第146章 キエフの空気 ― 開戦前夜の重圧
夜勤明けの艦橋に、佐伯二等海尉はひとり佇んでいた。タイムスリップという異常事態に巻き込まれて以来、彼は幾度となく「記憶の断層」に飲み込まれてきた。艦の甲板に立っているはずなのに、突然視界が揺らぎ、時代も大陸も異なる場所の記憶が押し寄せてくる。はじめは幻覚だと思った。だが繰り返し体験するうちに、それが「自分の兄の記憶」であることを悟った。
兄は2022年、義勇兵としてウクライナに入っていた。日本を発ち、ポーランド国境を越えてリヴィウから首都キエフへ。ロシア軍が侵攻する直前、まだ爆撃が始まる前の、あの緊張の極限状態に身を置いていた。弟である佐伯は、その記憶をなぞるように追体験させられていたのだ。
2022年2月15日。キエフ。
街にはまだ市民の生活が続いていた。カフェでは若者がコーヒーを飲み、子供たちは公園で雪を踏みしめて遊んでいる。だが街路のあちこちに軍のトラックが停まり、兵士が迷彩ネットを被せて装備を隠していた。
兄の視界を通して、佐伯はその風景を見た。耳に飛び込んでくるのはウクライナ国防省の発表を伝えるラジオ。
——「ロシア軍はすでに19万人を国境に集結させている。戦車部隊、砲兵旅団、航空戦力。ベラルーシとの合同演習は事実上の侵攻準備である。」
数字は冷たく突き刺さった。NATOの衛星写真も公開され、ベラルーシの演習場にはロシア軍のイスカンデルM短距離弾道ミサイルが林立していた。東部ドンバスでは親露武装勢力と政府軍の間で砲声が断続的に響き、「小競り合い」の名を借りた前哨戦が既に始まっていた。
街のスーパーでは水と缶詰の棚が空になり、市民は不安げに列を作っていた。だがパニックではなかった。ウクライナ人はすでに八年にわたり東部で戦争を続けてきた。次に来るのは「全面戦争」であることを知っていながらも、彼らは淡々と生活を続けていた。
佐伯は兄の胸の奥に湧く緊張を感じ取った。義勇兵として来たはずなのに、まだ銃は手渡されていない。配られたのは旧式の防寒具と粗末な食料だけ。だが市民兵や学生たちは古びたカラシニコフを手入れし、笑顔で「町を守る」と語っていた。
その時だった。視界が二重にぶれ、異なる映像が割り込んできた。
択捉島。雪と氷に覆われた極東の島に、ロシア軍の車列が展開していた。第40独立海軍歩兵旅団。T-80BVM戦車が並び、MLRS(多連装ロケット砲)が雪上を走る。岸壁には揚陸艦から物資が陸揚げされ、兵士が凍える手で対艦ミサイル「バスティオンP」のカバーを外していた。
佐伯は息を呑んだ。兄が見ているはずのウクライナの光景に、自分が知る「北方領土の増強」の現実が重ね合わさっていた。欧州の戦火と極東の軍拡が、一本の糸でつながっているかのように。
「二つの戦場が一つになっている……」
艦上の佐伯は呻き声を漏らした。記憶の追体験は幻覚ではない。これは兄の見た史実と、自分が立つ現在の現実が、時間を超えて重なり合う現象だった。
兄はキエフ郊外の宿舎に戻り、窓越しに街を見下ろしていた。遠くに広がる雪原の上空を、MiG-29戦闘機が低空で通過していく。だが彼らは知っていた。ロシア空軍は桁違いの数を誇り、Su-35、Su-34、さらにはMiG-31Kが極超音速ミサイル「キンジャール」を搭載してベラルーシに展開している。空を制するのは難しいと。
弟は艦の中で同じ恐怖を味わった。
「兄が見ていた空は、俺たちの未来の空かもしれない。もしロシアが極東に兵を振り向ければ、北海道もまた同じ冬を迎えるのだろう。」
街の灯は静かに雪面に反射し、遠くでサイレンが一度だけ鳴った。兄の胸に広がる緊張が、そのまま弟の心臓を締めつけた。
——これは過去の記憶ではない。未来への警告だ。
佐伯は拳を握った。
記憶の追体験は、兄の戦場をなぞるだけではない。極東の現実を直視させるために、自分の中に送り込まれているのだと。
そして彼は理解した。
「ウクライナの冬」と「北方領土の軍拡」は同じ時代の裏表であり、いずれ自分が立つ日本の戦場に直結する。
その確信とともに、記憶の幕は閉じた。




