第148章 開戦前夜
― 2022年2月23日
夜のキエフは、不自然なほど静かだった。
兄は宿舎の窓辺に立ち、街の灯を見下ろしていた。いつもなら交通量の多い幹線道路は半分ほどが暗闇に沈み、灯りの消えたビルの影が黒い壁のように並んでいた。停電が断続的に起こり、街全体が深呼吸を忘れたかのように沈黙している。
市民の不安は街角に現れていた。ガソリンスタンドには車列が続き、燃料を求める車が次々と押し寄せていた。スーパーや薬局には長い列。中には夜通しの営業を諦め、シャッターを降ろす店舗もあった。人々は皆、分かっていたのだ。「明日が、その日かもしれない」と。
兄は義勇兵宿舎で支給された古びた毛布を肩にかけ、手帳を開いていた。手にした鉛筆の芯が震えている。書き残すべき言葉を見つけようとしたが、思考はすぐに砲声やサイレンの幻聴に遮られる。
——その瞬間、弟である佐伯二等海尉の視界に重なりが生じた。
艦橋にいたはずの自分の目に、別の光景が割り込んでくる。択捉島。吹雪に覆われた滑走路に、ロシア空軍のSu-35戦闘機が並び、搭載員が暗視ゴーグル越しに作業していた。地対空ミサイルS-400のレーダーが夜空をゆっくりと回転させ、探知範囲を北太平洋へ広げていた。
兄がキエフで聞く沈黙と、弟が択捉で感じるエンジンの轟き。二つの世界がひとつに重なった。
23日深夜、ウクライナ政府は全国に「非常事態宣言」を発出した。兄の耳には携帯ラジオからその声が届いた。国境ではすでにロシア軍の通信が傍受され、部隊移動が観測されているという。
宿舎の仲間の一人が小声で言った。
「始まるぞ……間違いなく。」
外では、志願兵が最後の点検をしていた。古びたAKM、即席の防弾ベスト、街で調達した消火器改造の火炎瓶。誰も笑ってはいなかった。ただ、腹を括ったように黙々と手を動かしていた。
弟の胸は締め付けられた。彼には別の光景が同時に見えていたからだ。択捉島の港。輸送艦から降ろされたコンテナに赤い星印が描かれ、積み荷の中から新しい弾薬が運び出されていた。陸揚げ作業に参加する兵士は北朝鮮訛りのロシア語を話していた。——北朝鮮の残余兵力までもが極東に吸収されている。
「欧州で明日が来れば、極東も同じ“明日”に突き動かされる……」
弟は艦橋で呟いた。兄の記憶が語りかけているのか、それとも未来の現実が自分に答えているのか、もう区別がつかなかった。
23日夜。キエフの空に、低空を飛ぶ航空機の唸りが響いた。市民は窓を開けて空を見上げたが、それはウクライナ空軍の最後のパトロールだった。MiG-29が市街上空を旋回し、光を放って消えていく。その飛行を見上げる市民の顔は無言のまま、拳を握りしめていた。
兄は手帳に短く書いた。
——「恐怖はある。だが逃げ場はない。ならば戦うしかない。」
弟はその言葉を心の中でなぞりながら、同時に択捉島の管制塔を見ていた。Su-35が離陸灯を点け、雪煙を巻き上げて滑走を開始している。音速近くに達したその機体は北の空に消えた。照準はウクライナではなく、太平洋のどこかを指しているのだと、弟は直感した。
日付が24日に変わる直前。キエフ市内の灯が一斉に消えた。計画停電なのか、攻撃に備えた措置なのかは分からなかった。ただ街全体が闇に沈み、誰もが息を潜める時間が訪れた。
その暗闇の中で、兄は窓に映る自分の顔を見つめた。義勇兵として来たはずの自分が、まるで死者のように見えた。
「明日、俺はここで何を見るのだろう。」
弟はその問いをそのまま自分の胸で受け止めた。
「明日、俺たちはどこでその“砲声”を聞くのだろう。」
そして理解した。
——兄の記憶は過去の記録ではない。未来への警鐘だ。
欧州と極東、二つの戦場の境目に世界は立っていた。
深夜二時。街は静まり返り、雪は細かく舞っていた。
兄は銃を膝に置き、目を閉じた。弟もまた艦の中で目を閉じ、鼓動を合わせた。
やがて、遠くから最初の轟音が聞こえた。
それが世界を変える一発目になることを、二人は同時に理解した。




