輩ノリ悪いすね。あんまり興味ない感じですか?」
あるかないか、と問われれば、どちらかと言えば前者ではあるのだが。付き合いこそそう長くはないが、彼らが属する剣道部の部員達は実際かなり仲が良かった。
「もちろん俺にできることがあればしてやりたいけど。アイツ、なんか悩んでんの?」
「ああ、うん、俺が思うにおそらくね…………」
柏木は何やらもったいぶっている。こいつは憎めないがどこか腹の読めないところがあった。対する安藤は実に単細胞で分かりやすい。嘘や隠し事が苦手で、考えていることがすぐ表情に出る。言われてみれば、確かに最近元気がなかったような気もしないでもない。
「早よ言えや、デコピンかますぞ」
「ヒィ、それは勘弁――」
柏木は大げさに額をかばう。それからやっとのことで自分の推理を披露した。
「……えっとね、あれは多分絶対、コイノヤマイです!」
「コ・イ・ノ??」
多分なのか絶対なのかはっきりしろよ、というツッコミも忘れて、榊は間抜けな声を出す。
「そう、こう、夜の空を見上げながらおめめをウルウルさせて――」
柏木は胸のあたりで手を組み、上目使いで必要以上に瞬きしてみせる。その演技に、榊も思わず吹き出さざるを得なかった。
「きんめぇー、いつの時代のヲトメだよっ」
榊と柏木は腹を抱えて大笑いする。
「なになになに、なんかあったん?」
第三の登場人物の声に、二人は揃って顔を上げる。……やはりというかなんというか、ご本人様の登場であった。
「おお、君はまさしく恋する安藤君ではないか」
榊は大仰に嘯いてみせる。
「……は?」
この時の安藤のアホ面はなんかの猿に似ていた。元々彼はハンサムでもなんでもなく、ひょうきんを絵にしたような顔立ちだったわけだが。
「この際だ、徹底的に取り調べを行うぞ。洗いざらい吐けばカツ丼が待ってるぜ」
柏木のニヤニヤ笑いと、お約束以外の何物でもない決まり切った台詞。安藤の、本能に似た危険回避信号が全力で点滅する。
――ヤバイ。ヤバイヤバイ、これ以上ここにいたら、俺はきっとプライバシーという名の衣服を身ぐるみ剥がされた上、全裸で晒し上げられるんだ……!
安藤の脳裏に浮かんでいるのはキリストのように磔になった自分の姿と、その周りを楽しげに踊り歩く先輩とクラスメイト、それからズンドコズンドコという打楽器のリズム……。そんな馬鹿げた空想をしている間にさっさと逃げればいいものを、要領の悪い彼の信号はたいして役に立たなかったようだ。
ガシッ。長身の榊のごつい腕が、安藤の肩にかかる。
「悪いようにはしない、ついてきたまえ」
……この瞬間、束の間の悟りを得た安藤の顔には、諦念を含む笑みさえ浮かんでいた。
さて、翌日である。部活が終わった後、榊は部長の稲葉にそれとなく話を振った。
「なあ稲葉、部活内恋愛って特に禁止されてたりしないよな?」
「なんだいきなり。……別にそんなの自由だと思うけど?」
榊はそうだよな、とかうーん、とかぶつぶつ呟いている。
「好きな子でもできたのか? しかも剣道部に?」
稲葉は問い返す。口には出さなかったが、よりによってこのタイミングで……と思ったのは事実だ。いや、もしかしたら榊には以前から気になる女子がいて、引退を機に告白しようと考えているのかもしれない。が、残念ながら稲葉の予想ははずれた。
「俺じゃねえよ、相談されたんだよ」
実際にはほぼ拷問に近い尋問、だった。その証拠に今日の安藤は、精気を吸い取られたようにぐったりしていた。
誰に――? 喉まで出かけた疑問を、稲葉は呑み込んだ。誰が誰を好きだろうと、それこそ個人の自由である。榊曰く“相談”を持ち掛けられたのは彼なのだ、部長とは言え、ここで稲葉が首を突っ込むのは大きなお世話ではないだろうか。そもそもクソがつくほど真面目な稲葉は、色恋沙汰の類が苦手だった。
若園学園高等部の剣道部は、人数も少なく幽霊部員も見受けられる小規模体制だったが、この場にいる稲葉と榊は大会では常に上位の実績を残している。そして間もなく、三年生にとっては事実上の引退試合となる夏の大会がある。稲葉はもちろん平素クールに見える榊も、やはり最後の大会で悔いは残したくないらしく、夏休みもほぼ毎日朝から晩まで竹刀を振っていた。まして彼らは受験生でもあるのだ。どんな形であれ進路が決まるまでは、胸を撫で下ろす暇もない。
そんなわけでいくら後輩が可愛くとも、最上級生達は自分のことで精一杯なのだ。正直あまり他人のことにかまけている余裕はなかった。
「そうなのか……。うん、まあ、頑張ってほしいな」
稲葉は上の空でそう言う。自分には縁のない話だ、と無意識のうちに言い聞かせながら。
「気になんねーの? 無関係ではないと思うけど?」
稲葉が急いでその場を離れようとしたのにはある理由があって、タチの悪いことに榊はそのことに勘付いていた。
「そんなだからホモなんじゃねーかとか噂されるんだよ。なんつーか……逆に不健全」
「いいよホモでもなんでも……。今は目の前の大会のことだけに集中したいんだ、余計な話を持ってこないでくれ」
そうして稲葉は立ち去り、残された榊はふう、とため息をついた。
剣道部主将、剣道歴十二年の経歴を持つ稲葉は今時珍しい好青年である。文武両道、信念を曲げないという意味では頑固だったが、決して頭が固いわけではなくむしろ性格は穏やかで面倒見もいいため人望は厚い。精悍という言葉がよく似合う、濃い眉毛と高い鼻の持ち主であるから憧れる女子が少ないはずがなく。が、しかし。同じように校内で羨望の的だった美少女でさえ、稲葉の頑強な城壁は崩せなかった。
そしてある日、親友で部活の仲間でもある榊は気づいた。稲葉はずっと、ただ一人の少女を想い続けているのだ。それは初恋の相手かもしれないし、もしかしたらなんらかの事情でどんなに恋い焦がれても手の届かない存在なのかもしれない。
榊は目を細めて思い出す――四ヶ月前、五人の新入生が正式に剣道部に入部した日のことを。