追放され「帰るところはない」と言われたので、帰らないところを作りました——お宅の箒は三月で腰が抜けます
朝の十本
ちくり、と掌を刺された。
握った穂が、指のあいだから逃げようとしている。朝いちばんに納めた十本、その三本目だった。四本目も、五本目も同じ。棕櫚の繊維が乾いたまま締められ、もう根元から開きかけている。
三月どころか、ひと月半。いえ、毎朝土間を掃く家なら二十日。二十日で腰の抜ける箒に銭を払わせるとは、なかなか勇ましい商いですこと。
「弥生。手を止めろ」
徳右衛門様の声が、締め場の端から飛んできた。わたくしは十本を揃え、飛び出した繊維を押し戻した。押し戻したところで、水を通さなかった皮は聞き分けない。人間より正直である。
「今朝の分は、どれも締め直したほうがよろしいかと存じます。皮の中まで乾いておりますので」
「また水か。濡らして、待って、そのあいだ手を遊ばせる。余計な手間ばかり覚えおって」
「乾くときに締まりますから」
「箒は糸で締めるものだ」
では、その糸に三月働いていただきましょう。棕櫚は横で昼寝でもなさいませ。
口へ出す前に、徳右衛門様が顎を上げた。
「今日かぎりで暇をやる」
番頭さんが帳面から顔を上げた。わたくしの手の中で、十本の穂がざらりと鳴った。
「六年お世話になりました」
「物分かりのよい顔をするな。この店を出たら、お前に帰るところはないと思え」
声は大きかった。乾いた棕櫚より、よほどよく店じゅうへ響く。
番頭さんはわたくしを見たあと、徳右衛門様の羽織の肩へ目を逃がした。よい羽織だった。あの厚みなら箒が百四十本。百四十本ぶん羽織って、水を一度も通さないとは豪勢ですこと。
「承知いたしました」
わたくしは十本を締め台へ戻した。店の糸には触れない。一本だけでも直せば二十日は延びるけれど、もうそれは、わたくしの二十日ではなかった。
* * *
風呂敷ひとつ
六年分の荷は、風呂敷ひとつに収まった。
着替えが二枚、櫛、針箱、欠けた湯呑み。締め針も小刀も店のものだから置く。半端な糸が畳の隙間に落ちていたので、拾って締め場へ返した。あちらのものを糸一本持って出たとあれば、番頭さんの帳面でその一本が大蛇ほどに育ちかねない。
「早いな」
裏口に喜助さんがいた。肩には、わたくしより小さな包み。六十七年も生きて荷がそれだけとは、身軽というより、世間のほうが喜助さんへ渡し忘れている。
「喜助さんも、お使いですの?」
「暇だとさ」
「本日は大売り出しですわね。奉公人を二人も放して、店内すっきり」
「箒屋だからな」
掃き出された、と。六文字で済ませるあたりが喜助さんである。わたくしなら番頭さんの羽織から始めて、徳右衛門様の下駄を箒四十本と査定し、昼餉まで喋れる。
店の者は誰も出てこなかった。番頭さんだけが帳場に座り、こちらへ向けた帳面の陰から、とうとう顔を上げなかった。
年季を切るなら本来は店から話を整えるものだとか、今月分の小遣い銭がまだだとか、言うことはあった。言えば腹が一寸ほど温まるかもしれない。しかし一寸のために、あと六年ぶん声を使うのは高い。わたくしは裏口の敷居をまたいだ。
「それで、喜助さんはどちらへ?」
「お前さんは」
「先に聞いたのは、わたくしですわ」
「帰る先は」
「先に聞いたのは、わたくしですわ」
喜助さんは懐から銭入れを出し、掌で一度だけ重さを量った。
「締めてみせな」
「何をですの」
「箒だ」
「どこで」
「決めてない」
「何本」
「それもだ」
計画が何ひとつない。あるのは銭入れと、箒を締めろという一言だけ。六年勤めた店から放り出された日の行き先としては、まことに頼もしくない。けれど喜助さんは慰めも事情も尋ねず、わたくしの手がまだ働くものとして話を進めた。
ならば、一本。まず一本なら、帰る先がなくても置く先くらい作れる。
* * *
最初の一本
借りられたのは、路地のいちばん奥にある四畳半だった。水場まで片道五十八歩。朝夕に六度ずつ運べば十二往復、ひと月で三百六十往復。箒に直す前に膝が箒になりそうである。
家賃を先に払い、残った銭で棕櫚の皮と締め糸を求めた。米を買えば糸が減り、糸を買えば米が減る。なんということでしょう、腹と箒が同じ銭入れで殴り合っている。
喜助さんは削った竹柄を壁へ立て、買ってきた棕櫚の皮をわたくしの前へ置いた。
「何本だ」
「皮だけなら五本。失敗すれば四本。喜助さんが夕餉を二回抜けば、もう一本」
「抜くのはお前さんだ」
「年長者を敬って申し上げましたのに」
「締めてみせな」
桶を抱えて水場へ行った。最初の往復は水、二度目は運ぶ途中で半分こぼした水、三度目こそ本物の水である。三往復で一桶。箒一本に直すと、いきなり腰へ悪い。
わたくしは皮を広げ、乾いた繊維の向きを指で探った。表だけ濡らしても仕方がない。折り重なったところを開き、水へ沈める。浮こうとする端を掌で押さえ、泡が細く上がらなくなるまで待った。
「まだか」
「まだですわ」
「もう水は入った」
「表には。急かすと、喜助さんの眉のように途中から跳ねます」
「俺の眉は売らん」
「売れませんものね」
水を吸った皮を引き上げ、両手で挟んだ。ねじれば繊維がよれる。押して余分な水だけを落とし、根元を揃え、粗いところを指で分ける。穂先の長さばかり眺めると、内側に短い繊維が溜まる。掃くたび、そこから腰が崩れるのだ。
喜助さんが竹柄を横にした。わたくしは一枚目を巻き、指一本ぶんずつ重ねて二枚目を添えた。
「右が厚い」
「乾けば引きます」
「三分か」
「二分と少し。三分引いたら、喜助さんの夕餉で埋めます」
「締めろ」
下締めの糸を一周させる。ここで力任せに引けば、外だけが固くなって中が遊ぶ。親指で根元を送り、糸を渡し、反対の掌で皮が逃げないよう受ける。一周。もう一周。少しずつ位置をずらし、湿った繊維がひと束として竹柄へ沿うところまで締めた。
喜助さんが結び目を押さえた。わたくしが糸を引き、喜助さんが指を抜く。二人ぶんの手で、一本ぶんの穂がようやく黙った。
「これでよろしいですわ」
「まだだろ」
「ええ。乾くまでは」
窓際へ吊した。西日を避け、風だけを通す。待つあいだに二本目へ手を出したくなったが、最初の一本がどう縮むかを見ずに次を締めれば、同じ失敗を五本並べることになる。失敗にも行列を作らせるほど、うちは広くない。
翌朝、糸を外して巻き直す箇所はなかった。乾いた繊維が内へ寄り、根元は固いのに、穂先はしなって戻る。喜助さんが柄を持ち、土間をひと掃きした。砂が一筋に集まり、細い塵まで穂の前へ寄った。
「三月」
「まだ使っておりませんわ」
「もつか」
「毎朝なら三月。水の多い土間でも、三月ほど」
「売れるな」
差し出された柄を握った。
何本売れば家賃になるかも、何月で表へ出られるかも、そのときだけ浮かばなかった。穂の戻る力が掌へ返ってくる。乾いて固くなるのではない。水を含ませ、待ったから、しなる場所を残したまま締まったのだ。
「わたくしは、六年、水を通してまいりました」
喜助さんは何も言わず、二本目の皮を桶へ沈めた。
* * *
形だけの月
最初の一本は、路地口に置いて三日目に売れた。二本目は五日、三本目は四日。四本目からは値を一文だけ上げた。喜助さんが「遅い」と言ったので、さらに一文上げた。わたくしの腕前より、喜助さんの返事のほうが値上がりに強い。
ひと月目は家賃と米。ふた月目は皮を二束多く買えた。四畳半には桶と皮と箒が増え、わたくしどもの寝床が毎晩半畳ずつ領土を失った。箒屋が繁盛すると、人間が立って眠るようになるらしい。
元の店の前を通ったのは、皮を仕入れた帰りだった。
店先には、以前と同じ太さ、同じ長さの箒が並んでいた。形はよい。形だけなら半年でも売れる。使えば、早いものでひと月。毎朝の土間なら、やはり二十日ほど。
奥では乾いた棕櫚の皮が、その日のうちに束ねられていた。番頭さんが糸を渡し、見慣れない若い手が力いっぱい引いている。根元は細くくびれ、内側の繊維が押し出されていた。
店先の水桶には日が当たり、ぬるくなっていた。わたくしは荷をいったん下ろし、桶の取っ手を持った。軒の影まで、ほんの二尺。水面が揺れ、桶の底が土を擦った。
「弥生?」
番頭さんの声がした。
「通りかかっただけですわ」
それ以上は言わず、皮の束を抱え直した。水を使うかどうかも、どれほど待つかも、もうあの店が決めることだ。一度移した桶を、二度移しに戻るほど、わたくしの腕は安くない。
裏店では喜助さんが、次の竹柄を削っていた。
「遅い」
「水桶ひとつぶんです」
「何月だ」
「知りませんわ」
「なら、一本締めろ」
水へ沈めた皮から、小さな泡が上がった。責める代わりに待つ。待つのは余計な手間だそうだけれど、その余計な手間が、今月の米になった。
* * *
三月目の掃き筋
三月目の朝、裏店の前に箒が二本並べられた。
一本は元の店で買われ、同じ土間を三月掃いたもの。穂が外へ開き、床へ置いても片側が浮いている。もう一本は、わたくしどもの最初の一本だった。穂先は少し減っていたが、根元を握れば束が押し返し、床へ下ろすと端まで揃って触れた。
町の使い手たちの手が、先に元の店の箒を取った。柄を傾け、土間を一度掃く。砂のあいだに細い筋が何本も残った。
「こっちは、もう端へ回すしかないね」
「竈の灰なら、あと半月」
「半月も要るかい」
品評会ではない。毎日使う箒を、次にいつ買い替えるか。それだけを決める声だった。だからこそ、飾りようがない。
別の手が、わたくしどもの箒を握った。根元を一度押し、穂先を床へ当てる。さっ、さっ、と二度。土間の砂が細く寄り、先ほど残った筋まで消えた。
握った人が、柄を持ち直した。もう一度、今度は軽く掃く。穂は曲がり、すぐに戻った。
「これは、まだ替えなくていいね」
「ひと月は」
「もっといけるよ。水場の脇を掃いても、腰があるもの」
わたくしは二本の箒を見た。元の店の一本にだって、棕櫚も糸も使われている。締めた手もある。ただ、水を通さず、乾く力を待たなかった。それだけの差が、三月ぶんの土間に残っている。
「次もこちらで」
使い手の一人がそう言い、古い箒を脇へ置いた。別の手が棚の新しい一本を取り、穂を握ってから銭を置く。誰も徳右衛門様の名を悪く言わない。誰もわたくしを持ち上げない。ただ、買う先だけを変えた。
お客の手が、わたくしの箒を覚えている。
一本なら何日、五本なら家賃の何月分。いつもなら勝手に走り出す勘定が、ぴたりと止まった。月数に直せないものも、あるのですね。
「喜助さん」
「なんだ」
「今の、お聞きになりまして?」
「聞いた」
「次も、と」
「聞いた」
「もう少し喜ぶところですわ」
喜助さんは新しい棕櫚の皮をわたくしの前へ積み、その上に締め糸を置いた。
「お前さんの締めに、町は月いくら払うかね」
そう来ますの。余韻ひとつ味わわせず、すぐ銭勘定。けれど胸の奥で小さく拳を握るには、ちょうどよかった。
ええ、見ましたとも。看板ではなく、毎日掃く手が決めたのだ。わたくしの三月に、次の一本を任せると。
「では、数えますわ。今月は十二本。来月は十五本。その次は——」
「数える前に締めてみせな」
「いま数えろとおっしゃったでしょう!」
* * *
空いた締め場
そのころ元の店では、納めの数が落ちていた。
これは後になって、番頭さんから聞いた話である。町の客が何も告げず、買い替えの折に別の路地へ曲がるようになると、帳面の空きだけが毎日少しずつ増えたらしい。
締め場には新しい者が二人入った。ひとりは力が強く、ひとりは手が速い。けれど乾いた皮は、強く締めれば内側が逃げ、速く巻けば重なりが偏る。出来上がる形は以前と同じでも、ひと月後にはまた客が減った。
やがて若い二人も別の仕事へ回され、わたくしの使っていた締め台だけが空いた。番頭さんは帳面を持ってその前へ立ち、徳右衛門様に「ここは誰を」と問われたところで返事が止まったという。日陰へ動かす者のいない水桶は、店先で朝から温まっていた。
(箒なんぞ、糸で締めれば誰でも——)
その日に来た客へ、徳右衛門様は店の名を先に出した。
「うちは代々、町の箒を納めてきた店だ。次の分も同じ数を揃えておこう」
客は店先の一本を取り、穂の根元を握った。指を離すと、開いた繊維が戻らない。
「あいにく、おたくの箒は来月には替えますので」
「替えるなら、うちで用意すると言っている」
「いえ。もう頼んでありますから」
客は箒を棚へ戻した。それだけだった。罵りも値切りもせず、買わずに戸口を出た。
徳右衛門様はしばらく店先に立ち、やがて羽織を持ってこいと番頭さんへ命じた。百四十本ぶんの立派な羽織をまとい、わたくしどもの裏店へ向かったそうである。
けれど、その日にはもう、裏店の戸に別の紙が貼られていた。
表通りへ移りました、と。
* * *
帰らないところ
新しい店は、表に二間、奥に四畳半あった。
表だけで以前の部屋とほとんど同じ広さである。なんという贅沢。箒を横へ置いても布団が追い出されない。桶につまずかず朝餉が食べられる。人間らしい暮らしとは、家具より先に箒と寝床の領分を分けることだったのですね。
戸口には、三月使われた最初の一本を借りて立てた。その隣に新しい箒を並べると、通りかかった手が穂を確かめていく。一本、二本と売れるたび、喜助さんが壁の札へ印を足した。わたくしが月数へ直すより早い。少々、腹立たしい。
喜助さんが、まだ何も記していない一本を差し出した。
「名を入れろ」
「店のですの?」
「お前さんのだ」
「喜助さんのお名前も」
「締めたのは誰だ」
「竹柄を削ったのは」
「弥生」
短い返事は便利である。人の反論を名前ひとつで片づける。わたくしは無記名の柄尻を撫で、炭火の脇に置いた焼きごてへ手を伸ばした。
そのとき、戸口へ影が差した。
「弥生」
徳右衛門様だった。羽織の肩は相変わらず箒百四十本ぶん。けれど前より薄く見えたのは、夏物になったからかもしれない。そういうことにしておきましょう。
「徳右衛門様。いらっしゃいませ」
「ずいぶん勝手なことをしたな」
「ご用の箒は、どちらの土間へお使いですの?」
「客ではない。話があって来た」
喜助さんは奥へ退かず、竹柄を削り続けた。しゃっ、しゃっ、と小刀の音がする。徳右衛門様はその音を止めさせるように一度見たが、喜助さんの手は止まらない。
「店へ戻れ」
宣告のときと同じ命令形だった。わたくしは焼きごてを炭火へ戻した。名を入れる前の柄尻が、作業台の上に白く残る。
「締め場が空いている。お前なら、すぐ以前の数を納められるだろう。喜助も下働きへ戻してやる」
「さようでございますか」
「戻れば以前どおり置いてやる」
置く。
箒なら壁へ、人なら店へ。置く場所を決めるのは、いつでも徳右衛門様であるらしい。
店先を、箒を抱えた客が通った。こちらへ軽く会釈をし、そのまま歩いていく。わたくしどもの一本が、使われる家へ向かっている。
徳右衛門様の手が、羽織の前を整えた。
「聞いているのか。今なら戻れると言っている」
「ええ」
わたくしは徳右衛門様を見た。
「帰るところはない、と伺いましたので。こちらで結構ですわ」
徳右衛門様の指が、羽織の襟から外れた。
「店の名がなくて、いつまで続くと思っている」
「そのご相談でしたら、箒をお求めになった町の方々へお願いいたします」
「弥生」
「ご用が箒でないのでしたら、次の仕事がございますので」
説教することはない。あの店の箒が何月もつかも、締め場がなぜ空いたかも、徳右衛門様はこれから好きなだけ数えられる。わたくしの六年を足して差し上げる義理は、もう帳面のどこにもない。
徳右衛門様の口元から、店主の余裕がすっと落ちた。拾う者はいなかった。やがて踵を返し、戸口の箒へ肩を触れそうになって避け、そのまま表通りへ出ていった。
喜助さんは見送りもせず、作業台から無記名の箒を取り上げた。
「次だ」
「本当に余韻をくださいませんのね」
「何月いる」
「ひと月ほど」
「長い」
「では、三息」
ひとつ。
戸口から風が入り、吊した棕櫚の皮を揺らした。
ふたつ。
喜助さんの削った竹柄が、作業台の上でまっすぐ光った。
みっつ。
「いただきましたわ」
焼きごてを炭火から上げる。柄尻へ当てる位置を決め、息を吐き、まっすぐ押した。焦げる木の匂いが立つ。離すと、白かった竹に二文字が残った。
弥生。
次は十五本。水場までの往復は減った。皮へ水を通し、締め、乾きを待ち、客の手へ渡す。これからの月数は、わたくしどもの店のものだ。
喜助さんが差し出した次の柄を受け取り、わたくしはもう一度、焼きごてを握った。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




