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死期近き王国  作者: まっちゃ
第三章 見えぬ幻想に馳せる罪
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第17話 消せど消えぬ影之深淵

世界が悲鳴を上げるよりも先に、欠片は静かに、地に潤いを与えた。

空は灰に沈み、大地には無数の死の気配が蠢いている。だが、それらはまだ衝突していない。

理由は一つ。

水ノ神(オケアノス)が、地上に在ったからだ。


人の祈りも、神の命令も介さず、ただ流れるように。

彼の足元から広がる水は、血を洗い、腐臭を鎮め、死者の呻きを薄めていく。

それは慈悲ではない。救済でもない。“現象”だった。


遠く、異なる位相で、光と影が揺らいでいる。

だが水は振り返らない。見上げるべき空はなく、応える声もない。

それでも彼は、地上に立ち続けていた。人であった頃の、あの温度を、まだ捨てきれずに。


水は、音もなく地を裂いていた。

否、裂いているように見えるだけで、実際には“在るべき形”へと戻しているに過ぎない。

ルプスは瓦礫の上に立ち、静かに大鎌を構えた。

清龍流鎌(せいるりゅうれん)》――柄に沿って流れる水が、刃の縁で淡く発光する。揺らぎはなく、風もない。ただ、鎌と水と、彼自身が、一つの大河となっていた。


前方、崩れた街路を埋め尽くすようにアンデッドが溢れている。

呻き、腐臭、歪んだ魔力。生前の記憶を失ったそれらは、ただ“生”を模した衝動だけで動いていた。

「……来い」

声は小さく、しかし水は応えた。

一歩踏み出した瞬間、地面に広がる水面が跳ね上がる。鎌が描いた軌跡に沿って、水が刃となり、流線を成して走った。触れたアンデッドは、斬られたというより――洗い流された。

骨は崩れ、呪いは希釈され、魂の残滓だけが淡く蒸発していく。

血は残らない。叫びも、長くは続かない。

「……終わりだ」

水面が静かに凪ぐ。

それは裁きではない。

赦しでもない。


ただ、水が低きへと流れるように、ルプスは地上で、役割を果たしていた。


地が乾き、死は澄んだ。残ったのは沈黙だけだった。

だが、ルプスは鎌を下ろさなかった。降ろせなかった。

――まだ、終わっていない。

瓦礫の影から、ゆっくりと立ち上がる影があった。

数は少ない。だが、先ほどまでのそれらとは、質が違う。


濁った瞳の奥に、微かな光が残っている。生前の記憶か、未練か、それとも別の何か。

アンデッドでありながら、完全には“死んでいない”。

「……厄介だな」

呟いた声は、自分のものだと分かっているのに、どこか遠い。

胸の奥に、鼓動はない。呼吸も、意識しなければ流れない。


――ああ、そうだった。


自分も、同じ側だ。


流れ征く水鎌を握る手に、冷たさも温もりもない。

それでも水は応じる。血の代わりに流れるものが、すでに水と同調しているからだ。

地が乾き、死は澄んだ。もう、沈黙すら残らない。


異質なアンデッドが、魔力を軋ませて踏み出す。

咆哮が街に響く。だが、その音はルプスの内側には届かない。


「……せめて、苦しまないように」


その言葉が、祈りなのか、自己満足なのか。

彼自身にも分からなかった。

鎌が振るわれ、水が世界を撫でる。

今度は、洗い流すのではない。深く、静かに、沈める。


水面が閉じ、影は泡となって消えた。

ルプスは、空を見なかった。そこに、見るべきものはもうない。


水は、すでに引き始めていた。

いや、違う。

もとから、ここに水は無かった。


濡れた瓦礫の隙間から、微かな声がした。

生きている。それは、確かに“人の音”だった。


ルプスは鎌を肩に預けたまま、そちらへ歩く。

水は道を示さない。ただ、彼の足元で自然に分かれていく。


瓦礫の影にいたのは、幼い子どもだった。

泥にまみれ、震えながらも、瞳だけはまだ澄んでいる。


「……水が、きれい」


か細い声だった。

子どもは、空ではなく、地面を見ていた。

ルプスは何も言わない。

言葉を持たない者が神であることを、彼はよく知っている。 


子どもの足元に、最後の水が残っていた。

それは血を洗い、死を流し、しかし濁ることなく、今はただ、空を映している。


「だいじょうぶ?」


問いは、祈りの形をしていなかった。

ただ、生き残った者が、そこに“何か”を確かめるための言葉だった。


ルプスは、ほんの一瞬だけ立ち止まる。

そして、水を完全に引かせた。それは幻影だったかもしれない。

ただ、もう、どうでもよかった。


子どもは転ばなかった。地面は、もう崩れない。

それを確認してから、ルプスは背を向ける。

振り返らず、空も見ず、ただ地上を離れていった。


残された水たまりに、風が触れる。映った花が揺れる。

揺れた水面を彩る空は、どこまでも静かだった。


肩に預けた鎌に、視線を落とす。

水は刃に沿って静まり、波打つことはない。

清龍流鎌(せいるりゅうれん)》は何も語らず、ただ在る。

――自分と同じだ。

使われ、振るわれ、記録されずに去る。それでも、鎌は濁らなかった。

水は消えたが、その影は記録の底で、いまだ澄んだまま沈んでいる。

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