アジサイの花屋
一歩一歩、長い階段を上っていく。
梅雨の時期にしては珍しく、青々とした空が辺り一面に広がっていた。
いつもは地獄のような終わりのない長い階段も、今日は雨上がりの清清しい風でそれ程苦にはならない。
まるで天国への階段だな。
僕は頂上付近を見つめてそう呟く。もし階段で行けるのなら、今すぐにでも行きたいくらいなのだが。
それで、何で僕がこの階段を上っているのかというと――
僕には一人妹がいる。いや、正確には「いた」だ。
彼女は一年程前に病気で他界した。名前を陽花と言い、名前通り明るく元気な子だった。元気がありすぎて手を焼くこともあったが、全然構わなかった。
年齢が離れているせいか、いつしか僕は彼女を妹としてでなく、娘のように可愛がるようになっていた。
陽花には夢があった。その夢を本人は何かある度に口にしていた。
「お兄ちゃん、私、お花屋さんになる!」
「お花屋さんか、そうか」
僕は彼女が夢を語る度に頭を撫でていた。すると彼女は言葉を続ける。
「丘の上のお店で、アジサイをいっぱい飾るんだ!」
「何でアジサイなの?」
「だって、私の名前なんだもの」
紫はないけどね。陽花はそう付け加える。僕が彼女にアジサイの漢字を見せた時、「陽」と「花」があることにとても喜んだ。それから彼女はアジサイが大好きになり、よく絵を描いたりしていた。
そんな中でも、特に彼女が好きな絵があった。小高い丘の上でアジサイに囲まれた花屋を彼女が営んでいる。その絵の端っこには、同じような服装をした男性もいる。
「陽花、これは誰?」
ある日、僕は彼女にそう聞いた。すると彼女は笑顔で答えた。
「お兄ちゃんだよ! このお花屋さんはお兄ちゃんといっしょにやるんだもの」
なるほど、確かによく見れば彼女が描く僕の絵に似ている。陽花の未来図では僕も花屋の従業員なのだ。
「それで、そのお花屋さんの名前は?」
「『陽花』!」
彼女は満面の笑みでそう言った。
そんな彼女の笑みも、今はもう見られない。陽花は病気でアジサイに囲まれながら笑みを浮かべて死んでいった。
彼女の笑みを見たのはそれが最後だ。
写真も遺影もしょせんは偽りに過ぎない。陽花の姿をしたニセモノ。そうにしか見えなかった。
ただ、たった一つだけ、僕が彼女の姿を投影してしまうものがある。
それを見る度に、僕は彼女の笑顔を重ねてしまうのだ。
ようやく長い階段の最後の一段に足を乗せる。目の前に広がるのは青々とした草原と、その端にある霊園。
僕は通い慣れた足取りで陽花の墓前に向かう。しばらく歩いて、一つだけ違った雰囲気を持つ墓の前で、僕は足を止めた。
昨日まで続いた雨の滴が、墓の両サイドに植えられたアジサイの上で輝いている。
僕は両手に持ったアジサイの切花を陽花の墓前に供える。
線香をたき、それも備えてから手を合わせる。
――お兄ちゃん、私、お花屋さんになる!
不意に陽花の声が聞こえた気がする。瞑っていた目をうっすらと開くと、眼前にアジサイの花が広がった。
満開のアジサイの花に囲まれた陽花の墓は、彼女が描いた花屋の絵のようだった。
その中の一つ、とりわけ大きな紫色のアジサイに、僕は陽花の姿を重ねる。その花は満面の笑みを僕に向けていた。
――丘の上のお店で、アジサイをいっぱい飾るんだ!
心地よい風がアジサイの花と僕のエプロンを揺らす。
不意にアジサイがそう言ったような気がして、僕は陽花にそうするようにその花を撫でた。
――このお花屋さんは、お兄ちゃんといっしょにやるんだもの
「また来るな」
アジサイにそう言って、僕はそれに背を向ける。背中にプリントされた「フラワーショップ 陽花」の文字を見せた。
刹那的に強い風が僕とアジサイの間を抜けていく。
――『陽花』!
ふと満足そうにそう言う陽花の声が聞こえた気がした。
久しぶりに書いたショート・ショートなので少々強引だったかもしれませんが、読了ありがとうございました。