第134章 不完全な国家の心臓
東京湾に浮かぶ〈大和〉艦橋の窓から、まだ黒煙を吐き続ける都心を眺めながら、蒼井惟人二等海尉は思い返していた。
五日前——、あの時、国家はすでに「死んだ」と誰もが思っていたのだ。
霞ヶ関の官庁街は一瞬で焼き尽くされ、官邸も地上部は崩落。総理を含む閣僚の安否は不明、国会も省庁も音を絶った。人々は「国家は消えた」と噂し、避難所では暴力と混乱が広がり始めていた。
だが、地下にわずかに「残滓」はあった。官邸地下危機管理センター、防災庁の地下会議室、そして地方の県庁地下庁舎。それぞれが火花を散らしながら独自に生き残り、互いに繋がらぬまま紙と口伝で指示を回していた。
官邸地下では、榊原総理とわずかなスタッフが残り、発電機の唸り音の中で「生存確認」だけを繰り返していた。
防災庁地下では、沢渡結衣が数名の職員をまとめ、紙片に記した避難所の状況を机に並べ、どの順で支援するかを決めていた。
だが、その二つの声は互いに届かず、ただ孤立していた。
転機はT+5時間——。
官邸地下と防災庁地下を結ぶ回線が偶然に復旧し、赤い非常灯の下で初めて両者の声が交わった。
「……政府はまだ生きている」
沢渡が絞り出したその言葉は、現場を支える職員や自衛官の耳に深く刻まれた。
だが声だけでは届かない。国民に、そして全国の行政に伝える回線が必要だった。
その役割を担ったのが、東京湾に浮かぶ〈大和〉である。
艦橋直下のCICに臨時の暗号装置が組み込まれ、〈大和〉は臨時の「国家通信局」と化した。
かつて戦艦だった艦体が、今は中継塔となり、官邸地下の命令を全国の消防・警察・自衛隊へ届ける。
最初に送られたのは、わずか二十秒の音声メッセージだった。
『こちら政府。政府は機能している。避難所の方々へ——水、医療、消火、通信、治安。七二時間、国家は生きている』
ノイズ混じりのその声は、古びた避難所ラジオや警察無線、消防の指令端末に届いた。
その瞬間、分散していた現場の歯車がゆっくりと噛み合い始めた。
多摩川沿いでは、自衛隊給水車が市職員と並び、列を整理して水を配り始めた。
新宿駅西口では、暴徒化しかけた群衆の前で、警察と陸自が二重列を組み、混乱を抑えた。
江東区の臨海部では、消防隊が〈大和〉から供給された水を用い、燃え続けた倉庫群を鎮火した。
どの現場も、政府が生きていると知ったから動いた。
命令系統は不完全で、情報も断片的だった。それでも、「一本の声」が背骨となり、各地の人間を立たせた。
いま振り返ると、あの瞬間が国家の再生の芽だったと分かる。
政府は完全ではなかった。地下に分散した小さな拠点が、辛うじて糸のような連携を持ち、〈大和〉という巨大な通信塔に収斂した。
その連携は脆く、いまもなお途切れがちだ。だが、あのとき零れ落ちそうになった国家の心臓は、確かに再び脈を打ち始めたのだ。
「……七二時間を支配する」
榊原総理がそう言った声が耳に残っている。
七二時間を超えた今も、その言葉は灯火のように生き残っていた。
蒼井は艦橋の手すりに手を置き、東京湾の風を受けた。
〈大和〉は戦艦としてではなく、国家をつなぐ最後の中継局として立っている。
それは敗戦を経ても、廃墟を越えてもなお、日本が「生きている」と証明するための最小限の政府だった。




