第144章 叔父の記憶 ― 地下の国
花蓮の山腹を行軍していたとき、黄はふと足を止めた。湿った風の中に、土の匂いが不自然に濃い地点があった。地表は苔むした土盛りで覆われ、木の根が絡まっている。仲間の一人が小声で言う。
「……なんだ、ここ。盛り土か?」
黄は答えようとしたが、その瞬間、頭の奥にざらついた声が響いた。
——叔父の記憶だ。
彼の視界は再び半世紀前のベトナムに引き戻された。
南ベトナム・クチ地区。
地表に偽装された小さな穴を前に、叔父は拳銃を握り締め、体を丸めて潜り込んだ。狭い通路は人ひとりがやっと通れる幅。湿った土の壁に肩が擦れ、空気は泥とカビの匂いで満ちていた。
ローソクの炎がぼんやり揺れている。通気孔からは細い風が流れ込み、奥にはさらに分岐が広がっていた。武器庫、野戦病院、会議室、兵舎……ベトコンは地中にもうひとつの町を築いていた。地表を米軍が制圧しても、地下には別の国が生きていた。
突然、狭い通路に乾いた銃声が弾けた。近距離で撃たれた弾丸が壁に食い込み、土が崩れ落ちる。叔父はとっさに伏せ、短射で応戦する。火花と衝撃音が耳を裂く。闇の中で敵兵が倒れる音がした。だが彼が感じたのは勝利ではなく、圧倒的な恐怖だった。
「……地上を制圧しても意味がない。地中が残れば戦争は続く。」
叔父の声が黄の胸に突き刺さる。
視界が戻る。黄は仲間と共に花蓮の山中に立っていた。不自然な盛り土。そこには細い穴があり、草で覆い隠されている。彼は深く息を吐いた。
「聞いてくれ。叔父がベトナムで見たのは、地中に作られた町だった。補給路、病院、指揮所、全部が地下に隠されてた。地上を叩いても、地下に残っていれば戦いは終わらない。」
若い兵士が顔を強張らせる。
「じゃあ……ここも?」
黄は頷いた。
「おそらくそうだ。この盛り土は通気孔か出入口だ。敵はここに物資を隠している。もしそうなら、銃で撃ち合うだけじゃ終わらない。地面の下にいる奴らをどう無力化するか考えなきゃならない。」
伍長が短く唸った。
「地中に国を作る……か。まるでベトコンそのものだな。」
黄は言葉を続けた。
「叔父たちは“トンネル・ラット”と呼ばれ、拳銃一本で中に潜らされた。狭い通路で銃撃戦をし、ガスや火炎放射器で焼き払った。だが敵は別の出口からまた現れた。つまり、一つの穴を潰すんじゃ足りない。網全体をどう断つかが鍵だ。」
仲間の目が真剣さを増す。若い兵士が囁く。
「……黄、お前の叔父は生きて帰れたのか?」
黄は短く答えた。
「帰った。でも、あの時の恐怖は死ぬまで語っていた。足元にいつ罠があるか分からず、頭上にいつ銃弾が飛ぶか分からない。地上戦よりも心を削られる戦いだったって。」
彼は盛り土を見据え、声を低くした。
「俺たちも同じだ。敵を探すなら地図だけじゃなく、この下を見なきゃならない。」
伍長は頷き、部隊に指示を飛ばした。
「偵察班、地面を調べろ。熱源センサーとファイバーカメラを持ってこい。地下にいるなら証拠を掴む。」
霧に包まれた花蓮の稜線。
黄の胸には叔父の言葉が重く響いていた。
——「地上を制圧しても意味はない。地中が残れば、戦争は終わらない。」
 




