徒花
コポコポ……。
ヴーン……。
とある研究所の一室。
機械の駆動音と、水の音だけが響く静かな部屋で、男がぽつり呟いた。
「今度こそ……」
男の見つめる先……
薄暗い部屋の中心には、煌々と輝く円錐があった。
たくさんの管や配線に繋がれた水槽。
その中は培養液で満たされていて——
一人の女が、眠っていた。
生まれた姿のままの女もまた、たくさんの管で繋がれていた。
「……」
男は水槽から、自身の前にあるデスクトップへと視線を移した。
タッタッ、タタタッ。
男がキーボードを弾く。
機械から水槽へ、管の道を通る光。
モーター音が次第に大きくなっていく。
タタッ、タタタタッ。
「……」
男の喉が、大きく上下した。そして、
——タンッ。
ヴォオオオオ……。
男がエンターキーを押した瞬間、機械たちが大きく唸りはじめた。
「頼む……成功してくれ……!」
男は両手を握り、じっと水槽を見つめた。
ヴォン!!
大きな音と共に、水槽の底から液体が排出された。
液体が底をつくと、水槽のガラスも下がっていった。
男は一歩、また一歩と、女に近づいた。
ぴくっ。
女の手が、僅かに動いた。瞬間、
「——」
閉じていた瞼が、ゆっくりと開いた。
「……リナ。聞こえるかい……?」
男が呼び掛ける。
女は数回瞬きをしてから顔を上げた。
女の瞳に、男の姿が映された。
「うん……。聞こえるよ、央助さん」
「——!!」
微笑み頷く女に、男はくしゃりと顔を歪めた。そして——
「……っ!」
女の体を、力強く抱きしめた。
「成功だ! 僕の理想の彼女だ!」
「ふふっ、央助さんたら」
女を抱きしめながら歓喜の声を上げる男に、女もまたうれしそうに笑った。
***
「央助さん」
実験が成功して、数日が経った朝。
いつも通り、リナは央助が五時間眠ったことを確認してから起こしに来た。
「……リナ」
「ふふ、朝ですよ」
耳元で囁く優しい声に、央助は目を細めた。
(ああ……幸せだ)
央助は心の内でそう呟いて、穏やかな時間を噛み締めた。
「……いつもありがとう」
「もう、改まってどうしたんですか?」
リナは照れ臭そうに笑うと、締め切られたカーテンをそっと開けた。
眩しい光が、二人を包む。
「今日の朝ごはんはフレンチトーストですよ」
リナは部屋の出入り口へと向かいながらそう告げた。
「……」
央助の表情が、僅かに翳った。
そんな央助の様子に、リナは首を傾げた。
「あれ? 央助さん、フレンチトースト好きでしたよね……?」
「……ああ、好きだよ。
すまない。朝日が眩しくてね」
「あら、そうだったんですね。
ふふっ。コーヒーも淹れますから、テーブルに座って待っててくださいね」
リナは小さく笑って、部屋を後にした。
「……」
央助は既にリナが見えなくなった部屋の外を、暫く見つめていた。
***
「リナ」
別の日。
しとしとと雨が降り注ぐ午後、央助はソファに座るリナへと話し掛けた。
央助の声に、うとうとと首を揺らしていたリナははっと肩を揺らし、そっと顔を上げた。
「……あ、央助さん」
央助の姿を見て、リナは頬を緩めた。
そんなリナの表情に、央助も微笑んだ。
「そんなところで寝てしまったら、風邪を引いてしまうよ」
央助はそう言いながら、手を差し出した。
その手に、リナが手を伸ばす。
「そうですね。少しだけ、ベッドでお昼寝しますね」
ぴくり。
央助の手が、一瞬だけ揺れた。
「央助さん……?」
リナが不思議そうな顔で央助を見上げた。
「……」
央助は口元を緩めた。
「たまには、こんな風に手を繋ぐのもいいと思ってね」
重ねられたリナの手を、央助は優しく握り締めた。
顔を隠すように、リナは俯いた。
「……そうですね」
リナはゆっくりと腰を上げ、再び央助を見つめた。
「寝室まで、ご案内いただけますか?」
茶目っ気を帯びた瞳に、央助はうれしそうに頷いた。
「もちろんさ」
仲睦まじい二人の後ろ姿は、リビングの外へと姿を消した。
***
「じゃあ、僕は出掛けてくるよ」
玄関先。
リナが手渡したコートを身に羽織って、央助はリナにそう告げた。
「はい、お気をつけて」
「ああ……」
央助は小さく微笑んで、リナに背を向けた。
玄関ドアのハンドルを握って、ぴたり。
「……」
「央助さん……?」
いつまでもドアを開けない央助に、リナは戸惑いの声を漏らした。
央助が静かに振り返る。
「リナ、約束は覚えているね……?」
央助は真剣な面持ちでリナに尋ねた。
こくり。
「ええ。『一人で外出しない』……ですよね?」
笑って答えたリナに、央助の口元がきゅっと結ばれた。
「……ああ。分かっているなら、大丈夫だ」
「ふふっ、ちゃんと守りますよ。貴方との約束ですもの」
リナは右手の薬指をそっと上げた。
央助は小さく頷いて、リナの頭を優しく撫でた。
「……」
リナは目を大きく見開いて、央助をじっと見つめた。
ふっと、央助が笑う。
「いってきます」
「……いってらっしゃい」
ガチャッ。キィイイ……。
……パタン。
「……」
央助が出て行ったドアを、リナはじっと見つめていた。暫くして、
……ガチャン。
玄関の鍵が掛けられた。
リナは玄関前に立ったまま、一切動いていない。
「…………いってらっしゃい」
ぽつり。
リナは閉まっているドアに向かって呟いた。
***
ガチャガチャ。
錠を開ける金属音。
晩御飯の支度をしていたリナは急いで手を洗って、小走りで玄関へと駆けて行った。
ガチャッ。
ぱたぱたっ。
「おかえりなさい、央助さん」
「ただいま、リナ」
駆け寄るリナに、央助はそっと笑った。そして、
バッ!
「!」
リナの目の前に、大きな花束を差し出した。
赤とピンク、白の花が挿された花束。
「これ……どうしたんですか?」
リナは目を丸くして、まじまじと花束を見つめた。
「君は花が好きだろう? 花屋を見かけて、ふとね」
央助は花束に視線を注ぎながら、僅かに頬を染めた。
「さあ、受け取ってくれないかい?」
央助は視線だけを上げた。
「うれしい……もちろんです」
リナは目元を緩めて、両手で花束を受け取った。
「……いい香り」
手に抱えた花束を大切そうに見つめるリナに、央助は満足そうに微笑んだ。
「確か、前に使った花瓶が物置部屋の奥にしまってあったはずだ」
央助は靴を脱いで、物置部屋へと向かった。
リナもその後を着いて行く。
カチャッ。
「リナはそこにいなさい」
央助は壁際を指した。
リナは小さく頷いて、壁を背にした。
「電気は……この辺だったかな」
パチッ。
白い光が、部屋の中を照らした。
中はたくさんのダンボールが積み上がっていたが、どれも部屋の端に寄せられていて、人が一人通れる程の空間はあった。
央助は奥へと進み、ガサゴソとダンボールを漁った。
「……これだ」
央助は見つけた花瓶を持ち上げ、リナが待つ部屋の外へと戻った。
「早速水を入れよう」
「ありがとうございます、央助さん」
リナはふっと、まつ毛を下ろした。
「リナ、どうかしたかい?」
央助が尋ねる。
リナは花束を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「そのうち枯れてしまうことを考えたら、悲しいなぁって。
……数日だけ飾って、枯れる前にドライフラワーにするのはどうでしょう?」
リナが央助を見上げた。
はっと、リナが目を見開いた。次の瞬間——
——ガンッ!!
央助は、壁を強く叩きつけた。
「お……央助さん……?」
怯えた表情で、リナが央助を見上げる。
央助はぴくりと肩を揺らした。
「……すまない。立ち眩みがして、つい強く壁に手をついてしまった」
央助は赤く色づく手で、目元を覆った。
「まあ、それは大変……」
リナは心配そうに央助を見つめた。
「花は私が花瓶に挿しますから、央助さんはお休みになってください」
「ああ、そうさせてもらうよ」
央助は片手に抱えていた花瓶を床に下ろして、重たい足取りで寝室へと向かった。
寝室のドアを閉めて、ズルズルと力なくしゃがみ込んだ。
「……」
央助は両手で頭を抱えながら、瞬き一つせず、暫く床を眺め続けた。
***
「央助さん」
椅子に腰掛け、ぼーっとテーブルを見つめ続けている央助に、リナは声を掛けた。
央助が、ゆっくりと顔を上げる。
「体調不良が続いていますね」
央助がリナに花束を贈ってから、既に二日が過ぎていた。
この二日間、央助はずっとこの調子で、家から出ることもなく、睡眠と僅かな食事だけを繰り返していた。
「一度、お医者様に診ていただいた方が……」
「いや、そこまでする必要はない」
リナの心配を他所に、央助は首を振った。
「……そうですか」
沈んだ声で返すリナ。
央助はテーブルから視線を外さないまま、
「ああ、そういえば」
何かを思い出したかのように呟いた。
「冷蔵庫の中に、箱が入っていただろう?」
「箱……? あっ、あの薄い?」
「そうだ」
央助は静かに顔を上げて、リナに向かって微笑んだ。
「あれ、実は美味しいと有名な洋菓子専門店のチョコレートなんだ。
君と一緒に食べたいと思って、すっかり忘れていた」
「……!」
少しだけ元気を取り戻したような央助の様子に、リナはうれしそうに頬を緩めた。
「それなら、今お持ちしますね」
「ああ、頼むよ」
すぐ近くにある冷蔵庫へ駆けて行くリナ。
その後ろ姿に、央助はスッと目を細めた。
冷蔵庫から箱を取り出して、リナは央助の元へと戻った。
白く細い指が、箱の包装を解いていく。
「まあ、とても美味しそう」
蓋を開けると、数粒のトリュフチョコレートが並んでいた。
「そうだろう?
……さ、早く食べてごらん」
「ええ、いただきますね」
リナは一粒手に取って、そっと口に含んだ。
一回、二回噛み締めて、ぱっと目を輝かせた。
「とても美味しいです……!」
「それはよかった」
もぐもぐと口を動かすリナに、央助は口の端を上げた。
「たくさん食べなさい」
央助の言葉に、リナは首を傾げた。
「央助さんは食べないんですか?」
「君の幸せそうな顔で満たされてしまってね。今日は十分かな」
「ふふっ、そうなんですね。
それではあと二粒ほど、いただいてしまおうかしら」
「全部でもいいさ。また買ってきてあげるよ」
いつもの様子に戻ったような央助に、リナは目元をほどいて笑った。
「……」
幸せそうな笑顔を浮かべたまま、二つ目のチョコレートを摘んだリナを、央助は冷たい瞳で見つめていた。
***
「……」
リナが目を覚ますと、そこは研究室の中だった。
手脚は管に繋がれて、身動きが取れない。
リナはそっと、視線を移した。
「央助さん……」
デスクトップの前に立つ、央助の名を呼んだ。
リナの声に肩を揺らした央助は、ゆっくりと振り返った。
「……ああ、目を覚ましてしまったのか」
央助は優しく微笑んで、目の前の画面へと視線を戻した。
「安心してくれ。直ぐに終わるから」
タッ、タタッ、タタンッ。
「もう少し眠るといい」
キーボードを弾きながら落ち着いた声で話す央助。
リナは少しの間沈黙して——
「そうやってまた、
『理想の彼女』を作ろうとするのね」
リナは冷たく、央助に言い放った。
央助は勢いよく振り返って、怒気に塗れた歪んだ表情をリナに向けた。
「黙れ!! 彼女はそんなこと言わない!!」
つかつかと、早足でリナへと近づいて行く。
目の前まで来た央助に、リナは口の端を上げた。そして、
「……ええ。だって私、
貴方の愛する妻——『莉菜』じゃないわ」
リナは冷たく、央助を見下ろした。
「な……ぜ……?」
央助は驚愕の表情でリナを見つめた。
満足そうに、リナは笑った。
「むしろ、あれだけたくさんの感情や記憶を詰め込んで、どうして自分の思い描いた人間が作れると思ったの?」
リナは目を大きく見開いて、体を目一杯前に出した。
「宣言してあげる。
貴方はこの先何をしたって、『莉菜』を作ることはできない」
「あ……あぁ……」
「それなら、私が『莉菜』のフリをし続ける方が、貴方も幸せでしょう?」
リナは目を細めて、囁くように問い掛ける。
央助はガクンと膝をついて、頭を抱えた。
「さあ、央助さん。
……お家に帰りましょう?」
穏やかなリナの声。
央助は暫く呆然と床を見つめ、やがてゆっくりと立ち上がった。
タッ、タッ……タンッ。
央助が何かを入力すると、リナの体から管が抜けた。
リナは自身の手足から流れる血を一瞥して、部屋の端に掛けられた服を手に取った。
「……」
リナはきゅっと唇を噛んだ。
静かな部屋に、布の擦り切れる音だけが響く。
「……央助さん、終わりましたよ」
衣服を身に纏ったリナが、央助の元へと近づいた。
央助は立ち尽くしていて、微動だにしない。
リナが央助の手を取る。
それでも、央助の表情は変わらない。
「帰りましょう」
リナに手を引かれるまま、央助は覚束ない足取りで研究室を後にした。
***
「……」
リナは物置部屋の中心を見つめていた。
僅かに開けた空間に、横たわる椅子。
椅子の周りは濡れていて、つんとした臭いが鼻をつく。
目の前で揺れるそれに、ぽつり。
「貴方がそれを選んでくれて、よかったわ」
ポタッ、ポタッ。
雫が、床に落ちていく。
「私、どうしても許せなかったの。
……貴方が、私たちの宝物を壊したこと」
莉菜は側にあったダンボールを開けて、目を細めた。
「この部屋が……片付けられていたことにも、気づかなかったわね」
莉菜は静かに語る。
ダンボールから小さな衣服を取り出して、胸に抱えた。
カチャ。
自身の手元を見つめ、ゆっくりと右手を上げる。
「それでもやっぱり——愛しているわ」
——パァン!!
乾いた音。焦げ臭い匂い。
莉菜の体は力なく、床へと叩きつけられた。
物置の隅には、央助が買ってきた花が挿された花瓶。
はらりと、赤い花弁が落ちた。
(私も……今すぐ……)
莉菜は二人の姿を思い浮かべ、
そのまま静かに、瞼を閉じた。
徒花 end.




