第146章 窓口のない窓口
2027年11月26日 午前10時。
千葉県船橋市、体育館を改修した避難所。
壁にはブルーシート、床には段ボールベッドが並び、数百人の市民が身を寄せ合っていた。
その一角に「金融窓口」と書かれた仮設カウンターが置かれていた。机の上にはノートパソコンもATMもなく、あるのは厚紙で作られた整理札と、日銀から送られてきた「戦時預金証票」の束だけだった。
みずほ銀行の若手行員・大森は、防寒具の上から腕章をつけ、避難民の列に向き合っていた。彼は銀行員であるはずなのに、今日配るのは現金ではなく、米や缶詰に交換できる紙片だ。
最初に来たのは、子どもを抱いた若い母親だった。
「口座にお金は残っているんです。だから少し多く引き出せませんか?」
大森は静かに首を振った。
「すみません。引き出し制限は一人一日5千円相当まで。これは政府の決定で、私たちにも裁量がないんです。」
母親は唇を噛んで黙り、受け取った証票を見つめた。それは彼女にとって、生活費ではなく「生きる権利」を示す紙にしか見えなかった。
次に列に現れたのは高齢の男性だった。震える手で通帳を差し出す。
「ここに、退職金を全部入れてあるんだ。家も焼けて、残ったのはこれだけだ。だから、全部下ろさせてくれ。」
大森は深く頭を下げた。
「申し訳ありません。通帳の残高は記録されていますが、一度に全額を現金化することはできません。証票に引き換えて少しずつ配給を受けていただく形になります。」
老人の目に涙がにじんだ。
「積み立ててきた金が、紙切れ一枚に変わったのか……」
大森の胸が締めつけられる。彼自身も理解していた。いまの日本で最も価値のあるのは金でも預金でもなく、缶詰と水、そして燃料なのだと。
行列の中には、怒りを爆発させる者もいた。
「ふざけるな! 俺の会社の資金が口座にあるんだぞ! 従業員を食わせるために必要なんだ!」
叫ぶ男性に、大森は必死で説明した。
「企業口座については別枠で、地方産業協議会を通じて申請していただくことになります。個人の窓口ではどうにもできないんです。」
「結局、お前たちは何もしてくれないんじゃないか!」
その怒声に、列の後ろの人々が息を呑んだ。だが、大森は逃げずに直立し、深く頭を下げ続けた。
「それでも、ここに銀行があると示すことが、私たちの役目だと思っています。」
午後になると、窓口の周囲は少し落ち着きを取り戻した。
避難所の子どもたちが興味深そうに証票を見つめ、「これでご飯もらえるの?」と尋ねてきた。大森は笑みを作って答えた。
「そうだよ。これを持っていれば、おにぎりも毛布ももらえる。大事に持っていてね。」
その姿を見ていた老女が小さく呟いた。
「銀行屋さんが、今は役所の人みたいになってるね。」
大森は返せなかった。だが心の中で思った。——自分たちはもう銀行員ではない。だが、人々の前で「まだ銀行はある」と示す、それが唯一の仕事なのだと。
日が暮れる頃、証票の束はほとんどなくなっていた。
大森は疲れ切った顔で椅子に腰を下ろした。だが、避難民の列は絶えなかった。
誰も彼を「銀行員」とは見ていなかった。だが、その机があるだけで、人々は「まだ社会が機能している」と信じることができた。
窓口のない窓口。
それは戦争に沈む国で、かろうじて残された「信頼の灯」だった。




