第132章 モスクワ・クレムリン
モスクワ・クレムリン 地下執務棟会議室(2027年11月13日 夜)
重厚な扉が閉じられ、赤いカーペットを踏む足音が途絶えると、室内には静寂が満ちた。
楕円形の卓を囲むのは、国防相、外相、参謀総長、治安機関長官、そして大統領本人。
壁には朝鮮半島の地図が大きく映し出され、北部はすでに「統制済み領域」と記されていた。
「主席は中国にいる。」
治安機関長官が開口一番に告げた。
「北京の特別区で保護されている。公表はされていないが、我々には確証がある。」
外相が眉を寄せる。
「つまり、中国は“正統政府の駒”を握ったということか。ロシアが北朝鮮全域を掌握しても、彼らはいつでも『亡命政府は北京にある』と主張できる。」
参謀総長が冷笑した。
「軍事的には無意味だ。我々が境界を封鎖すれば、亡命主席など声だけの存在。実際に指揮権を行使する力はゼロだ。」
だが大統領は頷かず、静かに外相に視線を移した。
「声だけの存在が、時に最も厄介だ。国際法の場では“誰が正統か”という言葉が動くことがある。」
国防相が資料を机に置く。
「既に第40独立海軍歩兵旅団は択捉に展開。北部全域も制圧済み。兵站は安定している。
問題は——日本が首都を失った今、米国が“代理権限”を口実に介入するかどうかだ。」
外相が頷く。
「米国にとっては、亡命主席よりも“核攻撃の残滓”を処理する方が優先だ。彼らに北朝鮮の未来を考える余裕はない。」
治安機関長官が低く付け加える。
「だが、中国は違う。彼らは主席を温存し、我々への牽制材料に使う。『必要なら北京に正統政府がある』と。つまり、いつでもロシアの統治に影を落とせる。」
大統領は長く息を吐き、卓上の地図に指を置いた。
「ならば、我々が先に“既成事実”を積み重ねる。」
「既成事実……?」国防相が問い返す。
「そうだ。北朝鮮臨時行政機構を我々の手で立ち上げる。軍政ではなく“暫定統治機関”。
旧北朝鮮の官僚や技術者を吸収し、ロシアの旗の下で行政を回す。これを国際社会に認めさせれば、亡命主席の居場所など影響力を持たない。」
外相が頷く。
「国連安保理は麻痺している。東京核攻撃後の混乱で、誰も北朝鮮の正統性を論じる余裕はない。ロシアが行政を実際に機能させれば、それが事実となる。」
参謀総長が低く付け加えた。
「問題は一つ。我々の統治を歓迎するかどうかだ。住民は?」
治安機関長官が即座に答えた。
「飢餓と混乱の中で、国内に残す価値はない。だからこそ意図的に国境を開き、住民の一部を韓国側へ押し流している。彼らは難民として処理され、我々の負担にはならない。」
国防相が冷ややかに笑った。
「そういうことだ。銃で抑えるより、群衆を他国に押し付ける方がはるかに効率的だ。我々が欲しいのは土地と資源であって、口減らしには難民が最適の手段になる。
大統領は最後に一言だけ告げた。
「主席が中国にいることは知っている。だが、声だけの存在を恐れる必要はない。
恐れるべきは“空白”だ。空白を放置すれば他国が入り込む。だから我々が埋めるのだ。」
室内に沈黙が広がった。
そして、その沈黙の奥で全員が理解していた。
——ロシアは、北朝鮮を“保護国”ではなく、“不可逆の領域”へと変えようとしているのだ。




