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小説

二月の小さなアンゴルモア

作者: ちりあくた

 1999年、2月。


 洋子はノストラダムスの大予言を信じていた。同年の7月に、全ては終わりを迎えるのだと思い込んでいた。


 不信感。


 彼女はそれに苛まれていた。

 親も同級生も、「あの予言はホントなんだよ」と言うと腹を抱えて笑い出す。もしくは、ペットショップのボロ犬を見るような視線を向けられる。


 ……迷える羊は何も知らない。私だけが真実を知っているんだ。もう説得するのは諦めよう、私なりに最期の日々を過ごしていけばいい。


 彼女の脳内にはこんな思想が張り付いていた。思うがままに生きている彼女は、傍から見れば無敵だった。学校をサボって遠くの海へ出かけたり、いじめっ子の鉛筆を一つ残らず粉砕したり、教師のカツラを奪って逃げ去ったりしていた。

 頭の中は開放感でいっぱいだった。学校という小さな檻をぶち壊せたような気がして、彼女は満足げだった。


 だけど何か、物足りない。


「……みんな、バカなんだ」


 ある日の放課後、彼女は校舎の屋上でつぶやいた。見上げた空に浮かぶ雲は、忙しなく右から左へと移ろってゆく。一筋の冷風が頬を撫でる。ただそれだけのことで、彼女は無性に悲しくなって、目に浮かんだしょっぱい液体をゴシゴシと拭った。


 突然、入り口の方からガチャっと音がした。


「白石洋子さん、ですよね?」


 小柄な女子生徒の姿がそこにはあった。少女は、洋子のクラスメートの一人だった。

 洋子は彼女に対し、「色んな人に媚びを売ってる忙しないやつ」という印象を抱いていた。もちろん信用などはカケラもない。どんな生活をしていようと、どんな性格をしていようと、人が羊を対等に見ることはないのだ。


「……何の用?」


 彼女はフェンスに背をつけながら少女を見た。鋭い矢のような視線だった。自分を傷つけないように、相手を傷つけるように、極限まで研ぎ澄ました攻撃的な視線だ。


 だがその渾身の一撃も、少女には全く効果がないようだった。むしろ怯むどころか、不気味なほど真っ直ぐに洋子を見つめ返してくる。洋子は腹の底から湧き上がる恐怖を堪えつつ、続きの言葉に身構えるしかなかった。


「あ、あのっ、私っ……洋子さんとお友達になりたいんですっ……!」


「……は? なんで……」


 予想外のアプローチだった。洋子はてっきり、自分への敵意か哀れみ、もしくはその他マイナスな感情を向けられるものだと思っていた。


 ……絶対に裏がある。


 そんな考えに至るのは当然だった。客観的に見ても、居場所のない変人女に話しかける人間は稀だろう。

 罰ゲームか、意地悪か、興味本位か……。

 洋子はそんなことを考えながら、目の前の愚かな羊を睨みつけた。


 だが、飛び出てきたのは第四の理由だった。


「私、信じてるんです。ノストラダムスのあの予言を」


 洋子は驚いた。途端、小さな歓喜の芽が顔を出す。

 孤独。それが解消されるかも、という淡い期待を、彼女は首をブンブンと振り、一縷の風とともに断ち切った。


「嘘つき。何が目的か知らないけど、早く出てってよ。一人がいいの」


「……いいんですか」


「は?」


「あなたはただの人間で、予言がウソかホントか知ることもできない。そして、それを止めることも」


「何が言いたいの?」


「実は私こそが、あのアンゴルモアなんです」


「……嘘つき」


 その四文字を口にしてから、洋子は少しさみしくなった。

 元の予言にはこうある。


『1999年7か月、

 空から恐怖の大王が来るだろう、

 アンゴルモアの大王を蘇らせ、

 マルスの前後に首尾よく支配するために。』


 今は2月だし、恐怖の大王など来ていないし、彼女は仰々しく蘇ってもないし、何より全然首尾よくない。


「何のつもり?邪魔なんだけど」


「ほっ、本当ですよっ!私ちゃんと勉強しましたもんっ!」


「勉強とか言っちゃってるし……」


「……あ」


 だんだん相手にするのも馬鹿らしくなってきて、洋子は再び、あてもなく空を眺め始めた。そんな彼女の姿を少女は困り顔で見つめ、しばらくしてから口を開いた。


「そ、空見るのっ、楽しいですよねっ!」


「……楽しくないけど」


「やっ、やっぱり楽しくないですよね!そうですよねっ!」


 えへへ、とへらへら笑う少女。その笑みは萎れた向日葵のようだった。

 一方の洋子はむすっとした顔で空へ視線をやっていた。

 時間は単調に、そして確実に、運命の7月へと流れていく。


「……楽しくないなら、なんで空、見てるんですか?」


「落ち着くから」


 この何もない時間こそが洋子にとっては最高に有意義だった。

 洋子が予言を信じていたのは、彼女の現実への絶望、それに呼び起こされた破滅願望が一因だった。

 何もない、そんな場所や時間は都合が良かった。「やがて全ては消え去るのだ」という妄想、そのキャンバスとするのに最適だったのだ。


「あの……遊びに行きませんか?」


「行かない」


「きっと楽しいですよっ! 世界が終わったら、どこも行けなくなっちゃいますしっ」


「楽しくない」


「だって、カラオケもディズニーも海も、今だけじゃないですかっ。プリクラも映画も、アルバム聴くのだって」


「うるさいっ……!!」


 洋子は咄嗟に叫んでいた。

 少女の言うどれも、洋子はろくに知らなかった。一緒に遊ぶ友達もいなければ、親がどこかに連れて行ってくれるわけでもない。

 何もなかった。ただ、「世界の終わりを知っている」という優越感が、「世界に終わりがやってくる」という救いが、彼女を生かしていた。


「全部っ、あんたの言う全部、7月になったら消えてなくなるの! だから遊ぶなんて無駄なの! もう消えてよ、私は誰ともつるまないからっ!」


「7月……すっ、スターウォーズはどうなるんですかっ」


「見れないに決まってるでしょっ!!」


 ピシャリと音を立てて心を閉ざす。

 ほんっとうにくだらない。彼女は再び空を眺め始めた。


 やっぱり私をバカにしに来たんだ。


 惨めになっている心に気づき、彼女は静かに悟っていた。

 沈黙が流れる。

 まるで淡々と空を回る雲のように、ゆっくり、ゆっくりと時は過ぎていく。そこに突然、言葉の粒が一つ、水色の空へ溶け込むように落ちた。


「私、この前おじいちゃんが死んじゃって」


 少女の語りに対し、洋子は何も答えなかった。

 答えるのが、ちょっぴり怖く思えた。


「悲しかったんです。周りの人が死ぬの、初めてで。それでも私、大事なことを知ったんです」


 死をダシにしたお説教。

 そうは思えないほど、言葉の矢印は少女の内側に向いていた。自分の心を探るように、彼女は言葉を紡いでいく。


「おじいちゃん、死ぬ直前まで笑ってて。『死んじゃうのになんで』って聞いたら、『死ぬからだよ』って。だから、そうした方がいいのかなって」


 強い風が正面から吹き付ける。ぼうっと見た空はいつもより鮮明に映った。


「私、ずっと死にたかったんです。お父さんは叩いてくるし、お母さんは怒鳴ってくるし、本当の友達なんて一人もいないし、ずっと寂しかったんです……」


 寂しかった。

 その言葉は洋子の胸中に暖かなものを生んだ。

 少しだけ、顔は少女の方へ向いていた。


 少女は洋子の方をまっすぐに見つめて、か細い言葉を放つ。


「だから本当なんです。私っ、心の底から正しいって思えなくても……ノストラダムスの大予言、信じていたいんです」


 そのすがるような目は、洋子がいつも、鏡の中に見ているものだった。

 ああ、こう見えていたんだ。

 彼女はなんだか悲しく思えてきて、「そう」と短く返した後、久方ぶりにフェンスから背を離した。


「あんた……なんていうの」


「麻衣子です。私、持田麻衣子っていいますっ」


「まい、こ」


 麻衣子の方へ踏み出すのが怖かった。

 洋子が誰ともつるまない理由、それは恐れから来ていた。7月になればみんな死んでしまう。そうなれば、抱えているものは全て滅びる。友達だって、そうだ。


 何もない自分は悲しかった。だから、予言を信じた。

 予言を信じたからこそ、何もかもいらなくなった。

 悲しさは消えなかった。後からむなしさがやってきて、彼女の心はその二つで満ちていた。


「遊びに行きませんか」


「なんで、私なんかと」


「同じ予言を信じてるから、同じ方を向いてるから……」


 孤独。

 ここで一歩を踏み出せば、それは消えてなくなる。

 そして、7月に失われるものを手に入れてしまう。


 でも、もう彼女には耐えきれなかった。


「……行ってあげる」


 麻衣子の顔がぱあっと輝いていく。

 彼女ははずんだ声で言った。


「わぁ、ホントですかっ! ありがとうございますっ、えっと」


「……洋子でいい」


「洋子ちゃんっ!」


 麻衣子は満開の向日葵のように笑った。

 空には飛行機雲が一直線に描かれていく。

 洋子は、時間の進みが加速していくのを感じていた。


 嫌な気分ではなかった。

 どうせ全ては塵と化す。

 終わる世界では無意味なことかも知れない。

 でも。


 洋子は誰かと一緒に、笑って死にたいだけだった。

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― 新着の感想 ―
思春期の感情をリアルに表現できていると感じました。 逃避による破滅願望といった感じが、過度な説明もなく伝わってくるような、自然と洋子に自分を重ねられるような感覚がありました。 彼女らが1999年を超え…
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