第17話 消せど消えぬ影之深淵
世界が悲鳴を上げるよりも先に、欠片は静かに、地に潤いを与えた。
空は灰に沈み、大地には無数の死の気配が蠢いている。だが、それらはまだ衝突していない。
理由は一つ。
水ノ神が、地上に在ったからだ。
人の祈りも、神の命令も介さず、ただ流れるように。
彼の足元から広がる水は、血を洗い、腐臭を鎮め、死者の呻きを薄めていく。
それは慈悲ではない。救済でもない。“現象”だった。
遠く、異なる位相で、光と影が揺らいでいる。
だが水は振り返らない。見上げるべき空はなく、応える声もない。
それでも彼は、地上に立ち続けていた。人であった頃の、あの温度を、まだ捨てきれずに。
水は、音もなく地を裂いていた。
否、裂いているように見えるだけで、実際には“在るべき形”へと戻しているに過ぎない。
ルプスは瓦礫の上に立ち、静かに大鎌を構えた。
《清龍流鎌》――柄に沿って流れる水が、刃の縁で淡く発光する。揺らぎはなく、風もない。ただ、鎌と水と、彼自身が、一つの大河となっていた。
前方、崩れた街路を埋め尽くすようにアンデッドが溢れている。
呻き、腐臭、歪んだ魔力。生前の記憶を失ったそれらは、ただ“生”を模した衝動だけで動いていた。
「……来い」
声は小さく、しかし水は応えた。
一歩踏み出した瞬間、地面に広がる水面が跳ね上がる。鎌が描いた軌跡に沿って、水が刃となり、流線を成して走った。触れたアンデッドは、斬られたというより――洗い流された。
骨は崩れ、呪いは希釈され、魂の残滓だけが淡く蒸発していく。
血は残らない。叫びも、長くは続かない。
「……終わりだ」
水面が静かに凪ぐ。
それは裁きではない。
赦しでもない。
ただ、水が低きへと流れるように、ルプスは地上で、役割を果たしていた。
地が乾き、死は澄んだ。残ったのは沈黙だけだった。
だが、ルプスは鎌を下ろさなかった。降ろせなかった。
――まだ、終わっていない。
瓦礫の影から、ゆっくりと立ち上がる影があった。
数は少ない。だが、先ほどまでのそれらとは、質が違う。
濁った瞳の奥に、微かな光が残っている。生前の記憶か、未練か、それとも別の何か。
アンデッドでありながら、完全には“死んでいない”。
「……厄介だな」
呟いた声は、自分のものだと分かっているのに、どこか遠い。
胸の奥に、鼓動はない。呼吸も、意識しなければ流れない。
――ああ、そうだった。
自分も、同じ側だ。
流れ征く水鎌を握る手に、冷たさも温もりもない。
それでも水は応じる。血の代わりに流れるものが、すでに水と同調しているからだ。
地が乾き、死は澄んだ。もう、沈黙すら残らない。
異質なアンデッドが、魔力を軋ませて踏み出す。
咆哮が街に響く。だが、その音はルプスの内側には届かない。
「……せめて、苦しまないように」
その言葉が、祈りなのか、自己満足なのか。
彼自身にも分からなかった。
鎌が振るわれ、水が世界を撫でる。
今度は、洗い流すのではない。深く、静かに、沈める。
水面が閉じ、影は泡となって消えた。
ルプスは、空を見なかった。そこに、見るべきものはもうない。
水は、すでに引き始めていた。
いや、違う。
もとから、ここに水は無かった。
濡れた瓦礫の隙間から、微かな声がした。
生きている。それは、確かに“人の音”だった。
ルプスは鎌を肩に預けたまま、そちらへ歩く。
水は道を示さない。ただ、彼の足元で自然に分かれていく。
瓦礫の影にいたのは、幼い子どもだった。
泥にまみれ、震えながらも、瞳だけはまだ澄んでいる。
「……水が、きれい」
か細い声だった。
子どもは、空ではなく、地面を見ていた。
ルプスは何も言わない。
言葉を持たない者が神であることを、彼はよく知っている。
子どもの足元に、最後の水が残っていた。
それは血を洗い、死を流し、しかし濁ることなく、今はただ、空を映している。
「だいじょうぶ?」
問いは、祈りの形をしていなかった。
ただ、生き残った者が、そこに“何か”を確かめるための言葉だった。
ルプスは、ほんの一瞬だけ立ち止まる。
そして、水を完全に引かせた。それは幻影だったかもしれない。
ただ、もう、どうでもよかった。
子どもは転ばなかった。地面は、もう崩れない。
それを確認してから、ルプスは背を向ける。
振り返らず、空も見ず、ただ地上を離れていった。
残された水たまりに、風が触れる。映った花が揺れる。
揺れた水面を彩る空は、どこまでも静かだった。
肩に預けた鎌に、視線を落とす。
水は刃に沿って静まり、波打つことはない。
《清龍流鎌》は何も語らず、ただ在る。
――自分と同じだ。
使われ、振るわれ、記録されずに去る。それでも、鎌は濁らなかった。
水は消えたが、その影は記録の底で、いまだ澄んだまま沈んでいる。




