第147章 国境の砲声
2022年2月20日前後
夜のドンバスは、凍りついた静寂の中で突然破られた。遠くの地平線から、間隔を空けて砲声が届く。低い雷鳴のような音が数分おきに繰り返され、やがて十秒、五秒と間隔が詰まっていく。
ウクライナ政府軍の前哨陣地で待機していた兄は、塹壕の壁に身を寄せ、砲弾の着弾で震える地面を感じていた。頭上をかすめる破片の音。乾いた凍土が砕けて兵士の顔に降りかかる。義勇兵として合流した彼はまだ戦闘経験は浅かったが、そこにいる全員が悟っていた。「これは前触れだ」と。
——その瞬間、弟である佐伯二等海尉の視界が再び二重に揺らいだ。艦橋の計器の光がかき消え、暗視カメラの赤外映像が頭の中に流れ込む。
択捉島。雪原を走るロシア軍の車列が、熱源探知の白い光点となって画面に広がっていた。T-80BVM戦車の排気が赤く映え、砲塔には冬期迷彩が施されている。数十両の装甲車が列をなし、MLRSの発射機が雪上を滑るように移動していく。さらに、S-400防空システムの大型レーダーが回転し、極東の空を睨んでいた。
弟の心臓は跳ねた。兄が聞いているドンバスの砲声と、自分が見ている北方領土の増強が、同じ時間軸で折り重なっている。欧州でロシア軍が「前奏曲」として砲撃を始める一方で、極東でも着実に軍が牙を研いでいたのだ。
兄は東部の塹壕で、周囲の兵士と息を潜めていた。
「十秒間隔だ……あいつら、明らかに試してる。」
横にいたウクライナ軍下士官が時計を睨みながら低く呟く。ロシア側の砲兵は正確に間隔を詰め、圧力をかけていた。挑発であり、同時に照準確認でもある。
砲弾が前方に着弾し、火柱が上がる。耳鳴りが収まりきらぬうちに、兄の頭の中に別の音が割り込んだ。——雪原で戦車の履帯が軋む音。択捉島の映像が再び視界に差し込む。補給艦から雪上車へ燃料タンクが移され、兵士が氷点下でホースを結び直している。
「兄が聞いている砲声と、俺が見ている増強は、一つの鼓動なんだ……」
佐伯は艦の上で呟いた。兄の記憶は2022年、だが弟が知る2027年の現実と重なり合っていた。
兄の宿舎では、夜ごと電気が落ちた。市内では停電が増え、空襲警報の訓練が繰り返された。BBCは「ロシア軍が明日にも侵攻」と報じ、米国務省は「大規模攻撃は数日以内」と発表した。
その報道を見ながら、兄はノートに書き付けていた。
——「侵攻が始まれば、欧州全域が巻き込まれる。だが同じ瞬間、極東でも力の均衡が崩れるだろう。」
弟の胸に強い痛みが走った。兄は知るはずがない。だが弟には見えている。択捉島の港にはすでに新しい兵站倉庫が建ち、核弾頭搭載可能な潜水艦が停泊していることを。
兄が耳を澄ましていた砲撃音は、弟にとって未来の「警鐘」だった。欧州で戦争が始まれば、日本の国境も同じ炎に包まれる。その事実を、記憶の追体験は強制的に突き付けていた。
夜明け前、ドンバスの砲声が止んだ。だが兵士たちの目に安堵はなかった。むしろ「本番が近い」ことを全員が理解していた。
弟は艦橋で息を詰めていた。記憶の中で兄が震えた空気は、そのまま自分の皮膚に伝わってくる。二つの戦場が、同じ「開戦前夜」という時間に収束していた。
「ウクライナの国境で鳴る砲声は、北海道の北で響く履帯の軋みと同じ音だ……」
そう呟いたとき、記憶の幕が暗転した。次に目を開けば、世界はもう引き返せない一線を越えているだろう。




