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ep.3

 僕が、幾つの時の出来事だっただろうか。


 あぁ、そうだ。確か、授業参観の日だったはずだ。だって、教室の後ろや、壁や窓際に何十人もの大人が並んで立っていたから。ざわめきはないのに、空気だけが重かったのを覚えている。確か、僕は黒板に向き直ろうとして、後ろから小さな声を聞いた。


「ねえ、だれの保護者かな、あの人。親にしては若くない?」


 それは、何気ない声だった。誰かの視線が教室の後方を指した。その先に、僕が見慣れている顔があった。滅多に見ない私服姿で、他の大人たちに紛れて壁に背を預けて立っている。それは紛れもなく、渚さんだった。目が合いそうになった瞬間目線を逸らされた。渚さんはいつも、そうだった。それ以上、何もなかった。


 授業が終わった瞬間、教室の空気が一気に緩んだ。後ろに立っていた大人たちが動き出す。渚さんの姿はもう無い。僕は反射的に立ち上がり、走り始めていた。廊下に出ると少し遠くに渚さんの背中が見えた。僕は速度を上げる。渚さんの名前を呼んだ。呼ばれたことに気づいているはずなのに、渚さんは歩調を緩めない。


「渚さん!」


 もう一度大きな声で呼ぶと、止まってくれた。でも、振り返ってはくれなかった。



「…………来て、くれてたんだ。」


「時間が空いていた。私はこれから会議がある。夕飯は要らない。好きにしろ。」



 たったそれだけしか言ってくれなかった。渚さんの声は低くて、仕事の時と同じ声色だった。僕が何一つ口に出来ないまま、渚さんは校舎を出ていってしまった。僕には、それ以上渚さんを追いかけようとは思えなかった。だって、『僕が追いかけてもどうせ、渚さんはいつもみたいに拒絶するだろう』と思えてしまったから。



 渚さんの『時間が空いていた』という言葉が嘘だと気づいたのは、ずっとずっと後のことだった。あの日の朝から夕方まで、微生物の学会があったことを僕は後から知った。前日の夜中、渚さんが急に講演の辞退を申し出たらしい。


 渚さんは僕に、何も言わなかった。自分がどんなに重要な事を休んだのかも、何を犠牲に来たのかも。渚さんは、何も言わなかった。


 今なら分かる。

 あれは、僕のために、僕だけの為に、生みだされた時間だった、と。


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